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スリー・ニンジャズ・アンド・ベビー #2

ホラー・アット・ デイ・ナーサリー 

 深夜……ネオサイタマの闇を駆ける者あり。
 高層ビルから別のビルへ、軽々と飛び移るは何者?
 ……しかり、しかり。イグザクトリー。それはニンジャである!
 メンポの上の虚ろな眼差しは、目の前の光あふれる近未来都市のマンゲキョめいた美しさに小ゆるぎもせぬ。ただ己の行く先のみを見つめ、跳躍と疾走のルートを判断するための、ニンジャ知覚力の情報源としてのみ活用する。彼はニヒリストであり、リアリストであった。
 アドバンスド・ショーギのグリフォン駒めいた無駄のない動きで、彼はビルとビルを跳躍と疾走で結ぶ。小脇に抱えた耐酸性バッグを高く投げ上げたのも、続くビル壁面を蹴っての回転跳躍の頂点で受け取るため。そのままビルを飛び越し、別のビルの壁面を蹴って回転、地に降りた。
 地を駆けるニンジャは、やがて閑静な住宅街の一角に足を踏み入れる。カネモチたちがその贅を見せつけるために、あえて江戸時代風にしつらえた石壁が続く広い街路。
 そこを、影が伸びるより早く駆け抜けたニンジャは、ある角を曲がったところで、ライターほどの大きさの機械を取り出した。スイッチを入れると、機械はかすかなBEEP音を発する。片手にそれをかざしながら、彼はある邸宅の石壁を回転ジャンプで飛び越えた。機械の発する特殊な信号が、石壁の放つセンサー網に反応、警報を無効化し、同時に内部の仲間に到着を知らせる。闇にそびえるドージョーの入り口に人影が立った。
 ニンジャは速度を落とす。
「ドーモ、アブサーディティ=サン。ご苦労だった」
 アイサツを寄越す人影の前で足を止めた。
「ドーモ、アンバサダー=サン。依頼の品だ。中身を改めよ」
 そして脇に抱えた耐酸性バッグを無造作に突き出した。

