人見知りを脱却するというアンチテーゼ
人見知りを脱却したい!
と常々考えています。
私と話したことのある人は「人見知りだ」というと「絶対に嘘だ」といいます。
対人関係は自然であるけれど、複雑怪奇な代物です。
誰かと話す時はまさしく対人な訳だけれど、自分の存在を相手に植え付ける行為を容易に行えるほど人間ができていません。
「何を馬鹿馬鹿しい」
当然、そうです。
人見知りをする人間は自分という人間を殻で覆って閉ざしている、そういうわけではありません。
常にオープンです。
オープンだけれど周りと少し違っているが故に見つけて貰えないのです。
例えば、フリーマーケットがあります。
誰もが綺麗だとか面白そうだとか思う商品には人が集まります。
人見知りの人間は真っ白な皿のようなものです。
目にはつくけれど関心を持たれない。
これは容姿の話をしているわけではありません。
心の中の事です。
相手との会話で変容する白い皿です。
話せばツボになったり水差しになったりします。
それはお互いの気持ちの在りようがリンクした時に起こります。
しかし、相手の気持ちが上回ったとき自分の思うような形になっていないと気付き、関係性がそこで終わります。
その状態をみて人は人見知りだと断定するに至る、ように感じます。
人見知りではない人間の心の変容は目に見えてわかるものです。
一つの話題でいくらでも盛り上がります。
人見知りの人間はそれが断続的です。
この変容に答えはないから私もこの関係性には手を焼きます。
どうしたら正解なのか、と考える日々です。
ある日、皿の形を忘れてしまう時があります。
その状況を見て、「人見知りではない」と人は言います。
しかし、そういう時の自分は決まってどうでも良い関係性しか築けていないと思ってしまっています。
オープンであるけれど、自分の実体を掴めていない相手に対しての諦念です。
そうして、関係性は期間を開けるとなくなります。
では、どのようにすれば人見知りであるけれど人と話せる様になるのか。
それは相手の心の変容に気付くということです。
人見知りの人間は白い皿から基本的に動こうとしません。
変化待ちです。
変化する事は一種の恐怖です。
人見知りが溶ける瞬間にも同じようなことが起こります。
それは変化に対する恐れがなくなった時です。
なぜ、恐怖がなくなるのか。
多分、気付かないうちに相手の心の変容に順応し、己の気持ちの変容が過去形に達していた時です。
「運ゲーじゃないか」
これが運ゲーではなかったら、貴方はどうしますか?
私自身も現段階では運ゲーです。
しかし、対人関係が必須の仕事場で気づいたこれらのことも、以前に比べると恐るべき進歩です。
対人関係が頻繁にあると人見知りは多少薄れます。
しかし、根本的な部分は一向に変わりません。
やはり、相手の変容と自身の変容に向き合うことが大切だと気づきます。
人見知りを脱却したい!
この考えこそがアンチテーゼなのです。
脱却ではありません。
人見知りの理解です。
言葉遊びかよ、ってならないでくださいね。
自分がどのような時に人見知りを発動するのか、自分の心はどんな形をしているか、よくよく考えなければなりません。
私の場合は以下の3カ条です。
1.相手の気持ちを理解する。
2.心の変容に気付く。
3.相手の言葉に返答する。
一方通行では対人とは言えません。
対人関係はお互いの変容に気付くということです。
しかし、人見知りの人間は不器用であるが故に自然にこなすことができません。
自然でなければ人工で。
そうとなれば、論理的に自己と他者を理解するほかありません。
私も現在進行形系で人見知りです。
運ゲーで掴み取るほど対人関係は甘くありません。
それに気づいたのもつい最近。
地道に理解を深めて心を切り開きましょう。
対人関係の構築にあまり悲観的であってはなりません。
これは漸進性の課題です。
明日からの仕事頑張ります。
2019/01/06 寒空、終点の駅にて
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