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好機到来を喜んではいけない(皐月物語 96)

 平日の豊川稲荷とよかわいなり表参道は落ち着いている。参拝客はほとんどいない。表参道にある店は参拝客相手の店だけでなく、地元の人が普通に利用する店もある。藤城皐月ふじしろさつきの行きつけの古本屋、竹井書店もその一つだ。
 皐月と江嶋華鈴えじまかりんが学校帰りに竹井書店の前を通りかかった時、店の中で本の整理をしていた店主の娘と目が合った。彼女は父が始めた古本屋の後を継ぐべく店番をしている。皐月が軽く頭を下げると、竹井さんに手招きをされた。
「江嶋、ちょっとだけ本屋さんに寄ってもいい? 今、店の人に呼ばれちゃってさ」
「いいよ。私も一緒に行こうかな。前からこの店のこと気になってたんだよね。古本屋さんって一人じゃ入りにくいから、藤城君がいてくれると心強いな」
「ははは。別に怖い店じゃないよ」
 硝子戸を開け、皐月と華鈴が一緒に店内に入ると、竹井さんが一冊の文庫本を手にして皐月を待っていた。
「皐月君、今日はデート?」
「まあ、そんなとこ」
「あら、いいわね~。ところで『雪国』入ったよ。もしかして新刊で買っちゃった?」
「ううん。まだ買ってない。修学旅行が終わってから読もうと思ってたからね」
「修学旅行か……。稲荷小学校は京都・奈良?」
「そうだよ。知ってるの?」
「私が稲荷小に通っていた時も、修学旅行は京都・奈良だったのね。昔から変わらないんだな……」
 皐月は竹井さんの年齢を知らないが、おそらく20年前くらいの話だと思った。母の小百合や住み込みの頼子も京都・奈良へ行ったと言っていた。1200年以上も前からある京の都にしてみれば、20年や30年なんてほんの束の間なのかもしれない。
「ところで『雪国』はどうする?」
「もちろん買うよ。いくら?」
「100円でいいよ。文庫本だし、ちょっと古いから安くしておくね」
「ありがとー」
 その『雪国』は古いもののようだ。装丁そうていが少しくたびれているが、紺色の背景に白い樹木が描かれた日本画が印象的だ。白抜きされてた本のタイトルや著者名がよく映えている。
 前回、竹井書店で買った芥川龍之介の『歯車』は200円だった。川端康成の『雪国』が100円なのは格安だ。竹井さんは明らかにまけてくれている。小学生の皐月にとって、100円の差は大きい。
 学校近くの新刊書店なら定価で『雪国』を売っていたが、『るるぶ』を買った皐月はこの日に買わなかった。先送りをしたことは小さな幸運だった。

