【子どもを「褒める」のはいいこと?操作主義的に褒める行為じゃないですか?】
「よく子どもを褒めて伸ばしましょう。」
という言葉を聞きますが、
本当に、「褒めて、伸ばす」
このことがいいことなんでしょうか。
そもそも、褒めたら伸びるのでしょうか。
その褒めたところが伸びたとして、
それはその子が本当に伸ばしたいことなのでしょうか。
それとも「親や保育者が伸ばしたい」という大人の都合でしょうか。
「褒めて伸ばした子」は、その褒める環境がなくなっても伸び続けるでしょうか。
自己不信にならないでしょうか。
「褒めて、伸ばす」
という言葉自体に以前からモヤモヤしたものを感じていました。
ただただ「褒める」という行為自体には、
何の違和感もないのですが、
「褒めて、伸ばす」
その行為の裏側に、
「こう育って欲しい」「こんなことはしてほしく無い」等という、
いわば、
「褒める側の価値観に乗せる」
という裏テーマがあること。
これが違和感の原因でした。
これを
「操作主義的」というそうです。
これです。
この「操作主義的」に子どもと関わることに、盲目的なご都合主義が見え隠れしています。
これって、言葉を変えると
「条件付きの承認」です。
つまり、
目の前の子どものありのままも褒める。
もしくは、承認する。
とは真逆の行為で、
「野球をやって欲しいから、そこを褒める」
「片付けして欲しいから、そこを褒める」
「ピアノを習って欲しいから、そこを褒める」など。
それって、本当に子どもの可能性を伸ばしていると言えるのでしょうか?
どうも「親」や「大人」などの
声をかける側に主体性があり、
子ども本来の姿に主体性がありません。
大人のこちらの意図に、
こちらの都合に
導こうとすること、
そんな文脈を背後に隠し持って、
「褒める」ということ。
操作主義的な関わりに慣れてしまった子どもは、
主体性を当然持てません。
なぜなら、操作をする大人(承認をする大人)がいることで自己を保つからですね。
「褒めて、伸ばす」という関わりに、
そんな欺瞞を感じています。
極端に「操作主義的」に褒めるという事には、
子どもの本来の姿を奪う危険があることを認識したいところです。
じゃ子どもは褒めてはいけないのか。
いえ、そうじゃありません。
褒める時は、無条件で、ただただ私が思ったことを心から伝える。
それが大切なのです。
そこに、
野球選手にしたい、
勉強好きにさせたいなどの
操作主義的な感情を入れ込みません。
これを「愛護讃嘆(あいごさんたん)」と言います。
褒める時は、ただただ無条件に褒める。
それだけです。
一方で、
操作主義的に褒めることは、
全く忌みきらうということでは無く、
ケースによっては必要な場合もあります。
大切なことは、
それが盲目的に常態化していること、
「褒めて、伸ばす」を疑わずに
無意識に操作主義を続け、
子どもの主体性や自己形成を否定していることを認識することです。
これは、友人関係や職場でも同じことです。
「何かこの人、不自然に褒めてくるなぁ」
って人はいませんか。
あなたを褒めることで、「自分の都合の良い方向に伸ばす」という操作主義的な関わりをしてきているかもしれません。