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滲んでいく記憶とイメージの定着について 安藤裕美「光のサイコロジー」展評

 上空から街が見下ろされ、やがてその眺めはホワイトアウトする。次いで映し出されるブロック塀は、相模原になじみのある人間ならばそれがアメリカ軍の総合補給廠を描いたものであることにすぐに勘づくだろう。安藤裕美の個展「光のサイコロジー」に出品された同名のアニメーション作品は、作者自身の知覚を強くまとわりつかせながら、映画ないしアニメーションの根本に備わるポテンシャルを抽出しようとした意欲作だ。
 とりわけ冒頭のブロック塀を横目に進む道行きは、光の感覚を精妙に捉えているという点において注目に値する。前進するにつれて徐々に差し込んでくる日光は画面を包み込み、その揺らぎによって鑑賞者はまどろみつつも、安藤の視た相模原へと誘われていく。こうした自然現象への驚きを喚起することは、リュミエール兄弟の映画に対する観客の反応を連想させる。初期の映画の観客たちは、煙や蒸気、あるいは植物の葉の揺れに魅了されたという。こうした事実を根拠にダイ・ヴォーンは、映画の発明の画期性を「生命を持たないものまでが自己表現に参加していること(1)」に求めている。ヴォーンが言うところのこうした「自生性」は、時代が下り、編集による映画文法、つまりストーリーテリングが洗練されていくにつれ鑑賞者からも等閑視されるようになってしまうのだが、主観的なヴィジョンそのものを反映させることが可能なアニメーションという技法を選択することによって、本作は映像の原初的な力動へと肉迫する。

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           《光のサイコロジー》(2020)

 辻田絢菜による音楽(一部の楽曲制作は安藤)と、フィールドレコーディングによって構成される作品の音響要素にはセリフがなく、安藤のライフワークでもある『パープルームのまんが』に見られるような「キャラ立ち」は後退し、人物と背景を分けることなく作画された画面には郊外特有の倦怠感が息づいている。中盤以降、アニメーションは作家の制作と生活の現場であるパープルーム予備校を中心に展開されることになるのだが、インクによるウェットな質感と鉛筆によるドライな質感は細かく使い分けられ、黒鉛の擦り付けられた調子や描画の過程をほのめかす消し跡もそこに動員されることによって、空間の実在感はさらに強化されていく。背格好からして安藤自身かと思われる人物が窓を開け放ち、室内に光が差し込んでくるシーンも印象的だ。その光は画面をパンさせることによって、部屋全体を満たしていく。壁紙の装飾もあいまってその移り変わりは、作家が影響を公言するピエール・ボナールの絵画から受ける印象を、映像として再解釈したものだと考えられるだろう。なぜなら、松浦寿夫も指摘するようにボナールの制作は「画布の手前側の拡がり、つまり画布と観者とのあいだの空間を補足し、規定することに賭けられていた(2)」からだ。カメラを所有しつつも、映像制作には取り組まなかったボナールのありえたかもしれないアニメーションを、ここで安藤は試みている。

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           《光のサイコロジー》(2020)


 「光のサイコロジー」には絵画も出品されており、その図像は「何も見なくてもパープルームの情景を思い浮かべて描くことができる(3)」という安藤の記憶が可視化されたものとして見ることができるだろう。ジークムント・フロイトがマジック・メモを引き合いに説明するように、記憶はその痕跡を永遠に定着させることが求められているにも関わらず、それを保持することが出来ないというジレンマにさらされている(4)。安藤の絵画における色彩と対象同士の関係が複雑なのは、こうした特質を持つ記憶の反芻によって画面が成立していることに理由がある。ここにおいて現実的な物体の量感は変容し、境界線は滲んで行く。

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   《相模原駅前の大通り》(2019)キャンバス、油彩、73×91cm


 絵画、そしてアニメーションを通じて具現化されるこうした一連のビジョンは、とりわけ室内を描く際に、作家の特質として表出しているように思われる。ボナールとともに安藤が自身にとって重要な画家であると述べるエドゥアール・ヴュイヤールは、一見して事件の起こらない日常性への着目という共通性において、詩人で劇作家のモーリス・メーテルリンクとの関連がしばしば指摘されている。

良い画家はもはやキンブリー族に打ち勝ったマリウスやギーズ公の暗殺を描いたりはしないだろう。……田舎の打ち捨てられた一軒家や、廊下の奥の開いた扉や、休息している顔や手を描き表すであろう。そしてこれらの単純なイメージは我々の生の意識に何者かを付け加えてくれるだろう。(5)

 この文章は、メーテルリンクが自身の演劇論を絵画を例に語ったことを、天野知香が自著のために訳出したものであるが、彼の演劇には役者の大仰なアクションは必要とされず、「休息している顔や手」こそが象徴的な意味をなす。これと同様の事態が、安藤の描く室内画には起こっているのではないだろうか。なぜならパープルームに佇む梅津庸一や予備校生、あるいはそこに集う様々な関係者たちの存在は、彼女の視線を通じて、またひとつの異なる現実として、絵画やアニメーションに定着しているからだ。《光のサイコロジー》の終盤では絵を前にして何度か画面が色づき、明滅する。それは色彩を前にして逡巡する安藤自身の視線なのだろうか。室内という環境において、それは「生の意識に何者かを付け加え」る。
 安藤がパープルームに幻視するヴィジョンはこのように作品化され、現実に散布された。そしてそれは空気中を漂い、私たちに受粉を施す必要不可欠なエージェント=媒介者として振る舞うことになるだろう。


(1) ダイ・ヴォーン「光あれーリュミエール映画と自生性」、長谷正人・中村秀之編訳『アンチ・スペクタクル 沸騰する映像文化の考古学』東京大学出版会、2003年、37p
(2) 松浦寿夫「さあ、過飽和なテーブルにどうぞ!」、国立新美術館・日本経済新聞社編『オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展』日本経済新聞社、2018年、203p
(3) 梅津庸一「本展について」、ファルマコン編『安藤裕美 個展 「光のサイコロジー」』パープルーム、2020年、n.pag.
(4) ジークムント・フロイト『自我論集』、竹田青嗣・中山元訳、筑摩書房、1996年、303~312p
(5) 天野知香『装飾/芸術ー19-20世紀フランスにおける「芸術」の位相』ブリュッケ、2001年、136p

展覧会概要
安藤裕美 個展「光のサイコロジー」
会期:2020年1月25日(土)~3月1日(日)
会場:on Sundays(ワタリウム美術館地下)
企画・制作アドバイザー:梅津庸一

タイトル画像
《光のサイコロジー》(2020)より


レビューとレポート 第12号(2020年5月)

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