◆ ◆ ◆

「ホギャー! ホギャー!」
 静かなドージョーに泣き声が響く。『不如帰』とショドーされた掛け軸が、ボンボリ・ライトの奥ゆかしい光が、泣き声に揺らぐ。
「チッ、ウルセェなァ」片手を枕にタタミに寝そべるイグナイトが言った。「泣き止まねェのか」泣き声を立てる布包みを素足で小突く。
「ホンギャー!」
 布包みが泣きわめき、イグナイトは「チッ」と再び舌打ち。
 そこへ、
「腹が減っているのだと言ったろう」ドージョーに正座する美しい女が言った。手にしていたチャ・カップをタタミに直置きし、正座を崩して布包みに身を寄せる。純白のボディスーツめいた忍者装束の胸が豊満だ。
「いつまで待たせやがンだ」イグナイトは空いた手で耳をほじりながら言う。「なあ、アンタ、乳やれねェか?」
「出るわけがなかろう」美女が答えながら布包みを抱き上げた。
「なんでだよ。そんなにデケエんだから出ンだろ」
「ハン、つまらん冗談だ」
「チッ」
 イグナイトの舌打ちを無視し、美女は布包みを開く。
「ホギャー! ホギャー!」
 泣き声が一層大きくなる。声の主はモンキーめいた赤子だ。
 顔中をシワだらけにして泣き叫ぶ赤子を、美女は目を細めて眺める。
「クク、カワイイではないか。……食ってしまいたいほどに」
「アンタが言うと冗談になッてねェよ」
「ククク」
 美女の名はフェイタル……彼女もイグナイト同様、ザイバツ・シャドーギルドのニンジャである。ウキヨエ・ピンナップめいた美貌と裏腹に、ひとたびイクサとなれば、恐ろしい獣の姿に変ずるヘンゲ・ニンジャ。その姿のコワイさとサツバツたるワザマエを知るイグナイトが、先ほどのように述べるのも無理はなかった。
「ホギャー!」赤子は泣き続ける。
 フェイタルは腕に布包みを抱き、ゆっくりと揺らしながら、
「これからどうするつもりだ」
 イグナイトに問う。
「どうって、やるに決まッてンじゃねェか」イグナイトが飛び起きる。「イクサだよ。あいつはかならず来る。それをアタシが……」
「その話ではない」
「じゃあなンの話だよ?」
「この赤子だ」
「アァ?」
「この赤子を、お前はどうするつもりだ」
「アー……」
 イグナイトは黙りこむ……その時、ドージョーのフスマが開き、新たなニンジャがエントリー。
「待たせたな、ミルクだ」
 アンバサダーは耐酸性バッグを二人に見せた。
「おせェンだよ!」イグナイトがだらしないアグラ姿勢で振り返る。「ずッとこいつ泣きッぱなしだッたンだぞ。うるせえッたらねェんだ!」
「お前が連れてきたのだろう」
 目を合わさず答えたアンバサダーがタタミに正座すると、
「では、私は帰るとしよう」
 フェイタルが立ち上がった。
「ハァ? なに言ッてンだよ?」
「お前が連れてきたのだ。お前が面倒をみるがいい」
 フェイタルはそう言うと、アグラしたイグナイトの膝の間に赤子の布包みを置き、
「ではな、アンバサダー=サン」
 若き上司の肩をポンと叩くとドージョーを出て行った。……その時!
「ホギャー!」
 フェイタルのあやしに沈黙していた赤子が再び泣き始めた。
「うるせッ!」顔をしかめるイグナイト。「オイ、アンバサダー=サン、はやくしろ!」
「なに?」
「だから、早くそれで黙らせろよコイツを!」
「待て、待て、手順が要るのだ」
 アンバサダーはシシマイ型UNIXのキーボードに触れる。スリープ状態だったUNIXが再起動。アンバサダーの顔を緑に照らす。
「ふむ……まずは人肌に暖めた湯で、この粉末を溶く、か」アンバサダーは文字情報を読み上げながら、『ヨロシイ&オイシイミルク』と書かれた長方形パックと哺乳瓶を取り出した。
「ホギャー!」赤子は泣き続ける。
「チッ、なんだよソレ。アンタ、アイツに指示出し間違えたンじゃねェの?」
「どういうことだ」
「ホギャー!」
「すぐ飲めるもん買ッてこいッて言やァよかったじゃねェか」
「そうもゆかぬ。赤子はデリケートなのだ」
「ホギャー!」
「アア! うるせェ! なンでもいいからはやくしてくれ!」
「……」
 アンバサダーはUNIX操作、文字情報を転写したパンチドテープを手に、ドージョーを立った。江戸時代風のキッチンの明かりをつけ、チャを淹れた時のヤカンで湯を沸かし直す。その間に『ヨロシイ&オイシイミルク』のパックを開け、スプーンで適量を掬い出し、哺乳瓶に入れる。
 湯はまだ沸かない。彼はため息をつき、大理石シンクにもたれた。
 ……二、三時間前、泣きじゃくる赤子を文字通り手にイグナイトが現れた時の、衝撃と脱力が甦る。彼は頭を抱えた……年若い彼より更に若いこの部下の無軌道な言動はいつものことだが、今回はその経験から予想できる範囲をはるかに超えていた。
 そんな彼に、イグナイトは赤子を手に入れた経緯を話し、これ(赤子のことだ)は退屈しのぎのイクサの必需品だと述べた。ストーンコールドと名乗る謎の野良ニンジャは赤子を求めて現れる、それまでここに置くことにする。アンバサダーは咄嗟に切り返す文言を思いつかなかった。その間も赤子は泣き続けた。
 もう一人の部下、フェイタルを召喚したのは、本当に何も思いつかなかったためだ。彼女はイグナイトの報告と主張を一笑いし、泣き止まないのは空腹のためと指摘。アンバサダーは、いま一人のネオサイタマ常駐ニンジャ、アブサーディティに買い出しを依頼……そして今に至るというわけだ。
 シュンシュン……微かな湯気が立ち上るヤカンから湯をユノミに注ぎ、濡れたテヌギー・チーフで覆ってこれを冷ます。すべてUNIXで調べた通り。ニンジャである身がなぜこのようなベビーシッターめいたことを……と考えて、はたと彼は思い至る。

