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大人になってから読む児童文学

児童文学には、子供の頃に読み、大人になって改めて読み直して、ようやく「読んだ」と言える作品が多くあります。

児童文学は20年後にあけるタイムカプセルのようなもの。

錆びた缶から出てきた消しゴムやビー玉を見て「へえ、あの時はこれを宝物と思っていたんだ」としみじみするように、白いキャンパスのような子供の頃に感じたことと、大人になって色々と世の中を知ってから読んで感じることを合わせ鏡にできます。無数に現れる自分と出会い、そこに自分の進むべき方向が少し見えてくるというか。それはちょっとおおげさだとしても、子供と大人の自分がその本を読むことで成り立つ形があるんだ、と実感します。

子供の頃に読んで、大人になってから読むと面白かった本はコチラ!


ミヒャエル・エンデ『モモ』

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子供の頃、『モモ』や『はてしない物語』がとても好きでした。

大人になってから改めて読み直すと、ミヒャエル・エンデがなぜ“児童文学作家”と呼ばれることを嫌がったのか、非常によくわかります。

深い…深すぎる…。哲学的で…シニカルで…心の奥を見透かされていくようです。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
この有名なニーチェの言葉の前にあるのは「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない」という言葉だそうです。この一文がまさにモモの小説の中に感じられました。

50年近く前に書かれた話なのに、現代にも通じるエピソードが散りばめられています。むしろ、子供の頃にどういう感覚でこの作品を「面白い」と感じたんだろうか…と不思議になるほど。

またミヒャエル・エンデの作品には、『モモ』もそうなのですが禅問答のようなやりとりがあり、特にそれを強く感じたのは『サーカス物語』です。
ミヒャエル・エンデが禅に興味があったと知り、すごく納得しました。
禅問答は正解のない問題を、ひたすら考え続けてまた否定されては考えて、自分の中にある種みたいなものを見つける作業だと思うのですが、ミヒャエル・エンデの作品にもそういう『正解のない問題の正解を探し求めた結果、正解はないし自らがどうするかをひたすら考えていくしかない(それでいいのだ)』というような境地に至る作品が多いです。あくまでも個人的見解ですが。

子供の頃にミヒャエル・エンデの作品を全部読んでおけば良かったと後悔しております。


三田村 信行『お父さんがいっぱい』

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薦めておいてなんですが。
ミヒャエル・エンデの作品は子供の頃に「わーい、ファンタジー」と思って読んでいたのが、大人になって読むと「深い…よく考えると怖い…」となるタイプなんですが、これはちょっとトラウマになります。
小学生の頃に推薦図書だったかで読んで、めちゃくちゃ怖かったんですよ。ひたすらに怖かった。この表紙を見るだけで「うわ、怖い!」と反射的に思うほど。でも内容はハッキリとは覚えていない。なので、なにがそんなに怖かったのか。その正体を探るべく、30ン年近くの時を経て読んでみることにしました。

読了後、すごく納得しました。子供の頃にそこはかとなく感じていた恐怖みたいなものをえぐられるようなストーリーなんです。
「いつもと違う道をいったら、もしかしたら違う世界に行っちゃうかも」とか「ひとりで家にいると急にお父さんとお母さんが帰ってこない気がしてくる」とか「この家の子じゃないのかな」とか、そういう子供ながらの不安を全力で煽った挙句に、展開に救いがない。救いがないし、その救いのなさが、どこか現実的でもある。

星新一もそういうところを描くことがありますが、星新一は「もしかしたらありうる未来の話」だとすれば、これは「明日にでも起こるかもしれない話」

子供の頃にはきっと子供である主人公に同調してしまって一緒に不安を感じていたのが、大人になって読むと、良い意味でも悪い意味でも、大人側の気持ちもわかるというか。

子供の頃に感じていた、大人というものの得体の知れなさを、大人になった今はたいしたことのないものだとわかっているから、そこに生まれた余裕が「面白い話だなあ」と思わせてくれる。

そしてちょっと、この物語に恐怖を感じていた頃を羨ましくも感じます。

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