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小中高と国語が大嫌いだった理由

私が本を読むようになったのは、大学生になってからでした。
それまで本というものを避けていました。
中学のときの夏休みの課題に必ずといっていいほどある読書感想文は巻末のあとがきを複写したのかというほど似たように書き写していたし、当然本を読んで書いたことなどありませんでした。
それは高校になっても変わることなく続いていました。
テスト勉強は記憶を問われるものばかりなので何とかやり過ごしていましたが、受験となると話は別で、問題が全く解けない自分がいました。
結局、大学受験は圧倒的に得意な日本史を倍プッシュして合格を手にのでした。

現在、国語に全く触れなくなった私がなぜ本を読むようになって、小説をちょっとだけ書くようになったかというと、それは自由になったからです。

国語を勉強しなくなって本には自由があると知りました。
それまで、設問に答えて、下線の文章からその意味を推測したり、「それ」「これ」は何を示しているか、何文字以内で答えよ、など完全な束縛の世界だと思っていたのです。

普段から読むスピードが非常に遅い私には問題を解くこと、初めから最期まで何かに従わなくてはならないことが苦痛でしかなかったのです。

大学が始まって数日後、私は本屋に立ち寄りました。
それまで、小説コーナーに足を踏み入れたことはなく、漫画コーナーばかりでしたが、なぜかその日は平台に展開された小説たちに目を奪われてたのです。

それまで、本を自分で買ったことも一冊読みきったこともほとんどない私は特に理由もなく一冊の本を購入しました。
東野圭吾さんの『手紙』でした。
今でもはっきり覚えています。

帰りの電車で読むとその面白さに胸を捕まれました。
こんなにも面白いものがあるのか、という衝撃と、自分のペースで自分の思うように誰の指図も受けない自由に、本来の読書のあるべき形を見出したのかも知れません。

『手紙』を読み終わると以前のような意識はどこか知らぬ彼方へ吹き飛んで行き、次は何を読もうか、と読書に対してわくわくした気持ちを持つようになりました。

次に読んだのは歌野晶午さんの『葉桜の季節に君を想うということ』でした。
いきなり、性的表現から始まり、買ったことを後悔したのを覚えています。
しかし、そんなことはどうでもよくなる内容でした。
こういう世界も存在していいのかという印象でさらに世界観が広がってゆく思いでした。

次に読んだのは東野圭吾さんの『白夜行』でした。
この本はまさしく私の人生を変えたといっても過言ではありません。
辞書のような厚さの小説でしたが、この物語に出会って登場人物の気持ちをリアルに考えることもできたし、細かな複線や文章の意味を物語のなかで感じることができました。
何より、それがたとえ答えでないとしても誰一人咎める人はいないし、この空間には物語りと私しかいないという安心感で集中してのめり込むことができたのです。

『白夜行』を読んだ夏、私はこの思いをどうにかして伝えたいという想いに駆られました。
そして、大学の書評大賞に応募するに至り、まともに感想文を書いてこなかった私が優秀賞に選ばれました。
何かに一生懸命になることの大事さを改めて教えてくれました。

それ以来、本をたくさん読んできました。
初めはエンターテイメントばかり読んでいたのですが、大学を卒業する前ぐらいに奇しくも『手紙』を購入した書店で芥川賞作家の藤野可織さんのサイン会の広告を目撃し、『ファイナルガール』を購入しました。
純文学の世界には途轍もなく深い世界が広がっているのだと知りました。
それ以来、若い作家の純文学作品を読むようになりました。

国語嫌いの私がここまで本を好きになるとは思いもよらぬことでした。
本を読んで物事を考える力もつきましたし、想像力も豊かになりました。
本の中では物語と私の一対一でした。
問題も回答も採点もすべて私の裁量次第です。
多分、今でも国語は嫌いです。
かぎ括弧の意味も、「それ」「これ」が何を指し示すか、どうでもいいです。
私はただ自由に物語と文章と向き合いたいと考えています。

2018/06/14 昔を想いだしての備忘録

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