◆ ◆ ◆

 ……翌日。
 昼下がりのネオサイタマが霧に烟る。窓越しに、遠くカスミガセキの高層ビルが神話巨人の群れのように佇立しているのが見える。
 トコシマ地区カミオンナ・ストリートの商業ビル四階四〇三号室は、キョート風の奥ゆかしいBGMに包まれ、午睡にたゆたうよう。実際時刻は午後三時半。四人の子供たちは昼寝の最中だ。
 寝顔を確かめたヤツハシ・ミゴワが、静かにフスマを閉めてキッチン兼応接間に戻ると、共同経営者兼送迎運転手のジン・フォトダが、来客にチャを勧めるところだった。来客用ソファに座るのは……若い女。
「アリガトネ」
 女はあけっぴろげな笑顔でチャをすする。ZZZZZZ! ヤツハシはその奥ゆかしさのかけらもない態度に嫌悪感を抱いた。やってきた時の横柄な態度も、勧められる前に勝手にソファに腰を下ろす行動も、先程からじろじろと部屋を見回す視線も気に食わない。さらに!
「ゴチソウサマ」
 作法を無視してチャを飲んだ女は、くちゅくちゅと口をゆすぎ、チャ・カップにガムだけを吐いた。奥ゆかしさ減点行為!……ヤツハシは彼女を典型的なヤンクと見当。見た目からしてそうだ。無数のジッパーと鋲に彩られた、耐酸性ブラックレザーコート。破れたジーンズ、ワイルドなブーツ。
 そこで、ヤツハシは女の側に置かれた布包みに目をやる。その中身がなんなのかに関しては、ヤツハシにはすぐ見当がついた。なぜならここは『ウサギチャン託児所』! ヤツハシ・ミゴワと彼女の内縁の夫ジン・フォトダが経営する、ネオサイタマ市の認可を得た託児所であったから!
 しかし……ヤツハシの注意は、女がアーとかウーとか唸りながら、先ほど書き終えた書類とともにテーブルに置かれたものにひきつけられる。クレジット素子!
 ジンを見れば、彼も託児契約説明の合間にちらちらとクレジット素子に視線を走らせている。金がほしいのだ。
 「……というわけでこちらでは一晩につき……」
 ヨロシサンマグカップのチャで唇を湿らせたジンが、『ウサギチャン託児所』の料金説明を続ける。それを半ば聞き流しながら、ヤツハシは布包みから目を逸し……そこで女と目があった。
「オバサン」女は言い、包みを放った。
「アナヤ⁉」
 ヤツハシは慌てて両手を差し出す!
 間一髪! 布包みはヤツハシの両手に収まった!
「ホギャー!」騒々しい泣き声!
 ヤツハシは一瞬うろたえたが、すぐにヘイキンテキを取り戻し、
「オーヨチヨチ」
 何度となく繰り返したメソッドにしたがってゆっくりと布包みをゆすり始めた。
「ナイスキャッチ」女はせせら笑い、どかりと背中をソファに預けた。
「ホギャー! ホギャー!」布包みは泣き続ける。
「オーヨチヨチ」
 ヤツハシはあやし続ける。あやしながら、布包みを開いた。
 現れたのはやはり、頑是ない赤子であった。
「あら……」ヤツハシの顔がほころんだ。
 やがて赤子の顔から緊張が消え、初々しい唇がゆるやかに結ばれる……泣き声が止む。
「ヘッ、大したもんだな」
 女が尊大な態度で言うのを耳にしながら、ヤツハシは過去を回想する……初めて産んだ子を……離婚した夫の跡取りとして、今もキョートにいるであろう我が子を……。
 しかし……ヤツハシは赤子をあやしながら女を見る。まるで気のないそぶりでジンの説明を聞いている女は、この赤子にとってなんなのか。見たところ年は若い。服装からするにネオサイタマにありふれた無軌道ヤンク。すると、無計画セックス行為の果てにこの子供を産んだのだろうか?
 だが、それならばなぜ託児所に? ネオサイタマ現政権下の平均月収と、育児家庭が子供にかける費用の比例グラフは毎月少しずつ下降している。育児サービスのクオリティは所得レベルによって実際マッポーめいた格差があり、託児所利用はその中でもアッパー層の選択肢だ。
 ヤツハシはそっと布包みを開く。赤子の着ているベビー服は低所得層にお馴染みのブランド。しかし、履いているオムツは高級ブランドの中級商品。そしてオムツの装着手際は悪く、明らかに育児に慣れていないものの手による。このちぐはぐさはなんなのか。
 ヤツハシが考え込んでいると……、
「では、ご了解いただけましたか?」
 ジンの確認に、
「アー、ウン」
 女がおざなりに答えるのが耳に入る。「それで足りる?」
 女が示すクレジット素子をジンが端末に通すのが見える。
「……アイエッ?」ジンが呻く。
「足りない?」
「いや……しかしこれでは……」
「くどくど言わずに受け取っときゃアいいンだよ」女が笑う。
 ジンがおずおずとクレジット素子を収めると、女はソファを立った。
「い、今からですか?」とジン。
「文句あンの?」
 女の目が細められ、立ち上る剣呑なアトモスフィア。
「イエ……アッハイ」
 ジンが答え、ヤツハシは契約が成立したことを知る。
「ンじゃ、アバヨ」
 女がひらひらと手を振り、赤い頭にヘッドホンをかぶせた。託児所のラグジュアリーBGMに、ヘッドホンから漏れたシャカシャカと不快なサウンドが混じる。
 女の言動に呆れ返りながらも、ヤツハシはキョート風に奥ゆかしくオジギ。慌ててジンもそれに倣った。

