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ゴールデンカムイで明治時代の馬を考える(3巻後編‐馬わらじ)

こんにちは。馬のことを調べたり取材したりしているライター、やりゆきこです。『ゴールデンカムイで明治時代の馬を考える』シリーズ、やっとこさ3巻の後編でございます。今回は馬の草鞋(わらじ)の話を中心に書いていきたいと思います!

※なお、漫画のコマ画像の使用については集英社公式サイトを確認の上、著作権法の範囲内で引用しておりますが、指摘等あれば削除いたします。

※今回、対象としているゴールデンカムイ第3巻には主人公たちが馬を食べるシーン等が含まれます。苦手な方はここで引き返すことをおすすめします…!

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馬が草鞋(わらじ)を履いている

現代の馬は蹄(ひづめ)を守るため、基本的に蹄鉄(ていてつ)というU字型の鉄を足裏に装着しています。ですが、3巻では馬たちが草鞋を履いていることが確認できます。杉元が乗った馬橇を曳く馬も、それを追う鶴見中尉が騎乗する軍馬もどちらもしっかり履いていました…!(下記引用の馬の脚元に注目!)

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ゴールデンカムイ 13巻 19話(野田サトル)より引用
ゴールデンカムイ 13巻 19話(野田サトル)より引用

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蹄鉄が普及するまで、日本の馬たちはこのような草鞋を履いていました。草鞋を履いた馬は江戸時代の浮世絵などでもよく見られます。私は2020年に馬の博物館で行われたテーマ展「和の匠 浮世絵に生きる馬の風景」で見たのですが、下の浮世絵のように、馬の草鞋を取り換えてあげているようなシーン(中央下のちょっと右あたり)が描かれているのも印象的でした。蹄鉄と違って草鞋はあまり丈夫ではなく、2kmほどでダメになってしまったことから、このような光景も江戸時代の日常だったのだと思います。

富嶽三十六景より「駿州片倉茶園ノ不二」
Katsushika Hokusai, Public domain, via Wikimedia Commons
2022年12月 馬の博物館 テーマ展「馬のお世話のいまむかし」にて筆者撮影。
ちなみに、雪用の馬草鞋もあったそうなので3巻の草鞋は雪用のやつかもしれない。

▼こちらの太田記念美術館さんの公式noteにも詳しくまとめられています

日本で蹄鉄が浸透したのはいつ頃か?

2巻の考察で私は、鶴見中尉が乗っている軍馬はおそらく蹄鉄を履いているのではないかといったことを書きました。そしてそう判断したのは以下の理由からでした。

  • 全体的にかなり西洋感の強い馬装だったことと

  • 実際に日露戦争で活躍した軍馬の馬装とそっくりで、蹄鉄を履いているように見えたこと

  • (勝手に)明治中期くらいには軍や一般に蹄鉄が普及したイメージを持っていたこと

ですが、3巻にこれだけはっきり描かれていると、単純に2巻では草鞋が省略されていただけだったのかもしれません。(すみません…!)

実際のところ、日本に蹄鉄が導入された時期については、割とふわっとしているようなのですが、参考までに『文明開化うま物語‐根岸競馬と居留外国人(早坂昇治・著/1989/有隣堂)』の記述を下記のとおり整理してみました。

①1634年(寛永11年):長崎の出島が築かれ、オランダから蹄鉄技術が入ってくる。九州の一部で使われた記録が残っている。

②1725年(享保10年):徳川吉宗の時代。出島を経由してオランダから洋種馬を輸入した際に騎乗方法や獣医術とともに蹄鉄に関する情報が入ってくる。しかし、在来馬は蹄がかたくて丈夫だったためイマイチ一般に蹄鉄が広まらなかった。

③1864年以降(元治以降):横浜外国人居留地警備のために来日していたイギリスの派遣隊から日本軍が西洋式軍事訓練を受ける中で、本格的な装蹄技術が軍馬や一般の馬にも少しずつ蹄鉄が広がっていく。

