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身体は一つしかない(皐月物語 95)

 児童会室で江嶋華鈴えじまかりん水野真帆みずのまほと三人で修学旅行実行委員の仕事をしていると、藤城皐月ふじしろさつきは不思議と幸せな気持ちになる。それは女子を異性と感じるようになり、男としての幸せを知ったからだ。華鈴や真帆と一緒にいると、ふとした瞬間に胸がときめくことがある。
 華鈴はこんなに魅力的だったのか。真帆はこんなに可愛かったのか。今までこんな簡単なことに気付かなかった。これを恋心と言っていいのかどうか、皐月にはまだわからない。
 今では華鈴や真帆だけではなく、クラスの女子全員が魅力的に見える。まるで自分の頭がおかしくなったようだ。皐月はやたらと女子のことが良く見えるようになった時に、友達の花岡聡はなおかさとしから言われたことを思い出した。
「お前、マジで女好きが加速してんじゃねえか? 思春期っていうより発情期だな」
 その時の皐月は、毎日が楽しくご機嫌でいられたらどう思われても構わないと答えた。その気持ちは今でも変わっていない。そして今の皐月は聡に言われた通り、女の子が大好きだという気持ちが加速している。もしかしたら発情期かもしれないという自覚がないこともない。
「これで終わりだな。思ったより早く終わったね」
 皐月は早く委員会を終わらせたかった。帰宅後に栗林真理に会いに行こうと思っていたからだ。1秒でも早く下校して、少しでも真理の家での滞在時間を長くしたい。
「委員長、今から入力したデータをしおりに書き込んでしまいたいんだけど、いい?」
「いいけど、それって最終下校時間までに終わる?」
「すぐに終わるよ。会長にも手伝ってもらうから大丈夫。ねえ会長、Googleドキュメントで同時編集したいんだけど、お願いできる?」
「ああ、あれね。いいけど、事前準備は水野さんにお願いするね。私そういうのあまり詳しくないから」
「わかった。じゃあ児童会のアカウントでアクセスできるようにしておくから、会長も Chromebook を立ち上げておいて」
「は~い」
 華鈴が楽しそうにランドセルから Chromebook を取りだした。真帆は北川先生から手渡された USB メモリから今年度の栞のファイルを取り込んで、児童会の Googleドライブにアップロードしている。
 二人のやりとりを見ていると、皐月は下校時間まで委員会を続けてもいいかなと思い始めた。華鈴を従えている真帆も、真帆をサポートしている華鈴も可愛い。皐月は修学旅行実行委員会で今までの学校生活で経験したことのない楽しさを感じていた。
「水野さん、俺って何かできることある?」
「う~ん……。委員長は特にないかな……」
「え~っ! ないの?」
「『集団行動と約束』と『旅館での過ごし方』の二つしか編集するところがないから、二人いれば十分なんだよね」
「なんだ、用無しか。俺も Googleドキュメントの同時編集っての、やってみたかったな」
「委員長にはアンケート結果の入力を手伝ってもらう予定だから、月曜日はお手伝いしてもらうんで、よろしくね」
「オッケー。俺、キーボード入力はそこそこできるよ」
 真帆と華鈴が北川先生からもらった今年の栞のファイルを共有して、それぞれの担当するところへ音声入力したテキストをコピペし始めた。華鈴は真帆の指示に従ってフォーマットを整え、誤変換を直しながら編集作業をする。作業スピードは真帆が圧倒的に早いが、華鈴もなかなか仕事ができる。二人とも皐月よりも実務能力が高い。
 真帆の背後で作業を見ていると、栞がどんどん出来上がっていくので見ていて面白い。注意事項にポジティブなコメントを入れるというアイデアはなかなかいいな、と改めて思った。
 真帆が作業を終えたので、皐月は黄木昭弘おおぎあきひろから預かったイラストを見てもらうことにした。華鈴はまだ作業をしているので、とりあえず真帆だけに見せた。
