見出し画像

コロナ渦不染日記 #22

←前回目次次回→

六月十三日(土)

 ○朝は七時ごろに起床。昨夜のアドレナリンが残っているまま、午前中は日記の編集。

 ○午後は、かねて企画していた、県内旅行に出かける。
 この災禍にあって、緊急事態宣言は解除されたものの、いまだ旅行は気が引ける、というのが「世間」の通念であろう。「世間」は価値判断基準の共有と相互監視のシステムであるので、旅行業界、宿泊施設もなかなか大きく動き出せないところがあるのではないか。ぼくたちも、春先に大阪旅行を企画していたが、この災禍で中止とした。
 ところが、先日、こんな情報を得たのである。

 ビジネスホテルチェーンの「ドーミーイン」が、全国で、都道府県民限定の割安宿泊プランを打ち出して、そのひとつに、ぼくたちの住んでいる神奈川県も含まれていたのである。

 相棒の下品ラビットに相談すると、最初は興味なさそうにしていた彼も、ホームページで「天然黒湯温泉『扇浜の湯』」の文言をみかけ、鼻をひくひくさせて同意したのである。
 これが先週末のこと。そして、今日がその、週末小旅行の当日である。

 ○昼過ぎにチェックインし、まずはうわさの風呂へ。「黒湯」とはなにかと大浴場に入ってみると、湯船が真っ黒である。体を洗い、肩まで浸かってみると、胸から下は漆黒の湯に紛れて、文目もわかずといったところ。手を、胸より上にあげてみれば、うっすらと見えてくるのは、さながらコーラのなかにストローを突っこんでいるようなもので、なかなか面白い。
 じんわりとほてってきたところで、露天風呂へ移動したが、こちらはあいにくの雨で、湯船につからずとも濡れうさぎとなる。デッキに据えつけられた、黒湯をたたえた五右衛門風呂のような「壷湯」に入ったあとは、露天風呂の、こちらは透明な湯に腰から下だけ浸かって、川崎駅周辺を見おろす。駅前のごちゃごちゃしたビルが建ち並ぶ景色と天然温泉のギャップが楽しく、吹きつける風が濡れた毛皮にむしろここちよく、下品ラビットと並んで、しばらくぼんやりとそうしていた。
 露天から屋内に引っこんで、下品ラビットはサウナへ行ったので、こちらは黒湯の湯船にもどったところ、「く」の字型になっている湯船の片方に、銀色のヘッドレストがついているのをみつける。湯船につかり、ヘッドレストに首をもたれかからせると、首筋がひんやりと冷たい。首筋の血管を冷やして、体温のバランスを調整するものであるらしく、これまた面白いものをみた。

 ○湯上がりにコーヒー牛乳を飲み、その後はこぢんまりしたシングルルームに戻って仮眠。
 目をさますと六時過ぎている。ぼんやりと着がえ、ホテルのはすむかいの飲み屋で夕食。生ハムと豆腐で作られた和風パテが美味で、ついつい下品ラビットとそれぞれ三合の日本酒をいただいてしまう。

 ○部屋に戻り、ぼくは読書、下品ラビットはもう一度温泉へ。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、二十四人。仮に、新型コロナウィルスの感染から発症までを二週間とするならば、今日からは二週間前、つまり東京都を含む全国で、緊急事態宣言が解除されて以降の、新規感染者ということになる。

画像1


六月十四日(日)

 ○起床して、朝食はホテルのバイキング。うわさの「朝から担々麺」はハーフサイズが選べ、ボリュームコントロールができるようになっている。麺はストレートの中太麺で、昨夜の夜鳴きそばとは違う麺。具は挽肉、ちんげん菜、きくらげ、角煮。角煮はハッカクがほのかに香り、たいそううまい。スープをすすると、濃厚な練りごまの風味の奥から辛さがひょっこり顔を出してくる風情で、朝から食べても胃に負担が少ない。美味。

 ○昼前にチェックアウト。下品ラビットは朝風呂に入りたかったようだが、朝食をいただいているあいだに風呂は閉まっていた。

 ○駅前のニトリで、接触冷感のふとん敷きパッドと、枕カバーを買う。

 帰宅してふとんに敷くと、店頭で確認したとおり、さらさらの手触りが手の熱をひき取るようである。枕カバーは手触りの印象だけだが、ふとんは、横臥すると、毛皮があっても涼しく感じられ、これはいい買いものをしたと、下品ラビットと笑いあう。
 冷感ふとんで昼寝をし、週末小旅行は終わった。

