自分の押し留めていた感情の放出

1人でも楽しめるけれど、独りはつらい。不意に独りが悲しくなる。1人を楽しめる独りじゃない人間に自分はなりたい。

人はわかりやすい楽しみに興味を向けがちだと思う。旅行、飲み会、異性遊び、など。それらを否定する訳では無い。どれも楽しいことには間違いない。しかし、それらを人生の楽しみにしている人は、それらだけが人生の楽しみにしているように感じる。休日があったらそれらにいそしむ。そんなルーティンが当たり前のようになっている気がする。人間の大多数がそれらを好きで、わかりやすい共通の楽しみだから。それらを好きなことが、それらにいそしむことこそが、人間の標準という考え。しかし、実際に楽しいこと、心が暖かくなる出来事は些細なことでも日常に溢れている。読書、映画、ゲーム、YouTubeならまだしも。ちょっと今日ビジュがいい。卵焼きが綺麗に焼けた。今日の服お気に入り。とか。楽しいこと、嬉しいことでそれらを真っ先に挙げる人は、みんなの楽しいの基準とズレていると思われる。友達いないんだ、かわいそう。ずっと家にいるんだ、かわいそう。そんなことしか楽しいことがないんだ、かわいそう。雰囲気的に迫害である。心苦しいのである。それでも、自分の世界を胸を張って楽しむことができる人はいい。でも、自分は違う。

過剰に空気を読もうとしすぎる。本来の自分を偽ってまで相手に合わせる。無理やり自分の感情を押し込める。そして、場にあった理想の感情、表情を作り上げる。もはや幽体離脱だ。ある程度の時間はその作り上げた自分で凌ぐことは出来る。しかし、その間押し込めた自分は遠いところでずっと見ている。作り上げた自分をずっと見ている。それに対して本来の感情が、違和感を感じながらずっと見ている。とてもつらい。キツい。心苦しい。こんなこと本当は思っていない。自分じゃない。という類の悲鳴を挙げ始める。そうなるとバッテリー切れの機械のようになる。オーバーヒートしながらも動く瀕死の状態になる。

自分を偽ることは、自分を押し込めることは、自分を否定することと同じなのかなと最近考える。自分のことを否定して、自分に自信がなくなる。こんな自分はダメだと思う。でも、ダメな理由が自分を押し込めることだと最近まで気づいていなかった。本来の自分がダメだから理想の自分を作り上げることで克服しようと思っていた。理想になり変わろうとしていた。そうすることで理想に近づけるからと。しかし、理想は自分とは別人だ。理想は理想であって、そうでなくてはならない訳では無い。自分は自分という人間でしかない。根幹を取り替えることはできない。自分は自分にしかなれない。だから自分はこんな人間だと許そう。認めよう。誇りを持てるように。嘘をつかないように。偽らないように。

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