「ところで太宰治の『人間失格』ってある?」
「えっ?」
 華鈴がびっくりした顔で皐月を見た。
「『人間失格』か……。確かお店にはなかったかな……。ちょっと待っててね」
 店主は店の奥に引っ込んで行ってしまった。店内は皐月と華鈴の二人しかいない。
「ねえ、どうして『人間失格』?」
 皐月が『人間失格』を読んでみたいと思ったのは華鈴の部屋に『人間失格』があったのを見つけたからだ。『人間失格』というタイトルが衝撃的だったし、優等生の華鈴は人間失格からは程遠い存在だと思ったからだ。
 皐月の後ろの席の文学少女、吉口千由紀よしぐちちゆきは『人間失格』を『歯車』と同じくらい好きと言っていた。彼女は『歯車』を一番好きな小説だと言っていたので、『人間失格』も千由紀にとっては最も好きな小説の一つということだ。千由紀が好きな小説だから、『人間失格』はおそらくヤバい小説だ。
「前に江嶋の部屋に行っただろ。その時、部屋に『人間失格』があったのを見たんだ」
「やだっ! そんなとこ見てたの?」
 皐月は好奇心に抗えなかった。華鈴がなぜ『人間失格』に興味を持ったのか、気になる。
「たまたま目に入ったんだよ。ちょうど文学に興味を持ち始めた頃だからさ、自然と目に飛び込んでくるんだよ」
「まあ、見えるところに置いていた私が悪いんだいけどさ……。あの本を読んだって思われるのは、ちょっと恥ずかしいかな……」
「別に恥ずかしがらなくてもいいんじゃないの?」
「まあ、藤城君は読んでいないからわかんないと思うけど、見られたくない心の中を覗かれたような感じ? あーっ、もういいや!」
 竹井さんが店の奥から戻って来た。手には一冊の文庫本があった。
「お待たせ。私の蔵書から持ってきたよ。これ、よかったらあげる」
 皐月が手渡されたのはモノトーンの抽象画のような装丁の文庫本、太宰治の『人間失格』だった。カバーが掛けられていたのか、丁寧に読まれていたのか、とても状態の良いものだった。
「いいよ、くれなくても。竹井さんは古本屋なんだから売ろうよ。俺、いくらでも買うからさ。でも定価以上は勘弁してね」
「そう? じゃあこれも100円でいいよ。皐月君が大事に読んでくれるんだったら」
「いいの? ……ありがとう」
 皐月は本を2冊受け取って代金を払った。皐月はランドセルにいつも500円を忍ばせている。
「皐月君は『雪国』といい『人間失格』といい、小学生が読まない本を読みたがるね。今日買った本はちょっと難しいよ」
「難しいって、言葉が難しいってこと?」
「言葉はそんなに難しくないけれど、内容が大人向けかな。高校生や大学生でも難しいかも」
 千由紀も似たようなことを言っていた。あの小説は経験がないとわからない、小学生の想像力の限界を超えてる、と。
「じゃあお薦めしないってこと?」
「そんなことないよ。小学生なりに読めばいいと思う。それに精神的に背伸びしなければ成長はないからね。大人になってから読み返すのもいいわね。まあ、わからないことがあったら竹井書店にいらっしゃい。若い子と文学の話ができるなんて楽しいわ」
「ありがとう。じゃあ聞きたいことがあったら、竹井さんのところに聞きに来るね」
 皐月と華鈴は竹井書店を出て、豊川稲荷表参道の入り口の辻のところで立ち止まった。昭和の時代の広告の琺瑯ほうろう看板がベタベタと張られているところで皐月は華鈴と別れなければならない。
「じゃあ、俺はここで。もうちょっと江嶋と話がしたかったな……」
「友達と約束があるんでしょ。お家で待っているんだから、早く行ってあげないと」
「そうだな」
「私、帰るね」
「ああ」
「バイバイ」
「……じゃあ、また明日」
 華鈴は豊川進雄とよかわすさのお神社方面へ歩いて行き、皐月は右手の細い路地に入っていった。

