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透明人間に  を――『インビジブル』

週報2017.4.15-21

やあ。下品ラビットだぜ。
毎日大変だよな。おれも大変だよ。
noteの不具合で、二度も原稿がダメになったんだ。
下書き保存して、再開すると、一部がごっそり消えてしまうんだ。どうやら画像添付が関係しているみたいだが、まだ原因は特定できない。
また、改行したり範囲指定してデリートすると、元の文が残ったまま、次の文章が接続されてしまう。これはアンドゥ/リドゥ機能と関係していそうだが、これも原因は特定できない。
さらに、webでの動作と、iOSアプリ版では出力される結果が違う。
困ったもんだぜ。noteのスタッフには、早いとこなんとかしてもらいたいな。

さて、おれは今週は、『KARATE KILL』についてしゃべる予定でいた。

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『KARATE KILL』はすごい映画だぜ。
度肝を抜くアクション、ハラハラドキドキのサスペンス、ゴアゴア満載のバイオレンス、ほのかだが印象的なラブ、おっぱいと尻が踊るセクシー、そしてエクストリームな状況としてのバカ。面白いエンタテインメントを構成する要素が全てある。
おれとうさぎ小天狗が今年見た映画の、暫定ベストワンだ。みんなも気になったら見てみてくれよ。

だが、その予定は、昨日見た映画で取りやめにした。
おれが今週とりあげたいのは、これだ。

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オランダの映画監督、ポール・バーホーベンについては、おれが特に何かいうことはないだろう。
ポール・バーホーベンは、とにかくすごい映画を作る、とにかくすごい監督だ。
『ロボコップ』、凄いバイオレンスだったよな。『トータル・リコール』、おっぱい三つの娼婦に度肝を抜かれたよな。『スターシップ・トゥルーパーズ』、あの地獄絵図を見てないなんてことはないよな。『氷の微笑』、ミニスカの奥のサスペンスに目を凝らしただろ。『グレート・ウォーリアーズ/欲望の剣』、中世暗黒バイオレンスロマンに一輪咲いたラブの行末に感激したぜ。
『ショーガール』の伝説は知ってるかい。ショービズ界の裏側を、ゴージャスかつ赤裸々にカリカチュアして見せることで、その本質を突いたこの映画は、その凄まじいエロスと下品さで、かのゴールデン・ラズベリー賞を七部門受賞した。その受賞式に、バーホーベン本人が駆けつけ、最低監督賞を受け取ったばかりか、コメントまで発表したんだ。他のゴールデン・ラズベリー賞受賞監督で、授賞式に駆けつけたやつはいないから、バーホーベンは誰にもできないことをやってのけたんだ。
こいつは男だぜ。自分のしたことがどんな結果になろうとも、恥じていないどころか、胸を張ってその評価を受け止めたんだからな。
おなじ男と生まれたからには、おれも彼のように誇り高くありたいもんだと思うんだ。
そんなバーホーベン監督だが、彼がじぶんのフィルモグラフィで唯一「こいつぁあんまりいい作品じゃなかった」と言っているのが、今回取りあげる『インビジブル』だ。
何が彼をしてそう言わせるか。それはこの原稿の最後にお伝えすることにしよう。

この映画はどんな映画か。
「インビジブル」は「目に見えない」という意味だから、感のいい人はH・G・ウェルズの『透明人間』と関係があるだろうと想像するだろう。これは半分正しい。いかにも、『インビジブル』は『透明人間』の現代版だ。いい機会だから、原作を読んでみるといい。そんなに長い小説じゃないし、青空文庫で公開されている、海野十三の翻訳は、歯切れがよく、読んでいてここちよい。

ハーバート・ジョージ・ウェルズ『透明人間』(海野十三・訳)

おれも、今回この原稿を書くために、『透明人間』を読んでみた。すると、『インビジブル』が、原作にかなり忠実な映画化になってるという印象を受けた。
話の筋は結構違うし、そもそも時代設定がぜんぜん違うんだが、その精神性と、そしてあるテーマについて、暗に語っているところが、しっかりと受け継がれている。
それは、実は、タイトルにも現れているんだ。

