「広義の経済学」構想

 マルクス経済学では資本主義的富の基本形態を「商品」とし、さらに「商品」の二つの要因を「価値」と「使用価値」としている。
 で、例えばA商品が市場で決定される「均衡価格」は、A商品の「価値」言い換えれば投下労働量で決まるのであって、市場価格と価値との乖離は均衡価格である「価値」に収束する調整過程に過ぎないとされている。(ここでは単純化のために、価値の生産価格への転化は度外視しているが、後で触れる)
 言い換えれば何が商品価格を決めるのかと言えば、それは需要と供給ではなく、価値=投下労働量だという。それが価値法則である。
 これに対し、バヴェルクから批判されるまでもなくマルクスも自認しているように、市場の均衡価格は最初から価値=投下労働量とは乖離している。
(保守派の某評論家はそれをもって資本論をバカ呼ばわりしているが、それは単に己の読解力不足を晒すものだ。バカ言うヤツがバカや。)
 これに対するマルクスの説明は、利潤率をめぐる諸資本間の競争である。業種には商品単位当たり投下労働量の大小がある。もし価値=投下労働量どおりに市場価格が決まるのであれば、当然、労働力の比重が高く、それゆえ利潤率が高い業種に資本が集中する。するとその業種での商品は供給過多になり、価値よりも市場価格が下がり利潤率が下がる。逆に資本を引き上げられた業種では需要過多になり、価値よりも市場価格が上がる。これにより業種間において利潤率が平均化され、資本移動が止まる。このため個別市場では確かに商品価格が価値から乖離するが、すべての商品市場を全体としてみると、プラスマイナスの乖離が平均化されることになる。
 ちなみに人材派遣は労働力の比重が高いから利潤率が高いというのは間違いである。宇野派に近い某評論家が語っているのは、あくまで友人から聞いた冗談話であり、そんなおいしい業種なら、参入障壁がない限り利潤率の低い部門の資本が大量に参入して、結局マルクスの言うとおり利潤率は平均化される。いやしくも宇野理論に薫陶された者ならそんな基本を間違えるはずがない。
 言わば市場での需給による均衡価格への調整と、諸資本間の平均利潤率への競争による調整、この二つの均衡へ向かう調整により、総体としてみると総剰余価値と総利潤が一致する。それが価値法則だと言うのである。個別市場では商品価格は価値から乖離しているが、その乖離したプラスマイナスを総計すれば、総体としての労働価値と一致するわけである。
 まあ、そのことを数理モデル化して証明するのに苦労したわけだが、要するに利潤率が正なら搾取率も正だという命題が、マルクスの基本定理と称されたりするわけだ。
 以上は基本中の基本であまり面白くない。ここから面白くなる、かな。

  では貨幣市場の均衡価格である利子率を決めているのは一体何か? 価格は価値で決まるのであって、価値からの価格の乖離は調整過程に過ぎないというが、貸し付けられる貨幣の諸機能には労働価値が含まれてはいない。マルクスの言うとおり貨幣の「形式的使用価値」は社会的機能であって労働力で産出されたものではない。
 さらに、土地、株式など、労働価値を含まない「商品」のいわゆる「擬制価格」を決めているのは、一体何か?
 言い換えれば、市場の価格メカニズムは、単に労働価値である商品価値へと均衡するためだけの調整機能しか持ち得ないのか?