④1870年以降(明治初期):横浜外国人居留地には3軒ほどの蹄鉄屋が開業。日本最初の本格的な競馬場である根岸競馬場では、イギリス人によってすべての馬に蹄鉄が装着される。

⑤1890年以降(明治中期):ドイツ人ミューラーが駒場農学校でドイツ式装蹄術を教える。イギリス式からドイツ式の装蹄術へ。

※他の資料だと上記とは微妙に異なることが書かれていたりもするので参考程度に見てください

こうやって書き出してみてハッとしました。ゴールデンカムイの舞台は北海道だということです。聞くところによれば、文明開化だ!洋装だ!といいながら、地方の隅々まで洋装化されたのは第二次世界大戦終結後のことだといいます。そう考えると横浜から入ってきた蹄鉄が北海道で定着するまで時間がかかるのは当然だったのかもしれません。

20230907追記)鶴見中尉は左遷されて第七師団(北海道)にいるし、中央にも冷遇されていたということなので蹄鉄とか入ってくるの余計遅かったかも?

▼参考

なぜ、白石発案の桜鍋だったのか?

さて。アシリパさんの助けもあり、逃げ切った杉元たち。彼らは馬橇を曳いていた馬の処遇に困ることになります。

杉元に懐いて可愛らしい様子を見せるこのばん馬、軍のものなのでアシがついてしまうかもということで3人で食べることに…。2巻では無表情のモブキャラ的に描いていたこの馬を、わざわざ表情豊かに描き読者に印象付けてから食べる流れにするところが野田サトル先生らしさといいましょうか…。うう。

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ゴールデンカムイ 第3巻 20話(野田サトル) より引用

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話を戻しますが、ゴールデンカムイではアシリパさんが紹介するアイヌ料理がひとつの名物となっていて、私の知人はそれが「金カムのメインだ!」と言うくらいです。でもこの回では、アイヌ料理ではなく白石発案の桜鍋になりました。

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ゴールデンカムイ 第3巻 20話(野田サトル) より引用


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北海道は馬産地として有名ですが、もともと野生の馬などは生息していませんアイヌ語でも馬のことは「ウンマ」と言い、アイヌ民族固有の言葉ではなく、和人から伝えられたものです。飼育も最初は和人の間だけで行われていて、後にアイヌも飼育するようになったといわれています。参考文献がひとつしか見つからなかったので、はっきりとは言いづらいのですが、アイヌが馬の飼育を始めたタイミングではすでに交通の便として馬を使っていたようです。

そう考えたときに、昔から北海道の地に生息していて、アイヌの人々の狩猟対象となっていた他の動物たちと比べると、アシリパさんにとって馬は「食べる物」といった認識があまり強くなく、杉元に食べさせたい!!!と思うような料理もなかったのかもしれません。

2023.09.01追記)実際にちょっと先の巻で、アシリパさんがアイヌは食べられない動物には名前をつけない、といった旨の発言もしている。

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いかがでしたか…? アイヌと馬の関係については予備知識が少なく、物足りない内容になってしまったかな…と思っているので、もう少し勉強してまた追記するなどアップデートができるとよいなと思っています。ではまた。

<参考文献・サイト>
『文明開化うま物語‐根岸競馬と居留外国人(早坂昇治・著/1989/有隣堂)』
秋季企画展「和の匠 浮世絵に生きる馬の風景」展覧会図録
日本の文化と繊維「文明開化と衣服」Vol.50,No.ll (1994) P-617(篠原昭)

ばんえい競馬のなりたちと変遷(帯広競馬場/2023年8月閲覧)
上川アイヌと馬(旭川市博物館)
江戸時代のウマが蹄鉄ではなく草鞋(わらじ)を履いていたという話(太田記念美術館/2023年8月閲覧)
日本在来馬と西洋馬 —獣医療の進展と日欧獣医学交流史—(小佐々学)



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