『インビジブル』の原題は『Hollow Man』という。『The Invisible Man』じゃないんだ。『インビジブル』てのは日本の配給会社がつけた勝手邦題なのさ。
では、『虚ろな男』とはなにか。hollowには「空洞」「そこにない」という意味がある。しかし、「そこにいない男」なんてナンセンスだと思うだろ。「そこにいない」が「そこにいる」んだからな。
だが、この世には、たったひとつだけ、「『そこにいない』が『そこにいる』」、つまり「偏在」することが可能な存在がある。
それは「」だ。
キリスト教の神こそは、「『そこにいない』が『そこにいる』、たったひとつの存在」なんだ。
このことを、バーホーベン監督が意識していることは明らかだ。透明人間になってしまう男・ケインをして、「神はおれさ」と言わせているし、透明人間になったケインに関して、登場人物に「やつは神になったつもりでいやがる」と言わせているんだからな。
脚本はアンドリュー・W・マーロウという人で、直接バーホーベン監督が書いてるわけじゃないが、演出にしても編集にしても、しっかりと「ケイン=透明人間=神」という図式を示している。
そして、実はウェルズの『透明人間』も、「透明人間=神」という図式を持っている。

「おれの姿がおまえに見えないからって、おれは怪しい人間ではないんだ。ただわけがあっておれの姿は空気とおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ」
「えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ」
「ところがいるんだよ。いま、おれの体にさわらせてやるからな」
 あっけにとられているトーマスの手が、だれかの手につよくにぎられた。
 トーマスは、おずおずしながら手さぐりであたりをなでまわすと、なるほど、たくましい男の体からだが、はっきりと手ざわりでさぐれた。

これは、透明人間がトーマス・マーヴェルという男を、自分の研究成果を取り戻させるための手下にしようとするシーンだ。これは科学的に「透明人間」をとらえれば、なるほど物理的にその実在を感触する場面ではあるだろう。だが、同時に、これは宗教的に「神」の実在を確かめるシーンとも考えられるはずだ。
おれはインテリの読書家なので、妄想じみた深読みをすることもできる。先の引用部分で、透明人間の実在を感触してしまう人物「トーマス・マーヴェル」の名前にも、いろいろ意味を見いだせるんだ。
「トーマス」はイエスの十二使徒のうちのひとり、聖トマスを指しているだろう。彼は「疑り深いトマス」とも言われている。キリスト教の経典で「疑り深い」といやあ、それは「神の実存」に対して疑り深いって意味さ。
また、「マーヴェル」は「驚嘆すべき」とか「すんげえ」とか「驚くもの」という意味がある。疑り深いトマスが驚くわけさ。何に関して驚くかは、言わずもがなだ。
では、この場合の「」は、キリスト教の神なのか。そうじゃないよな。しょせん、こいつは「透明になった人間」だ。キリストっていうならアリだが、神そのものではない。
じゃあ、この場合の「神」はなにか。「科学」だよな。透明人間を透明にしたのも、その実在を目の当たりにした舞台となる田舎町の人々を驚かせたのも、すべては「科学」のなせるわざだ。
ウェルズは「科学」という「」を描いたんだ。
「でも、そうなると、『透明人間=神』っていったのはおかしくないか?」とあんたはいうかもしれない。それは正しい。
そのおかしさが、実はウェルズの『透明人間』と『インビジブル』の根幹をなす部分なんだ。

『インビジブル』に話を戻そう。
映画の話は、原作同様、「透明人間になる薬を開発したものの、もとに戻る薬が完成せず、ずっと透明なままでいなければいけなくなった男が、むらむらとあさましい欲望を刺激され、透明状態を悪用して騒動を巻き起こす」というものだ。
原作では、透明人間は、田舎町のひとびとを脅かしたり、教会から金貨を盗んだり、けちな犯罪を繰り広げ、ばれると逆ギレする。バーホーベン監督は、これを現代的にアレンジした。その結果、透明人間セバスチャン・ケインは、こんな悪行をくり広げる。

