見出し画像

コロナ渦不染日記 #55

←前回目次次回→

九月二十三日(水)

 ○連休明けは、いつもどおりに仕事をする。
 今朝の体温、三六・一度。

 ○仕事の帰りに、最寄り駅のロータリーで、取引先の窓口となる人とばったりいき会わせる。相手がこちらを見つけ、親しげに話しかけてきて、改札をくぐっても仕事現場の話が続く。うっとうしくてしょうがない。就業時間を過ぎてまで、仕事のことなど考えたくはないのである。

 ○管総理大臣が、政策の看板として掲げる「デジタル庁」なる省庁は、行政のデジタル化を牽引するものであるという。

 新型コロナウィルス流行は、おおきな「」となって、さまざまな場所に波を起こしてきたし、いまも起こしている。行政において、その波は、ICT活用環境の敷設が遅い、という問題点を浮かびあがらせるにいたった。おおくの国民が感じたものとしては、「特別定額給付金のオンライン申請手続きの環境不備」であるとか、「PCR検査の検査結果をデータベース化する際の手順のアナログさ」であるとかいった件であろうか。そうした問題を解決し、今後にスムーズな公共サービスを行える環境を整える、そのために新設されるのが「デジタル庁」であるという。
 そして、その「デジタル庁」が、改革の核とするのが、「マイナンバーカード」である。さまざまなデータをマイナンバーカードに一元化すれば、公共サービスに際して、スムーズなやりとりが行えるという。しかし、これは、同時に、SFでよく出てくる「それがなくなると人間あつかいされなくなる」アイテムであろう。『流れよ我が涙、と警官は言った』に代表されるような、ディック的な自己喪失感のきっかけともなるし、もしかしたら、安部公房的な「喪失による解放」のきっかけともなるかもしれない。もちろん、「不日記」などというタイトルの日記を書いているぼくにとって、後者こそ望ましい。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、二一九人。
 そのうち、東京は、五九人。
 休み明けに、報告人数がすくなくなるのを、なん度も見ていると、それだけ報告人数に対する信頼度が減ってしまう。というより、報告人数の背景にある、検査件数をはじめとした、もろもろの事情も知らなければならなくなってしまう。

画像1


九月二十四日(木)

 ○今朝の体温は三六・四度。

 ○今日は在宅勤務。現場に赴かず、一日家にいると、日が暮れるのの早さが感じられる。まさに「秋の日はつるべ落とし」。

 ○昨日から気になっている、「デジタル庁」について。
 デジタル庁を指揮するのは、平井卓也デジタル改革相である。氏が改革のモデルにしていると言われているのがエストニア共和国。一九九〇年代なかばから、行政のデジタル化をすすめ、二〇〇七年にはインターネットを介しての議会選挙を行った、世界有数の「電子国家」である。

 その設立と成長の背景には、ソビエト連邦崩壊後の独立宣言とEUへの加盟、そして二〇〇七年に起こった、世界初の、国に対する大規模サイバー攻撃を受けた事実がある——そして、そもそも、それら以前に、エストニアという国が、ヨーロッパの小国にふりかかる、「大国からの支配」や「大国同士の対立に翻弄される」歴史も。占領され、分割され、併合される歴史をたどる小国と、そこに住む国民は、つねにアイデンティティの危機にさらされる。和辻哲朗『風土』をひもとくまでもなく、人が生まれ、育まれる「そこ」は、人のアイデンティティを規定する重要な要素であるからだ。育まれた「そこ」——家族、家、土地、国——を離れることですら、人のアイデンティティは揺らぐ。いわんや喪失をや。
 だから、エストニアは、インターネットやサーバーといった「電子の土地」に、国家を受肉させた。「土地という国が失われても、国民をつなぐ政府を存在させる」ためである。このビジョンは、非常にサイバーパンク的でもある。ネットワーク空間、電脳空間という「土地」が存在するのであれば、そこに、おのれの精神の記録媒体[メディア]であり、おのれの精神を具現化し、他人に提示する表象[メディア]であるところの、「肉体[アバター]」を作ることができるのである。これは国家においてもおなじことだ。

 ○しかし、上に挙げた記事でも語られているが、エストニアの例は、人口一三〇万人の国だからこそうまくいったものだとも言える。そして、それでもなお、世界初の国家を相手にしたサイバー攻撃にさらされるなど、苦難は襲いかかってくる。仮に、日本がエストニアをモデルに行政の電子化をすすめたとしても、こうした事態を切り抜けられるかどうかは、エストニアをモデルにしているだけではおぼつかないことであろう。日本文化はアレンジの文化なので、そこはうまくやれるかもしれない。しかし、日本文化は「世間」の文化なので、変化を嫌う「世間」の、可塑性をこそうまくつかなければならないかもしれない。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、四八四人(前日比+二六五人)。
 そのうち、東京は、一九五人(前日比+一三六人)。
 今日から、前日比をつけることにした。


九月二十五日(金)

 ○今朝の体温は三六・五度。

 ○朝から雨が降っているのもあって、寝起きから肌寒い思いがした。春以降初めて、ジャケットを着て出勤する。

 ○仕事は上々。かなりの手応えを感じられた。ほくほくして帰宅する。

 ○帰宅途中、Amazonプライムビデオで配信中の、テレビドラマ『妖怪人間ベラ』を見る。

「ベラ」を名乗る、どうやら人間ではないらしい謎の美少女の周辺で、たたけばほこりの出る少女たちが、次々と破滅していく……というプロットは、この手のドラマに珍しい、突き放したドライさがある。主人公のベラは、ほとんどしゃべらず、主体的に行動はせず、そうした彼女のまわりで、彼女の行動を邪推したものたちが、勝手に破滅していくのは、おのれの邪心に負けた結果であり、必然的に「人間の弱さ」を見せつけて、ノワール的ですらある。
 特に、第一話からベラの異常性に気づく、狂言回しの少女「詩織」がすばらしい。彼女は、ベラこそ、かつて自分の親友であり、自分とともにかつて所属していた仲良しグループからのいじめに遭い、自殺した少女「梢」の復讐を果たそうとしているのだと思い込み、恐れおののく。しかし、それは、詩織が、他の少女達が破滅していくさまをすぐそばで見ていながら、救いの手をさしのべようとしない、自分じしんの弱さや、破滅する姿を看過する邪悪さから目を背けている、そのことの自覚の裏返しである。
 つまり、このいじめられっ子の、弱々しい少女こそ、実はもっとも薄汚い裏切りものなのである。そして、じしんの裏切りを自覚しながら、開き直りもせず、自分は被害者であると言い張って責任逃れをしようとする、浅はかな卑怯ものなのである。
 どんな現象も、それに触れた人間の反応を引き出す。鏡を見て怒り出す人間は、鏡に怒っているのではなく、鏡に映る自分に怒っているのである。つまり、ベラがなにもしゃべらないからこそ、相手がその人ならではの反応を示してしまうのである。そうして、怪奇現象という人知を超えた現象を通して、逆説的に現実の事物では示し得ない、人間の限界を見せつけるのが、怪奇幻想物語の構造だとすれば、これは極めて秀逸な怪奇幻想作物語でもある。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、五七五人(前日比+二六五人)。
 そのうち、東京は、一九五人(前日比±〇人)。



→「#56 バラ色の日々」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


いただきましたサポートは、サークル活動の資金にさせていただきます。