 どうもバヴェルクの批判をマルクス経済学者達は矮小化して捉えているのではないか、という疑問が生じるのである。何か本質的な問いが欠けているような気がする。
 マルクスおよび数理モデルによる説明が成り立つのは、財市場・金融市場・資本市場のうち、財市場についてのみではないだろうか。
 マルクス経済学の市場メカニズム軽視は、資本主義的富の基本形態を商品財としていることに起因する。そこで商品取引つまり財市場については、確かに数理モデルによって価値法則が証明されたので、需要と供給が果たす役割が調整としての二次的機能でしかなくなったわけだ。
 だが需要と供給は、価値と使用価値よりも根源的な概念だ、と私は思う。なぜなら、労働価値を含む商品以外のものについても需要と供給が成り立つからだ。需給概念が没概念であるように見えるのは、資本主義的需給(つまり商品の需給)に限定されているからに過ぎない。だが例えば売春は人類の歴史と同様に古いように、普遍的需給概念は資本主義に限定されるものではない。
 周知のようにエンゲルスは「広義の経済学」つまり資本主義社会以前の歴史を含む経済学を構想していた。それがなぜマルクスの資本論で、資本主義の法則解明に対象が限定されたのか? 諸説あるが、マルクスの片言(人間の解剖は猿の解剖の鍵)から察するに、資本主義の法則解明が人類の全歴史の法則解明に繋がると考えていたのだろう。古典派経済学に凝って、広義の経済学を否定したわけではあるまい。
 ということは商品の二つの要因である「価値」と「使用価値」との根源に、人類の全歴史に通じる普遍的需給概念が潜在しているとも考えられる。
 柄谷行人著「世界史の構造」は、かつて放棄された「広義の経済学」を現代において再興するものである、と私は思う。それぐらいのインパクトがある。  
 柄谷行人の「交換様式」概念は、資本論における「商品」概念に匹敵するものであり、まさに「広義の経済学」としての根源的概念である。その資本主義的形態が商品交換(交換様式C)にほかならない。それは全歴史の一部分なのだ。
 ただ柄谷行人はこの交換様式の運動法則を解明していない。ってか、最初から眼中にないわけで、それはおそらく反弁証法の立場に立つからだろう。だから交換様式ABCDの分類と経済人類学的知見との摺り合わせは示されているが、なぜその順番に推移するのかは不明である。交換様式Dが交換様式Aの高次元の「回復」であると言われてみても、その中間のBCへの推移を含めた全体の運動法則が解明されない限り、その「回復」は主観的願望にとどまるのではないか、と私は懸念する。
 もっとも、「世界史の構造」については、その反弁証法的立場それ自体を検討しなければ揚げ足取りになるだけだ。フーコーの「言葉と物」についてエピステーメーの運動法則が解明されていないと左翼がつまらない批判するようなものである。「世界史の構造」がマルクスの可能性を一歩進めた重要な著作であることは間違いない。ただ、私としては「交換様式」の発想を踏まえて、愚直に運動法則を模索してみたい。
 愚直に・・・ ということは反時代的に、ヘーゲル弁証法的に模索するということだ。(ニーチェが主流になっている現代ではむしろヘーゲルの方が反時代的であろう。)
 なぜなら柄谷行人が主張するように「交換様式」によって世界史を説明することは、「絶対精神」によって世界史を説明することと必然的に同じロジックになるからだ。
 宇野理論がマルクスと同様、資本主義に対象を限定したのは、商品交換様式の特異性に注目したからである。宇野理論に薫陶された柄谷行人がそのことを忘れたはずはない。その特異性によって交換様式Cには交換様式ABを駆逐する力がある。交換様式CはABとまったく別物なのだ。ABは共同体内部で人間関係に基づくが、Cは共同体外部で人間関係に基づかない交換である。それゆえ交換様式ABCDと一括することは交換様式の一般化に他ならない。一般化したうえで運動法則を捉えようとするならば、必然的に矛盾による弁証法が要請されなければならなない。
 これは前進なのか後退なのか?
 私には不明だが、理論のもつ仮説的意義を尊重するなら、一度は試してみる値打ちがあるように思う。

 とするなら「商品」に内在する価値と使用価値の二つの要因の矛盾によって「貨幣」「資本」へと弁証法的に発展するように、「交換様式」もまた二つの要因の矛盾によって弁証法的に発展するのではないか。その二つの要因こそが需要と供給である。(ああ、古いスタイルよ・・・)
 ところで需要と供給に矛盾があるだろうか? 
