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承認欲求は悪ではないし、認めていい

承認欲求、という言葉がある。
しばしば聞く表現だろう。
同時に、あまり良いイメージではないかもしれない。

あなたが、SNSで作品を発表するとしよう。
旅先で撮った写真、描いたイラスト、盛れた自撮り、自作の詩や小説。そんなものを世に出し、「もっと見てもらいたい」という気持ちで宣伝したとしよう。

そんな時、あなたに投げつけられる揶揄がある。
「承認欲求丸出し」というものだ。

「そんなに見て欲しいのか」
「目立ちたいだけじゃないか」
「そこまでして注目されたいのか」

そんな言葉をぶつけてくる人は、一定数以上いる。
あなたが人気者だったらなおさらだ。

このパターンは、twitterをはじめとするSNSでしばしば見受けられる。
傷ついた経験がある人も一人や二人ではないだろう。
似たような悪口に耐えかねて活動をやめてしまった知人が、私にも複数いる。

「承認欲求丸出し」という悪口がなぜそれほど「刺さる」のか?

自分が作品を出しているのは好きだからなのか。
それとも承認欲求からなのか。
そんな風に悩んでしまうからだ。

写真に例えるなら、「自分は撮るのが好きなのではなく、見てもらってチヤホヤされるのが好きなのではないか」と悩んでしまうのだろう。

そう悩むこと自体が純粋さの証ではあるのだが。

だがそもそも、承認欲求とはそんなに悪いものなのだろうか?

答えは否だ。明確に否だ。
むしろ私たちにとって、承認とは必須のものと言っていい。

マズローのピラミッドというものがある。
人間の欲求には五つの階層がある、という考え方だ。ご存知の方も多いだろう。

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生理的欲求と安全の欲求については説明するまでない。
所属と愛の欲求はいわば、コミュニティ所属への欲求だ。
家族、友人関係、学校、会社、趣味のサークル。SNSもここに含まれる。

次にくるのが、承認の欲求だ。
ここを通過しないと、自己実現に辿り着くことは出来ない。

言い換えれば、私たちにとって、他者からの承認は必須なのだ。

見て貰いたい?
多くの人に知ってもらいたい?
認知されたい?
すなわち——承認されたい?

当然のことだ。当たり前の心理だ。
恥じることはない。後ろめたく思うことはない。
もっと見てもらいたい、と思う自分を肯定して構わない。

作品をどんどん出せばいい。見て欲しい、とアピールしていい。みんなに認めて欲しいと思っていい。
それら自体は、何ら問題があることではない。

あなたは作品をつくり、皆から見える場所に出し、宣伝した。
それは決して容易いことではない。誇っていいし、自信を持っていい。
少なくとも、他人のすることにケチをつけるだけより100万倍マシだ。

もちろん、承認欲求は絶対的な正義ではない。
使いこなせば大きな原動力になるが、飲み込まれる危険性もある。いわば諸刃の剣なのだ。
「見て欲しいけど見てもらえない」で病んでしまう人がいかに多いことか。

大事なのは他人を、何より自分を責めないことだ。

写真を撮った。イラストを描いた。エッセイを書いた。
見て欲しい、と思って世に出した。
ちゃんと宣伝したにも関わらず、まったくといっていいほど反応がなかった。

そういう時に腐らないことだ。
凹まないことだ。
どうせ自分なんて、と病まないことだ。

どうすればいいのか考えよう。
改善しよう。行動しよう。
承認されなかったことを、次に続く糧にしよう。

そしてまた、やりたいことをやればいい。
言いたいことを言えばいい。
承認を求める心は、そのためのガソリンとなる。

繰り返すが、承認欲求は悪ではない。忌むべきものでもない。
あなたを突き動かし、遠くへと連れてゆく原動力になり得るのだ。

それだけは、覚えておいて欲しい。

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