◆ ◆ ◆

 空を覆う灰色の雲から細かい雨が降り出した。人体に有害な重金属成分を多量に含んだ毒の雨。薄暗い街路を行く人々は、そそくさと荷物から傘を、PVCカッパを取り出す。近未来都市ネオサイタマにはありふれた光景だ。
 午後四時。
 トコシマ地区カミオンナ・ストリートの商業ビルのひとつから、いま、無数のジッパーと鋲に彩られた黒い耐酸性コートを着た、痩せた女が現れる。小刻みに頭を振りながら歩く女の、燃えるような色の頭にはヘッドホン。漏れる音は……アンタイ・ブディズム・パンク。
 ビル守衛が女の胡乱な佇まいに眉を潜める。
 女は気にした風もない。
「チッ、やンなッちまうな」
 唇を尖らせ、ショウウィンドウの一つに顔を写す。炎のような髪はへたり、目の下には隈。充血した目をぐるりと動かす。
「雨、雨、雨……ジメジメしやがッて、いけすかねェ街だ」
 女……イグナイトはメイクを確かめ、特異な髪型をいじる。湿った指ざわりに唇をひん曲げた時、懐でBEEP音。耳を聾す音に買い物客が振り返る。イグナイトはヘッドホンを外し、IRC携帯通信機を取り出し確認。
「メッセージでいいじゃねェか」呟いて通話オン。
 IRC通信機から聞こえる相手の声に、
「おォ、ちゃんと行ってきたよ」とぶっきらぼうに返答する。「あァ、あァ、わかッてるって……監視だろ監視。ダイッジョブ」
 相手の返事に耳を澄ませながら、口に指を突っ込み、ガムを取り出す。ショウウィンドウになすりつけた。「いいよ……アタシがあのネエちゃん苦手なの知ッてンだろ」
 イグナイトは相手……アンバサダーに答え、背後のビルの四階、七色のカワイイポップゴシックフォントで書かれた『ンヤチギサウ』の文字を見上げ、せせら笑う。「ヘッ、お優しいこッて……」
 やがて、通話を終えたイグナイトは、再び頭にヘッドホンを被り、コートの襟を立てて歩き出した。
「清々したぜ」
 つぶやく彼女の、赤い瞳が暗い陰りを帯びたことに気づくものはいない。