「これは……いい表紙ができたね。黄木君、すごいな」
「この8人って俺たちなんだって。水野さん、可愛く描いてもらってるね」
「この眼鏡の女の子って私? こんなに可愛くないよ……」
「そんなことないって。水野さん、可愛いじゃん」
「えっ?」
 真帆の耳が赤くなったのを皐月は見逃さなかった。真帆はあまり男子から容姿を褒められることに慣れていないようだ。初心うぶな反応をするので、普段のクールな感じとのギャップが面白い。
「黄木君、みんなのいいところを引き出そうと思って描いたんだって。上手いよね」
 華鈴が作業の手を止めて、皐月の肩越しにイラストを覗き込んできた。華鈴の顔がここまで近くなったのは初めてだ。
「じゃあこれが私ってこと? これじゃあまるで美少女じゃない」
 華鈴が描かれたところに指をさしたせいで、さらに密着度が上がった。華鈴の温かい吐息が皐月にかかった。皐月は華鈴の吐息を吸い込んでしまい、変な気持ちになるところだった。
「美少女だろ、江嶋は」
「からかわないでよ、もうっ!」
 華鈴が軽くももに蹴りを入れてきた。全然痛くなく、皐月にはただ温かいだけだった。
「藤城君はすっごく美形に描かれているね。こんな風に描かれて、恥ずかしくないの?」
「全然。黄木君の心の眼には俺のことがこう見えてるんだなろうな。心のイケメンってやつ? 素直に嬉しいよ」
「はぁ~。相変わらずいい性格してるね、藤城君は」
 真帆がサッとイラストをクリアファイルに戻した。席を立とうとしたので、華鈴が身を引いた。
「黄木君のイラスト、早速取り込んで栞の表紙も完成させちゃおう。会長、ちょっと職員室のコピー機でスキャンしに行ってくるね」
「うん、わかった。私も仕事を終わらせておくから」
 真帆が児童会室を出て行き、皐月と華鈴が二人になった。華鈴は残っていた作業を続けたので、皐月は背後から華鈴の仕事ぶりを眺めていた。
「こうして誌面を作っていると、藤城君のアイデアっていいよね。修学旅行の栞がどんどん面白い読み物に変わっていく。過去の栞と比べて断然面白いと思うよ、私たちの年度の栞って」
「俺もそう思う。ホント、圧倒的だよな、俺たちって」
 皐月は華鈴が浮ついたことを言うのを初めて聞いた。5年生の頃の華鈴は常に喜怒哀楽をあまり表に出さなくて、皐月はそんな華鈴の大人びたところを尊敬をしていた。でも少し面白みに欠けるかな、と不満にも思っていた。今こうして二人で一緒にはしゃいでいると、華鈴が本来とても明るい子だとわかる。皐月は今の華鈴に何の不満もない。
「アンケートも楽しみだな。みんな、どんなこと書いてくるんだろう。ところで江嶋は京都、どこ回るんだ?」
「私たちの班は金閣寺きんかくじから龍安寺りょうあんじ仁和寺にんなじの世界遺産を巡って、午後は清水寺きよみずでら祇園ぎおんを回るコース」
「いいね。龍安寺と仁和寺は金閣寺から歩いて行くんだよね」
「藤城君、知ってるの?」
「そのパターンはガイドブックで見たからね。俺たちの班でもちょっとだけ話題になったよ。仁和寺の後は映画村とか嵐山あらしやまに行くコースが学校から指定されていたけど、どうして江嶋たちは清水寺に行こうと思ったの? 移動時間、長くない?」
「長いーっ! でもね、やっぱり清水寺は外せないっていうことで、みんなで清水寺に行こうって決めたの。私たちの班は学校から配られたプランを変更したよ。藤城君たちは?」
「俺たちも清水寺と祇園に行くよ。あとは伏見稲荷ふしみいなりとか下鴨しもがも神社とか東寺とうじかな。全部鉄道と歩きでまわるんだ」
「えっ? どうして? バス使わないの?」
「バスは時間が読めないから避けた。バスでしか行けないところもあるけれど、そういうところは諦めて、鉄道だけで行けるところを選んだ」
 真帆が職員室から児童会室へ戻って来た。
「お待たせ。黄木君って表紙のイラスト以外に私たち個別のイラストも描いてくれていたんだね。一応スキャンしておいたけど、使うところってあるかな?」