 人類を分散した存在として捉える限り需要と供給に矛盾はないように思われる。ある部分社会の需要不足は他の部分社会からの供給によって解消されるからだ。矛盾が成り立つとすれば、ただ一人の人間が同時に需要しかつ供給する場合のみである。
 それゆえ需要と供給の矛盾によって歴史の運動法則を捉えるには、全人類を一人の総体的人間として捉える必要がある。それが類的人間である。疎外論における観念論的概念を現実の概念へとリメイクしなければならない。
 例えば「資本論」において「必要」概念が出てくるのは労働時間の規定であるが、社会的平均的必要によって決まるというのは、類的人間を一人の人間として捉えたときのみ現実性をもつ。現代社会は、原料調達が南側諸国、加工がアジア諸国、商品開発が日本・欧米諸国と国際的に分業してゆく傾向にあるので、全人類の労働力を一つとして商品単位当たりに割り当てた労働時間が社会的平均的労働時間だとすることが、ますます現実性を帯びていく傾向にある。この現実の傾向を捉えれば、怠け者も勤勉な者も単純労働も複雑労働も外国人労働もすべて類的人間の様々な諸活動として一括しうる。
 ただし「投下労働量」とは潜在的理念であって具体的に観測しうる数値ではない。原料調達・加工・品質管理などが国際分業している現状においては厳密な就業時間のトレーサビリティなど各国の国情の違いにより実施不可能である。たとえそれが可能となったとしても、今この瞬間にどこかの国で技術革新が生じれば、類的人間総体としての必要労働時間は短縮して変化するのである。計測できないにもかかわらず現実に実在する。だからドゥルーズ的意味での潜在性なのだ。
 同様にある商品に対する需要は、一個人の効用心理とは無関係に、全人類が必要とする量によって客観的に決まる。
 で、労働生産物は財市場において需要と供給によって、類的人間総体の必要労働量と一致するように均衡価格が決まり、非-労働生産物は他の擬制市場(資本市場・貨幣市場・不動産市場など)において、類的人間総体の必要量と一致するように均衡価格が決まる。だが、その均衡価格は、財市場の単なる模倣であって、「交換様式」における需要と供給には必ずしもシグナルとしての価格は必要ではないし、実際、柄谷行人のいう交換様式ABにはそのような価格は存在しない。
 例えば交換様式Bについてみると、国家による保護と税との交換は需要と供給によるものでもあるが、市場価格抜きの直接取引であり、もし供給する税が需要する行政サービスと一致していなければ、その社会は長期的には存続困難となるであろう。言わば政治闘争が市場による均衡過程の代替となる。商品ではないから市場交換でないのは当然だ。
 そして価格抜きで需要と供給による交換取引がありうることが、資本主義社会においても市場価格が需要と供給によって価値から乖離する根拠となる。また、労働価値を含まない「商品」の擬制市場が成り立つことの根拠にもなる。
 私のいう需要と供給は市場万能主義とは無関係であり、交換様式の二要因として資本主義社会以前の、人類の歴史と同様に古くまた根源的な「広義の」経済学的概念である。この基本概念に基づいて人類歴史の法則を探求していきたい。当然、マルクスのいう論理と歴史の照応entsprechenが問題となる。
 いずれにせよ資本主義社会においては、類的人間が現実の概念になっていないのは確かだ。なぜなら類的人間が二つの種的人間に分裂しているからである。すなわち生活消費財を需要するだけで供給することのない労働者と、労働力を需要するだけで供給することのない資本家との二つの種的人間である。分業・交換の発展は需要と供給の矛盾の先送り的解消でもあれば、種への階級分裂を常態化する矛盾の表現でもある。
 ちなみに私はマルクス主義者ではない。マルクスの理論を進展させないかぎり、そう名乗る資格はないからだ。


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