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肩書きはいらない。

自分が何者なのか?
そんな疑問にこの数年(2016年10月から)向き合ってきた。
自分は何がしたいのか? 何ができるのか? 何によって人に貢献することができるのか? そもそも人から必要とされているのか? そんなことばかりをずっと心の奥底で考えていた気がする。
簡単に言えば「わかりやすい肩書き」が欲しかったし、承認欲求や前回の文章で語った無価値感などがそこに貼り付いていた。

でも最近感じているのは、肩書きなんていらない、ということ。
ちょっと前まで自分をひと言で表現する言葉が欲しいと思っていたけど、なんだかそんなものどうでもいいやと思うようになったのだ。
時代が風の時代に変わってことも影響しているのかも知れない。もしかしたら肩書きなんていうものは、土の時代の産物なのかも知れない、そう思うようになった。

人はいろいろと私のことを表現してくれればいい。
時にはウルフカードの人だし、時にはハワイに詳しい人だし、時には仙人みたいな人だし、時には子どもっぽいおじさんだし、時には印象もない人だ。
あるひとつの言葉に自分から「私はこういうものです」などと定義しなくていいと感じるようになった。そもそももうかれこれ10年くらい名刺さえ持っていない。

「何してる人なんですか?」と、人が集まる場所に行くと必ず尋ねられる。その度に答えに窮していて、俺はいったい何してるん人なんだろう? と自問自答しながら聞かれた人には、曖昧に、適当に、答えていた。
「何してる人なんでしょうね、自分でもよくわからないんです。ははは」と本気半分、冗談半分で答えていた。結局、肩書きが欲しいと思うようになったのはこういう些細な出来事がきっかけだったのだ。

でも本当に私を定義する肩書きなんてどうでもいいや、と思うようになったのだ。私という人間と関わる中でこういうことしている人なんだ、とその人が感じた私を受け止めればいい。
確かにいろいろと仕事のような趣味のようなことをマイペースにしている。このnoteのプロフィールのところにもとりあえずこんな感じかなということを書かせていただいているが、たぶん職種はよくわからない(笑)。
そんな不安定な自分を、こんな自分じゃダメだ、もっとしっかりとひとつの軸をもたなくちゃ、などと心の奥で罰していた。
だからこそ、自問自答を繰り返し、固定した肩書きという答えを見つけようとしていた。
でももうそんなものはいらないや、風の時代だし、変化しながら今やりたいことを、流れが来たものに対して、いいかも!と思ったら乗ればいいや、と思うようになったのだ。

きちんとした人から見たら(何がきちんとしたことなのか知らんけど)、そんなことじゃ社会性がないんじゃないか、責任感ないんじゃないか、と思うかも知れないけど、そもそもそれが今の私という人間だ。素直に認めよう。

ひとつだけ確かなこと。私はわたし。I am me. 
私はわたしという魂を生きている。私という個性を生きている。

でも本当にこれからの時代、何している人なのかという肩書きなどいらなくなってくるのでは、と思うことがよくある。
むしろ必要なのは相手を職業的に定義する「肩書き」やステイタスを定義する「役職」などより、どういう生き方をしている人なのか、どういうあり方で人と接している人なのか、という「生き方」や「あり方」に人々はフォーカスし始めている感じがしているのだ。

この人と一緒にいると……心地よい、癒される、安心する、笑顔が増える、スイッチが入る、豊かな気持ちになる…etc. など、心のあり方や生き方に共感を示す時代になってきている。
それこそが風の時代の雰囲気だろうし、物質的なものよりも、気持ちや感情的なものに重きを置いている人たちが増えているように感じるのだ。

上下的な繋がりから、フラットな繋がりへ、確実に時代は変化している。
抑えつけるのではなく、手をつなぐ。恐怖ではなく、愛をシェアする。
そのうち、「どんな生き方している(目指している)人なんですか?」そう尋ね合う関係が構築されていくのかも知れない。
世間的には不安要素がたくさんあるかも知れないけど、そこにフォーカスする必要もない。人生にひとつの正解などないのだ。
好きな世界を自由にクリエイトしながら、年齢性別人種を越えて同じ生き方を目指す者同士が手を繋いでより大きなものを創り上げていく。
個人的には楽しみな世の中になりつつあるな、と感じている。

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