「そうだな……。ワンポイントでイラストとして挿入するか、栞の最後に編集後記みたいなのを作るか、かな。1ページくらい増やしても大丈夫だよな?」
「北川先生は私たちに全部任せるって言ってたから、好きにしていいんじゃない? だいぶページが増えそうだけど、今は気にしないで後で考えよう」
 真帆がスキャンしてきた表紙のイラストを栞に取り込んだ。これで今日の作業が終わった。真帆の言う通り、委員会の延長戦はすぐに終わった。
「じゃあ、帰ろうか。明日の委員会は放課後だ」

 三人揃って児童会室を出た。校門に着くまでの間、皐月と華鈴は真帆に京都はどこを回るのか聞いた。真帆たちは三十三間堂さんじゅうさんげんどうから清水寺へ行って、午後は平等院びょうどういんと伏見稲荷へ行くと言う。これは学校から推奨されているコースで、皐月のクラスでもこのコースを採用している班がある。皐月と華鈴も自分たちの班が回るコースを真帆に話した。
 校門を出ると皐月と華鈴は真帆と別れることになる。真帆の帰る方角は皐月が昨日一緒に帰った二橋絵梨花と同じ方角だ。
「水野さんの家ってどこ? 俺ん家は栄町さかえまち
新宿町しんじゅくちょうここから近いよ。でも中学生になったら学校が遠くなるな……」
「私は仲町なかまちだから近くなるよ」
 二学期になると、クラスでも友だち同士で地元の稲荷中学のことが話題に上るようになってきた。真帆と華鈴も中学のことを気にし始めているようだ。修学旅行が終われば小学校生活は急速に終焉に近づく。6年生はみんな、小学校を卒業して中学校に進学することに不安を感じているのかもしれない。
「みんな稲荷中学に行くんだよな。当たり前か」
「委員長、何言ってるの?」
「いや、俺のクラスに名古屋の私立中学に行く子がいるからさ」
「私、知ってる。前、図書館で見た子たちだよね。二橋にはしさんと栗林くりばやしさん」
「江嶋、お前なんでクラスが違うのにそんなことまで知ってんだよ?」
「児童会長だからね」
 華鈴が意味不明な返事をした。いつも質問には簡潔明瞭に答える華鈴にしては珍しい。
「水野さん、児童会ってそんな探偵みたいなことしてるの?」
「いや……たぶん会長の趣味なんだと思う。私はそんなこと知らないから」
「趣味じゃないよ。たまたま知ってるだけだから。担任の先生に『お前、中学受験するのか?』って聞かれたことがあって、『中学受験って何ですか?』って聞いたら、4組に受験する子が2人いるって言ってた」
「へえ~、委員長のクラスにそんな子たちがいるんだ。2組にはそんな子、いなさそうだな」
「1組もいないよ。3組もいないんじゃないかな。私は聞いていない」
 皐月は稲荷小学校の児童の中学受験への関心の低さを改めて知った。たまたま皐月の近くに中学受験をする子がいるだけのようだ。
「じゃあ私はこっちだから、ここで。さようなら」
「また明日ね」「バイバイ」

 皐月と華鈴は真帆が道を右に曲がるまで見送った。二人は左の細い路地へ入った。
「今日もこの前見た綺麗な芸妓げいこさん、いるかな?」
「さあ、どうだろう……」
 華鈴の言ったのは明日美のことだ。華鈴と一緒に歩いているところを明日美に見せたくないな、と皐月は思った。通学路を帰らずに検番けんばんを避けることも考えたが、さすがにそれは不自然だ。皐月は覚悟を決めて、いつも通り検番の下を通ることにした。
 検番の裏手の二階の窓は全て閉まっていた。少なくとも二階の稽古場に芸妓は誰もいないようだ。
 今晩は百合ゆりりん安城あんじょうのお座敷に出ると言っていた。安城で大きな宴会が開かれ、地元の芸妓では人数が足りなくなる時は豊川の芸妓組合に応援が要請されることがある。もしかしたら明日美もお座敷に呼ばれているのかもしれないな、と皐月は思った。
「ねえ、藤城君。この後、うちに来ない?」
 華鈴の声が少し震えているように聞こえた。顔がこわばっているようにも見える。皐月は思わず立ち止った。
「俺、この後、友達の家に遊びに行く約束をしちゃっててさ……。今日はちょっと行けないや……ごめん」
