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或る真冬の瞬き

鋭く研ぎ澄まされた空気が互いに擦りあわされて生成されたような、望むあらゆる景色を白く染める霧が辺りを埋め尽くしていた。
私は駅の4番線のホームで、彼女の到着を待った。
改札の向こう側で待てない理由は無かったが、駅の掲示板映された電車の到着時間が迫るに連れて、足が自分の意志を持って確かな足取りで改札を潜り抜けた。
一段一段とホームに通ずる階段を踏みしめながら下ってゆき、足の裏から伝う静かな足音と振動、感触を味わった。
ホームは閑散としていた。
ずっと向こうで知らない鳥の鳴き声が響き、澄んだ空気を揺らめかせた。
私はただ日常的に繰り広げられる、一つの時間の中に生きる生命体であった。
が、名も無き鳥と同じ時間を生きている感覚が持て無かった。
私の身体の僅かなところで漂った濃霧が、静寂のホームが、私を消し去ろうとしていると思った。
この濃霧は生き物から抜け出した生命体のように濃くて艶めかった。
一切の音を孕むことなく、私の視線を白く濁らせ、行く宛のない鳥の鳴き声だけが白を突き破って鼓膜を震わせた。
揺るぎない真っ白な霧と鳥の鳴き声はどこか彼女に似ていた。

最後に彼女を連れてこの街を歩いた時も同じような白が辺りを埋め尽くしていた。
特に行先も決めずに歩いた。
人影が見当たらない風景も澄んだ空気も白い霧も似ていた。
彼女は隣にいながらも私を見ることなく白い風景を眺めながら優しく微笑んでいた。
足取りも軽くすらすらと進んで行く。
思わず彼女の後ろ姿を眺める形となってしまっていた。
彼女に比べ私の足取りは重かった。
すべて真っ白な霧のせいにしたかった。
私の中から生気を放出し、この霧を色付け景色を創造すればよかったのだろうか。
「もう、いいから、戻ろうよ」
「まだ少ししか歩いてないけど...」
「うん。もういいの」
「そう... 戻ろうか」
「ありがとう」
怒ったような、悲しむような、複雑な表情が私を見ていた。
その声は穏やかで滑らかで、なにより優しかった。
それはいつもの彼女の声だった。
私の胸の中で染み入るように広がり、だが消えることのない響きがあった。
私はその響きが大好きだった。
こちらに振り返り、歩み寄って私の頬に冷たい手が触れた。
そっと撫でて、そっと離した。
そのまま元の場所に落ち着くことなく私の手を軽く握り、何度か握った後に元の場所に戻って行き、振り子のように規則的な動きをし、私の横を通り過ぎて後ろの方へ歩いていった。
ゆったりと振り返り、同じように歩みを進めた。
彼女はさっきと同じように私の前を歩いていた。
白い霧がキャンバスのような役割をなし、薄らいだ景色に浮かび上がり、彼女は描かれた絵画の一部のようだった。
私は彼女が残した冷たい感触を確かめるように手を頬にあてがった。
が、彼女の痕跡が消え入りそうになったので、それを素早く制した。
彼女の横に素早く歩み寄って、歩幅を緩め、同じ流れにたゆたゆよう歩いた。
無言でこちらを振り向くと快い笑顔を向けたが、すぐに前を向いてそれから駅に着くまでこちら見ることがなかった。
霧は未だ辺りに漂ったままで、濃さも静寂さも何一つ変化がなく、街の人影もなかった。
「じゃあ、行くね」
と彼女は一言残し改札を抜けて、先ほどと同じ歩幅で数歩あゆみ、こちらを振り返り
「じゃあ、ね」
といい、笑みを浮かべた。
私も彼女に笑みを浮かべ、胸元で少し手を振った。
それを見ると、安心したように彼女はホームの階段に消えていった。
私は彼女が消えた改札の向こう側で
「またね」
とつぶやき駅を後にした。