寝ている女の乳を揉む
ずっとムラムラさせられてたナイスバディの隣人をレイプ
うぜェ上司をだましうち

どうだい、すさまじいゲスさだろう。特に、「寝ている女の乳を揉む」シーンのゲスさはさいこうだ。
当直中につい居眠りしてしまった女性スタッフの、カーディガンのボタンが一つ、また一つと外れていく。そしてあらわになったノーブラおっぱいが、ふにゅ、ふにゅ、と形を変える。そのおっぱいはなぜ形を変えるのか。イエス、透明人間だ。
公開当時の最新CG技術を使って描かれる、透明人間の実在に驚嘆した観客も、おなじく最新CG技術で描かれる、この「透明人間による乳揉みシーン」には、別の意味で驚嘆したことだろう。
こんなスゲー技術を使って、こんなどうしようもないことをしてやがる! とね。

だが、それこそが、この『インビジブル』という映画の本質だ。
最新CG技術を使って、こんなどうしようもないことを本気で映像化するように、現代の「神」であるところの「科学」を使っても、人間はどうしようもないことしかしない。
いや、できないのかもしれない。
透明になって、だからなんだというんだ。まぶたが透過できてしまうので、目を閉じても眠ることができない。これは、透明人間ではなく透視能力を扱った、ロジャー・コーマン監督の映画『X線の眼を持つ男』でも描かれていた。目を閉じても眠れないと、気絶する以外に眠る方法がないから、強いストレスでどんどんあたまがおかしくなっていく。

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それに、「どこにいてもおかしくない」ってことは、周囲の人間に「監視されているかも」と思わせてしまい、実際そんなことをしていなくても、疑いをかけられ印象が悪くなる。『インビジブル』では、ヒロインにして透明人間ケインの元カノであるリンダが、「どこで見てるかわかんないわ」と嫌悪を漏らすシーンがある。
おれたち人間には、神のごとき力、それは「透明=偏在する力」や「透視能力」は、コントロールできないものなのさ。
そして、現代は、『透明人間』の書かれた十九世紀末とは、人のこころのかたちもずいぶんと違う。教会の金を盗むだけじゃすまないし、透明人間薬を作る理由も、国家規模のスケールを持つ。「科学」という「神」は、ますますコントロール不可能になっているんだ。

そして、実は、これはバーホーベン監督が、そのフィルモグラフィで描いてきたことでもある。
すなわち、「『人間はどうしようもない存在である』という真理」だ。
『ロボコップ』や『スターシップ・トゥルーパーズ』の未来社会は、サイボーグ警官や宇宙戦艦が作れるようになってはいるが、人間のどうしようもなさまでは変えられない。それどころか、どうようもなさを加速させてすらいる。
『氷の微笑』や『ショーガール』が描く現代社会は、虚飾にまみれ、誰もがどうしようもない自分を、自分じしんの眼からも隠して、ほったらかしにしている。
『グレート・ウォーリアーズ/欲望の剣』で描かれた、中世時代のけだもののような人間たちと、なんら変わることがないのさ。むしろ、自分たちがけだものだとわかっているだけ、『グレート・ウォーリアーズ』に現れる傭兵旅団のほうが、人間として清々しいといえるかもしれないくらいだ。
おれたち人間は、いつだって「Hollowな存在」なんだ。
そのことに気づいたら、おれはこの映画を、週報で紹介したくてしょうがなくなってしまったんだ。

あんたも考えてみろよ。
もし、透明になれたら、なにをする?
そして、もし、透明になったところから、元にもどれなくなったら、どうする?
その答えが『インビジブル』だ。
例外はないぜ。

ところで、こんな傑作を、バーホーベン監督は、自分のフィルモグラフィの中で唯一「あんまりいい作品じゃない」と言っている。
それはなぜかというと、

「雇われ仕事で、おれらしさがでていないから」

だってよ。
そりゃ間違ってるよ、バーホーベン監督。こんなに赤裸々に、晴れ晴れしく「人間のどうしようもなさ」を描くことができるのは、あんたみたいな「男の中の男」しかいないぜ!

そんなバーホーベン監督の新作『ELLE(エル)』が、今年の八月の日本公開になるそうだ。

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楽しみだぜ。


(下品ラビット)

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