「あっ、そんな、いいよ。こっちが急に言ったんだし……。最近は委員会ばっかりで、友達と遊ぶ時間がなかなかとれないよね。こっちこそゴメン」
「なんで江嶋が謝るんだよ。……バカだな。でも、誘ってもらって嬉しかった。ありがとう」
 華鈴は何も答えずに、うつむきながら歩き始めた。皐月はしばらく華鈴の無言に付き合おうと思い、一緒に隣を歩いた。大通りに出る手前で華鈴が立ち止まり、鼻をすすった。泣いていた。
「大丈夫か?」
「……こんな顔で通りに出るの、恥ずかしいな」
 皐月はポケットからハンカチを出し、華鈴の涙を拭いた。入屋千智いりやちさとにハンカチを持ち歩くように言われたことが、こんな風に役に立つとは思わなかった。
「ありがとう。私もハンカチ持ってるから。それにもう大丈夫」
 涙を拭い、無理に微笑む華鈴を見ていると胸が締めつけられるような気持ちになる。こんなに健気な華鈴を見るのは初めてだった。
 皐月と真理は会う約束をしているわけではない。ただ今日のお座敷が安城だと言葉を交わしただけだった。真理の元へ行こうと思ったのは皐月のひとりよがりに過ぎない。真理は自分と会いたいに違いない、と皐月が勝手に解釈しているだけだ。
 いっそ真理に会いに行かないで、このまま華鈴と一緒にいようかと思った。だが寂しそうな顔をしていた真理のことを思うと、会いに行かずにはいられない。それに真理も自分に会いたがっているという確信めいた感覚がある。
 皐月は自分の身体が一つしかないことを生まれて初めて恨めしいと思った。もしも身体が二つあれば、華鈴とも真理とも一緒にいられる。
 これから先、好きな女の子が増えていくとどうなるのだろうか。恋人は一人に絞らなければならなくなるのか。恋を知り始めた皐月にはまだよくわからない。
「行こうか」
 皐月は華鈴の手を取って、大通りに出るまで軽く引っ張った。そのまま少し手を繋ぎながら歩いたが、皐月からそっと手を離した。豊川稲荷のスクランブル交差点の歩行者の信号は赤だった。
「今日は表参道を歩きながら帰ろうか」
「えっ? 通学路じゃないけど……」
「いいじゃん、そんなの。今日は観光客ごっこをしよう」
 信号が青になったので横断歩道を渡り、土産物屋の前の道を歩いた。平日の午後だから参拝客の姿は全く見られない。商品が綺麗に陳列されているのがかえって寂しさを誘った。
「お客さんいないな。京都はきっとたくさん観光客がいるんだろうね」
「修学旅行とか外国人とか、いっぱいいそうだよね」
「江嶋って豊川稲荷に遊びに来たりする?」
「まあ地元だからね……。でも遊びに来るとか、ほとんどないかも。家族と初詣に来る程度だから、来ても年に一回くらいかな。藤城君はよく遊びに来るの?」
「来るよ。家が近いから、庭みたいなもんだよ」
 朝早く目が覚めた時、皐月は用もないのに豊川稲荷へ行くことがある。人のいない境内に一人ぼっちになると、妙に楽しい。奥の院の森の空気が気持ちいい。
「前に進雄しんゆう神社でもよく遊ぶって言ってなかった? もしかして藤城君って神社とかお寺のこと好きなの?」
「そうだね……好きかも。なんかあの独特の空間が好きなんだよね。でも神様とか仏様とかはよくわかんないから、最近はそういう勉強を始めている」
「じゃあ修学旅行はすごいお寺や神社を見られるんだから楽しみだね」
「ああ。俺、そういう大きい神社とかお寺って豊川稲荷しか行ったことがないから、マジで楽しみだ」
 華鈴が元気を取り戻したようで、皐月は少し安心した。華鈴とはまた会う機会を作りたいと思った。しかし、そんな衝動を抑制しようとする心理も同時に働いている。
 真理と会おうとしている時に華鈴に誘われて、皐月は己の罪深さに初めて気が付いた。聡の言う女好きという言葉に含まれていたとげが時空を超えて皐月の心に深く食い込んだ。今の皐月にはこの棘が抜けることを全く想像できない。


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