◆ ◆ ◆

 ……八時間後。
 半日預かりの子供四人を、それぞれの家庭に送り届けたジンが帰宅。
 彼が買ってきた半額パック・スシの夕食を取りながら、ヤツハシは奥のフスマに目をやる。
「実際、どう思う?」
 訊かれたジンは嘆息した。「俺もおかしいとは思う。だけど、『背中と腹は役目が違う』、だろ」
「そうね……」
『ウサギチャン託児所』はネオサイタマ市の認可を受けている。しかし、その経営は逼迫していた。 契約家族はより大規模な企業経営の託児所に鞍替えし、最近、市の助成金も減った。その挙句が家賃滞納……キョート風を謳ったことが裏目に出たか。
 そもそも、二人がこの仕事を始めたのは、ジンが務めていたトーフ工場が先年、謎の火災によって操業停止に追い込まれたことに端を発する。当時、夫と離婚しキョートからネオサイタマにやってきたヤツハシは、オスモウ・バーのオイランをしながらジンと暮らしていた。オイラン稼業は客からのチップが頼みだ。しかし、キョート風の奥ゆかしさを身につけていても、さして美しくもないヤツハシには基本給を超えるチップを稼ぐことはできなかった。客とネンゴロになる選択肢もあったが、ジンの存在と、ヤツハシのプライドがそうさせなかった。
 結果、二人の生活は困窮し、オカラを買うカネにまで困るようになった(オカラなどそれまでジンが職場から持ち帰っていたというのに!)。そんなある日、ヤツハシはオスモウ・バーの同僚からベビーシッターを頼まれた。非番の日にアルバイトができると承諾したことから、ヤツハシの眠れる母性が甦った。
 キョートのカチグミ子弟に嫁ぎ、厳格な姑の教育的指導に耐え、やっと授かった息子とは英才教育のためと離れて暮らす非情運命に逆らい、涙も凍る冷たい家庭を去ってから、二度と愛を求めまいと誓ったヤツハシだった。ジンとも、将来を考えぬ、乾いた共生関係だった。しかし……彼女は母性に未来を見た。そして、二人は、ジンが内臓を売って得たカネでこの部屋を契約、少なくないソデノシタ(訳注:賄賂のこと)により市の認可も得た。街頭占い師のサイバー占星術に従い、縁起のよい『ウサギチャン』の名前をつけた託児所は、マッポーのメガロシティにぬくもりをもたらす……はずであった。
「それで、迎えはいつ?」
「明日の昼に見に来ると言っていた」
「じゃあ、今夜は引き取りはなし?」
「そういうことだ」
「なんてこと……」
 ヤツハシは頭を抱えた。これではまるでユーレイが産んだ子をキャンディとともに託児するホラーストーリーめいて不可解! 理不尽!
 と、ヤツハシはあることに思い至った。
「……そういえば、あの子、名前は?」
「ちょっと待て」ジンが立ち上がり、書類を調べる……。「ブッダミット! 空白だ」
「アナヤ!」
 まさか名前すらつけていないとは! ヤツハシの胸に怒りの炎が灯った! ウサギチャン託児所始まって以来の珍事であるし、ヤツハシの倫理観に照らし合わせても、これはあまりにもむごい!
「ちょっと、それ貸して」
 ヤツハシはジンの返事を待たず、書類をひったくり記載の連絡先にIRCコール。
『……ンあ?』
 女の声にヤツハシの胸の怒りが増す!
「ドーモ、こちら、ウサギチャン託児所ですけれども」
『あア、なに?』
「本日お預かりしたお子さんのことなんですけれども……」
『チッ……なンだよ?』
「お名前の欄が空白で……」
『それか。アー、そっちで適当につけといて』
「そんなわけには参りません!」答えるヤツハシの声に思わず怒気が声に混じる。「大切なお子さんでしょう!」
『アー、アー、うるせェな。わかッたわかッた、今から行くよ』……通信途絶。
「スゴイ・バカ!」
 憤懣やるかたないヤツハシは、キョート人にあるまじき悪罵を吐きながら、そのたるんだ尻をドスンとソファにたたきつけた。
「……どうだった?」とジン。
「今から来るって……なによ、近くにいるっての?」
「アー、まあ、そういうこともあるのか」
「ジン=サン、そんなことでいいと思ってるの?」
「そう言われてもな」
 ヤツハシの剣幕に及び腰のジンは、空のスシ・パックを手にキッチンに逃れた。
 ヤツハシはいらいらと煙草を探し、託児所イメージ重点のために禁煙していたことを思い出す。「シット!」頭をかきむしりながら立ち上がると、隣室へのフスマに向かう。
 それでも、保母のならいか、音を立てずフスマを開けた。