 家に帰ると小百合さゆりが着物姿でいた。どうやら安城あんじょうのお座敷には及川頼子おいかわよりこも行くらしい。頼子がこの家に住み込んでから初めての遠征だ。
「ああ、いいところに帰って来た。今日は頼子もお座敷に行くから、晩ご飯は外で何か適当なものでも食べて」
「頼子さんも行くんだ。大きいお座敷なんだね」
「今日は芸妓げいこが多ければ多いほどいいのよ。豊川の芸妓も総動員よ」
 好機到来に皐月の胸は高まった。これで今日は夕食の時間を気にせずに栗林真理くりばやしまりのところへ行ける。
京子きょうこお母さんや和泉いずみ姐さんも行くの?」
「さすがに今日は賑やかしだから、若い子だけが呼ばれたんだけどね。でも私は若くないか」
 小百合はケラケラと笑っているが、頼子は少し心配顔だ。芸妓は色より芸を売る仕事なので、年齢に上限はない。老芸妓の京子や和泉にも筋のいい御贔屓ごひいきがいる。小百合は仕事が途切れないくらい忙しいので、芸妓として人気がある。だから芸妓としてはきっと若い方なのだろう、と皐月は楽天的に捉えることにした。
「帰りは遅くなるの?」
「ちょっと遠いから、いつもよりは遅くなるかな。でも今日中には帰って来られるから。自分でお風呂を沸かせて、先に寝てなさいね」
「わかった」
 皐月は昂る気持ちを抑え、情報収集だと悟られないように、いかにも初めてのことに戸惑っている風に振舞おうと努めた。
「ところでさ、ビデオ通話はもうしなくてもいいよ。祐希ゆうきもいるし、俺はもう一人ぼっちじゃないから、心配しなくても大丈夫だよ」
 小百合から笑顔が消えた。駄目押しは失敗だったか……目論見がバレたかもしれない。だが、皐月にしてみればビデオ通話がかかって来た時に、自分の部屋にいないと不審に思われるかもしれないので、不安を払拭しておきたかった。
「そうね……もういいか。あんたも大きくなったからね。でも、ちょっと寂しいな……」
「そんな……寂しかったら今まで通り通話してきてよ。別に避けてるわけじゃないんだから」
 どうやら取り越し苦労だったようだ。緊張が緩むと、皐月は珍しく自分から母親に触れた。背が伸びたからか、母が小さくなったと感じた。
「ありがとう。でもね、私もあんたのことを縛ってるんじゃないかなって気になってたのよね。私が電話するまで、眠くても起きていることもあるでしょ? だからそろそろ私があんたに依存するのを卒業しないといけないかなって思ってたのよ」
「そんな風に言われると、俺の方が寂しくなっちゃうな……」
 小百合の部屋から小百合の着物を着た頼子が出てきた。頼子がヘルプでお座敷について行く時はもう少し地味な着物を着ていたので、皐月が華やかな着物姿の頼子を見るのは初めてだ。
「うわっ、頼子さん綺麗!」
「本当? ありがとう」
 照れ隠しで頼子を褒めたつもりだったが、頼子は本当に綺麗だった。皐月は頼子に祐希の面影を見た。
「あんま芸妓さんっぽくないね。どっちかって言ったら、芸妓よりも普通の和服美人って感じだね」
「そう? ねえ小百合、どうしよう……。私、失敗しちゃったかな?」
「大丈夫よ。今時の田舎の芸妓なんて何でもありだから。みちるかおるなんてコンパニオンみたいだし、明日美あすみもなんか独特だし。私だって昔の芸妓よりも現代風にしてるんだから。まあ人はそれを若作りって言っているんだけどね」
 頼子のホッとした顔を見て皐月は安心した。母のフォローに皐月は芸妓・百合の神髄を見たような気がした。
 不安がる頼子を見ていると、皐月は自分の嫌なところに気付いてしまった。それは真理と時間を気にせず会える喜びの裏で、頼子から解放される喜びをも感じていたことだ。
「頼子さん、写真撮らせて」
「いいけど……ちょっと恥ずかしいね。もうおばちゃんだし」
「恥ずかしくないよ。頼子さん、すっごくきれいなんだから」
「ありがとう。皐月ちゃんって女の人を褒めるのが上手ね。お世辞に聞こえない」
「当たり前じゃん。お世辞じゃないんだから」
 皐月は頼子が家を開けることを喜んでしまったので、その罪悪感を埋め合わせようと少し大げさにはしゃいでみせた。だが、やましさの上塗りにしかならなかった。
「祐希に頼子さんの写真、送っておくね」
 祐希はまだ家に帰っていない。スマホで祐希に写真を送るとすぐに返信が来た。皐月はそのメッセージを頼子に見せた。
「ねっ、祐希も綺麗だって言ってるよ」
「私のこと、綺麗なんて言ったことがなかったのに……あの子も気を使えるようになったのかしらねぇ……」
 頼子は感情を抑えながらも、とても喜んでいるように見えた。
「皐月、夕食代、テーブルに置いておくからね。祐希ちゃんの分もあるから」
 小百合に言われたテーブルを見ると、二人分の夕食代がそれぞれ千円ずつ置かれていた。皐月はテーブルの上のお金の写真を撮った。後で祐希に送るための用意だ。お金に手をつけるのは、百合と頼子が家を出てからにしようと思った。
 皐月は早く真理の家に行きたかった。だが、今行ってもりん姐さんがまだ家にいるかもしれない。しばらくは家で待っていて、時間調整をしなければならない。

 二階に上がり、自分の部屋にランドセルを置き、窓の戸締りをした。通りに面した窓だけはまだ空けたままにしておき、窓辺に佇んだ。皐月は欄干らんかんに手を置いて外を眺めた。もう真夏のような蒸し暑さがなく、涼風が気持ちいい。
 暇を持て余している皐月は自分を落ち着かせるために真理へメッセージを送った。
「ママと頼子さんを見送ったらそっちに行く。今日は晩飯を一緒に食べよう」
 真理からもすぐに返信が来た。
「家に来る前にメッセージ送って」
 素っ気ない一言だったが、真理が当たり前のように自分のことを待っていてるのがわかって嬉しかった。家の前に迎えのタクシーが来るまで、皐月は窓辺でゆっくりと待つことにした。


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