 ○夜。海野つなみ『逃げるは恥だが役に立つ』十巻と十一巻を読む。

 四年前にテレビドラマ化され、人気になった原作は、一巻から九巻までで一区切りついて、完結ということになっていた。十巻と十一巻はその後の物語となる。
 九巻までは、就職先を探す女性が、独身男性の家事代行を通じて、「雇用関係としての結婚生活」を提案、二人は雇用契約書としての婚姻届を提出し……という、ジェーン・オースティン『高慢と偏見』を思わせる「結婚=経済」物語であった。テレビドラマ版はこの筋がメインである。


 ○この筋が独創的だったのは、現代社会において、「結婚」を中心とした諸制度と、それらにがんじがらめの生活の諸相を、綿密な取材による、ある種の博物学的な視点で描きだしたところにある。その主たる要素は、やはり主人公カップルの恋愛感情の動きであろう。「契約結婚」がトピックであるところにも暗示されているが、この二人の恋愛は、いわゆる「恋愛感情」から始まるのではない。二人は、互いを「自分がここで手を差しのべないとダメになってしまうのではないか」と考え、そうしたある種の「同情」から恋に発展していくのである。つまり、ふたりとも「感情」「情動」より「理性」が先立っているのである。
 さらにいえば、ふたりは、相手を思う気持ちよりも、自分じしんのために、相手を「利用」しているふしがある。女性主人公は、相手に手を差しのべることで、じしんの過去の恋愛の失敗をとり戻そうとする。一方、男性主人公は、「自分の人生に恋愛がなかったのは、自分じしんが行動しなかったためであるのに、それを『モテる人は(恋愛がうまくできて)いいなあ』と思うことで、他人のせいにしている」ということをこそ認めたくなくて、自己否定に走る、その材料に相手を用いている。
 この打算から始まった関係が、しかし、相手という「他者」と向きあうなかで、少しずつ変化していくところに、この物語の妙味があり、だからこそドラマ化までされた(ついでにいえば、そこが『高慢と偏見』と通ずるところでもあろう)。

 ○しかし、原作にはもう一本の筋がある。女性主人公の叔母である、五十歳処女の女性が、迫る「老い」を目前に、これからどう生きてゆくべきか、悩み、決断するというものだ。そこには、メイン筋のカップルを含めた、いわゆる「世間」の提示する「普通の人生」を歩んでこなかった人が、どんな葛藤をし、どんな決断をしながら生きてゆくか、という、普遍的なテーマが含まれていた(だから、第九巻の最後を引きとるのは、この叔母のエピソードであったのだ)。
 十巻、十一巻は、主人公カップルのその後の物語としては凡庸である。なぜなら、彼らは九巻までの冒険を経て、葛藤と決断の果てに、ある成長を果たしているからである。すべからく「物語」とは「変化の過程」であり、完成してしまったものは破滅しないかぎり物語の主役にはなりえない。だから、主人公カップルに、九巻までの冒険以上の「さらなる完成」が起こらない十巻以降を、二人の物語とし見るとあまり面白くない。
 しかし、この続編にももう一本の筋があって、それはやはり主人公の叔母であった。迫る「老い」を目前に、ある決断をした彼女は、しかしその「老い」を越えて、ついにその先にあるものを見据えなければならなくなる。これは、「変化の過程」を描くものとしての「物語」において、究極の題材であり、このなかなか答えの出ない問題に、やはり「世間」の提示する「普通の人生」を歩んでこなかった人の代表として、ひとつの回答を出すのは、やはり主人公の叔母であるところに、この物語の一貫性がうかがえる。そういう点で力作といえる。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、四十七人。新型コロナウィルスの潜伏期間を約二週間と見たときに、二週間前といえば、「この日」である。
 都の政策、国の政策の、いかにとんちんかんなものであったかは、この人数が示しているように思われる。



→「#23 動物大行進」



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


いただきましたサポートは、サークル活動の資金にさせていただきます。