 灯りに慣れたヤツハシの目に、ブラインドをおろした寝室は暗く静か。一時間前には空腹でむずがっていた赤子は、今はおとなしく眠っている。
「かわいそうに……」
 静かにベビーベッドに歩み寄ったヤツハシは、その寝顔を見下ろし囁く。……その時だ!
 BEEP! インターホンが鳴る。
「ハイ、タダイマ!」
 ジンの声、そして玄関のサイバー錠が解除される音。
「お母さんかしらね……ううん、違うわ」ヤツハシは愛しい赤子の寝顔を見下ろし、苦々しげにつぶやく。「あんなのが母親なわけない」
 ヤツハシ手を差し伸べ、柔らかい頬に触れる。優しい手触り……思わず顔を寄せる。甘ったるい赤子の体臭が、彼女の胸に甘い痛みを呼び起こす。
 過ぎ去った時は戻らない……そんなことはわかっている。それでも、彼女の胸にはいつの日か己の息子と再会する夢が息づいていた。
 ……だが、彼女はマッポーの世の定めを甘く見ていた。
「アカチャン」
 声に、ヤツハシはぎくりとし、慌てて振り返った。
「私の、アカチャン」
 声の主は、隣室の灯りを背に立つシルエット。黒く塗りつぶされ顔は解らぬ。
「お静かに。お子さんはお休み中です」
 言いながら、彼女はシルエットに違和感を覚えた……昼間目にした若い女は、こんなに背が高かったか?
「……」女は無言。
 ヤツハシは訝しみながらも、
「先ほどお尋ねした件ですが」
 女に言葉を投げつける。
「記載の不備は事後ですから致し方ないとしても、その後のお言葉から、お母さんには母としての自覚が欠けているんじゃないかと判断」「ホホ」
「なんです?」
「ホホ……ホホ……お母さん!」
 突然!
「ホホ!」
 シルエットが甲高い笑い声を発した。
「ホホ! お母さん! ホホホホホホ! アカチャン!」
 哄笑に身を震わせるシルエットの足元に、ドサリとなにかが倒れた。思わず目をやったヤツハシは、倒れこんだものの頭に見慣れたチョンマゲを発見する。
「ジン=サン……?」
 だが、なにかがおかしい。ヤツハシは目を凝らす。ジンの顔は暗い天井を見上げている。見開かれた瞳へ、鼻から流れた赤黒い血と口から溢れた黄ばんだ泡が、ゆっくりと流れた。割れた顎の先にあるものはトーフ工場のエンブレム。それはジンの着ているツナギにプリントされていたものだ。……ツナギの、背中に。
「アイエエエ……」
 ヤツハシのだらしなく開いた口から怯えが絞り出される。崩折れたジンの首は一八〇度回転していた! 死んでいる!
「アイエ! アイエエエ!」ヤツハシは絶叫!
「ホホ! ホホホホホ!」シルエットは哄笑!
 ヤツハシの目に、ようやく相手のディテールが飛び込んでくる!
 白いユーレイじみた装束!
 脂じみた長髪がまとわりつき顔の上半分は判然とせぬ!
 しかし、両端がつり上がった血のように赤い唇の中、牙めいた白い歯が哄笑に震えるのがはっきりわかる!
「アイエエエエエエエエエエ!」
 ヤツハシの無防備な精神が急激なストレスに見舞われる! 結果彼女は失禁!
「ホギャー!」
 ヤツハシの背後で赤子の声! 悲鳴と哄笑に安眠を妨げられた戸惑いと怒りの声!
 しかし、それとて一時的発狂をきたしたヤツハシの正気を呼び戻すことはなかった!
「アイエエエエエ!」
「ホホ! ホホホホホホ! アカチャン! 私の、カワイイな、アカチャン!」
「ホギャアー!」
 ……そして。
「泣かした、な」
 ヤツハシの耳に、低くくぐもった声が、確かに響いた。
「アイエッ?」
「私の、カワイイな、アカチャン、泣かした、な」
 ユーレイじみたニンジャ存在は、女と思えぬ低い声で告げた。
「ドーモ、ストーンコールドです。アカチャン、泣かした。死ね」

#3につづく


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"Ninjaslayer"
Written by Bradley Bond & Philip "Ninj@" Mozez
Translated by 本兌有 & 杉ライカ
Twitter:@NJSLYR
日本語版公式URL:https://diehardtales.com/m/m03ec1ae13650
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いただきましたサポートは、サークル活動の資金にさせていただきます。