あの日と同じような風景だが、私がホームに立っていることは違っていた。
あの時、彼女は「またね」と言わなかったな、と思った。
それが彼女の最後の言葉であって欲しかった。
彼女が私の前からいなくなって2年が経っていた。
あの日も今日と同じように冷たく突き刺さるようだった。
あの日より数日後、彼女は静かに息を引き取った。
私は渦巻く感情の渦中で言葉にならない怒号を叫び続け、涙となって溢れ出し、彼女が触れた冷たさを流し去った。
彼女に触れた暖かさが身体を穿ち、身体はみるみると発熱した。
その生命力を強く疎ましく思った。
彼女が眠る然るべき場所に静かさを感じた。
なんの変哲もない日常が人間の生命力を示すことを、たった今初めて理解した。
私が感じた彼女の手の冷たさは私の頬の暖かさを感じ、彼女の微笑みは私に生を教えてくれていたのだった。
私は彼女の通夜も葬式も出なかった。
彼女の頬はいつも暖かかった。
が、もうそうではないのだろう。
私の手のひらに残る温もりを、その冷たさで掻き消される事を許せなかった。
彼女の優しい笑顔を忘れる事をしたくなかった。
「じゃあ、ね」と言った彼女の存在そのものが、ただ今は会えないだけで、いつの日か、その日のために、どこかで存在していて、規則正しい鼓動を刻んでいる事を望んだのだった。

死という絶望的な壁を私は知らない。
彼女の笑顔も暖かさも匂いも優しさも、すべてを知っていた。
彼女も私の存在を知っていた。
今もなお彼女は私を知り続けているのだろうか。
霧の向こうから白い光が向かってくる。
私はそっと歩みを進める。
光の先に彼女の温もりを感じた。
光の前に立てば、私は霧散し散在し、冷めた物質になるだろう。
痛みさえ知る間も無く砕け散るだろう。
怒濤に訪れた衝撃は彼女の抱擁のように慈悲に溢れているのだろうか。
それを知りたいと思った。
彼女に会いたいと思った。
白い光はみるみると大きくなってホームに近づいてくる。
線路に吸い込まれるように足が向かって行く。
ホームの縁で歩みを止める。
先程まで眼前の世界を覆い尽くしていた濃霧は晴れ、雑音があった。
生命体が色付けした景色そのものだった。
と、同時に私は生を実感した。
縁にかかった足を後ろに戻し、勢いを増した足がもつれ後ろに尻餅をついた。
轟音と豪風を伴って電車がホームを通り過ぎた。
日常があった。
彼女はいなかった。
私は生きていた。
「大丈夫ですか!」
鬼気迫る形相で駅員が飛んできた。
「ええ。大丈夫です... すいません」
あたりがざわめき始め、私を撮る携帯電話のカメラの音が聞こえた。
そうか、自殺しようとしたのか、と思った。
ただ彼女に会いたかっただけだと思っていた。
霧が晴れたこの世界の空は青くて眩しかった。
彼女もこの空を見ているだろうか?
「いえ、なんでもないです。すいません。少し、クラっとなってしまって... 大丈夫です」
「気をつけて下さい!こんなところで...!」
群衆の好奇心に塗れた薄汚い視線を強く感じた。
その薄汚さは私なのだと思った。
素早く腰を浮かせてその場をかき分けるように後にした。

帰路はあの日、彼女と歩いた道であった。
白く濃い霧は晴れ、人が行き交う道があり、声があり、青い空があった。
彼女が目指した地平線の先には海が広がっているのだろう。
この道の先にある海の先で彼女が微笑んでいる。
そうなのだろう。
私の知らない場所から、私が彼女を想うように、彼女は想い続けているのだろう。
凍てつくような空気が風となり私の頬を撫でた。
その冷たさと優しさが彼女の美しく滑らかな手のようだった。
いつまでもその場でその風が温まるまで立っていたいと思った。
彼女のことを温めたいと思ったのではない。
その体温の交換を果たし、生を実感したいと思ったのだ。
彼女の笑顔も声も優しさも美しさも、私の中に残っていると知った。
私が生きる世界に彼女はいないのだろう。
が、生きる私の世界には生きているのだ。
それは永遠に続くのだろう。
彼女と対等な立場であるために死を選ぶ事は、彼女のためではない。
その意味をようやく知ることができたのだ。
見えないものを見ようと死を選ぶことに意味はなく、見えないからこそ見える努力をする、それこそが生きるということなのだろう、と。
この世界に彼女がいたということを私は知っている。
彼女は私がこの世界にいるということを知っている。
あの日と同じ歩幅で同じ早さで足を運ぶ。
その意味が他人には見えることはないが、私には見えている。
それだけで私は生きていけるのだ。

目の前には真冬の日常が連なっている。
その一瞬の瞬きに彼女の美しさが煌めいている。
私は笑みを浮かべた。あの日以来の笑みだった。

2015/12/12 冬と歓喜の訪れ

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