見出し画像

2018年映画ベスト10

ごあいさつ
 こんにちは、うさぎ小天狗です。
 こちらでは、ぼくが2018年に見た映画(劇場、DVD、ネット配信など観賞形態は問わず)の中から、厳選したベスト10を発表します。
 ベスト10からベスト1までのランキング形式になっておりますので、ゆっくりとスクロールしてお楽しみください。
 ちなみに、今年見た映画の一覧は、この記事の一番下に設けてあります。

 ではさっそく行ってみましょう!

ベスト10

『ボヘミアン・ラプソディ』
『カメラを止めるな!』

 映画の楽しみとはなんでしょうか。

 お話の面白さ? テーマの深遠さ? ビッグバジェット/大スクリーンでないと見られないスケールの大きさ? 映像の美しさ? 映像作家としての監督の個性? 音と映像と物語の総合芸術としての完成度?
 これ以外にも、きっと作品それぞれに、そしてこの文章をお読みの方それぞれに、「映画の楽しみ」はあるでしょう。
 その一つには、いままで挙げてきたもの以外にも、「作品と観客の一体感」「『映画館で映画を見る』という体験(の一体感)」があるのではないかと思います。

 ぼくは生来、団体行動や一体感が苦手です。孤独や個人的な体験を重要視するタチで、前段で挙げたような「一体感」にはそれほど興味をそそられない。従って、そのようなものを求めて映画を見ることはほとんどありません……という前振りでお気づきでしょう、そんなぼくが「作品と観客の一体感」「『映画館で映画を見る』という体験(の一体感)」を強く感じてしまい、それによって感動させられてしまった作品が、今回ベスト10に入れた二作品になります。

 伝説のロックバンド「クィーン」の、これまた伝説的なライブをクライマックスに配して、「クィーン」のメンバーである故フレディ・マーキュリーの伝奇(not伝記)を語った『ボヘミアン・ラプソディ』は、作中いみじくも「おれたちの音楽は、おれたちの音楽を聴く世界中の『根無し草(ボヘミアン)』のためのものだ」と言われたように、全編を通じて「根無し草=社会のそこここに存在を余儀なくされる個人の人生の狂詩曲」として、観客と映画、観客と主人公の一体感を狙って、無類の成功を収めたと言えましょう。

 また、表と裏の二幕構成で、映画本編と「それを作り上げた人々の苦闘」を見せる『カメラを止めるな!』は、「すべてのものは送り手から受け手が受け取る『共同作業』をもって完成とする」という視座を物語の外枠に置き、観客と映画、観客と主人公=映画の内外にいる人々の一体感を狙って、大成功を収めたものと言えましょう。

 これらはまさに、映画の根源的な楽しみである「一体感」と「体験」を主軸に置いたことで、興行的に大ヒットしたものと言えると思います。そしてそれは、団体行動が苦手な孤独なぼくの心を、孤独であるからこそ震わせたものだと思います。
 この二作品を、友人とともに、そして図らずも同じ劇場の暗闇を共有した人々とともに「体験」できた「一体感」は、だからそれはそれは素晴らしいものでした(……もっとも、この順位が示すように、やはりぼくの本質はやはりごく個人的な体験に引き寄せられていくのですが)。

 ちなみに、同趣向の「一体感」が仕掛けられているとおぼしき作品に、『KUBO 二本の弦の秘密』の挙げられるかと思います。語るものと語られる物語の間にある「弦」の奏でる音色こそが、映画を含む物語の楽しみの一つでもあるでしょうから。

ベスト9

『エイリアン:コヴェナント』

 リドリー・スコット監督の映画『エイリアン』は、「宇宙」という科学的、SF的な題材を用いて、それと逆行するゴシックホラーの世界を描き、両者に共通する「異なるものに出会う」ことのおどろきを描いた作品でありました。

 宇宙という空間は、地球の環境を離れて生きられない人間にとって未踏の領域です。そして、そんな未知の世界に浮かぶ、地球以外の惑星は、宇宙船同様、真空の宇宙空間によって区切られた「閉ざされた空間」であるわけです。
 これはゴシックホラーにおける「古城」「うち捨てられた僧院」「秘密を抱えた館」に相当します。

 また、そこで出会う存在は、故郷とは違う環境に育まれた、故郷にはいない存在、我々とは相容れない「異なるもの」であります。
 これはゴシックホラーにおける「怪物」「呪われた血筋」「性的な禁忌(近親婚や異種交配)を犯したもの」に相当します。

 そして、「閉ざされた空間」に入り込み、「異なるもの」と出会ってしまったものたちは、その呪いに恐怖し、逃げ出すことになります。「異なるもの」が存在することで対比的に鮮やかになる故郷の安定を思い、そこへ回帰することで救われつつ、「異なるもの」が存在する恐怖を心に刻み、「こちらとあちらの境界」を確かにしていくのです。
 これこそゴシックホラー。実に一神教的な「世界の区分け」の物語です。これが一作目『エイリアン』にはありました。

 しかし、この構造は、ゴシックホラーへの興味が人々から失われていく課程で変質し、薄まっていきました
『エイリアン2』は「異なるものとの闘争」へとテーマを変え、『エイリアン3』『エイリアン4』は「異なるものが人間から離れていく」物語です。これらはゴシックホラーのその先に当然存在する物語で、基本的な設定こそ引き継いではいるものの、主な構造は別のものになっているのです(当然『AVP』二部作も)。

 しかし、『エイリアン:コヴェナント』と、その前作『プロメテウス』は違います。鮮やかに、そして力強く、古き良きゴシックホラーへ、あるいはその大本であるゴシックロマンスへの回帰を果たしました。

 神による人類創造を描いた『プロメテウス』は、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』と同じ話ですし、『コヴェナント』は『フランケンシュタイン』で〈怪物〉が自我を確立する一助となった、ミルトン『失楽園』のモチーフが明らかに織り込まれています。
 前者は「地球もエイリアンの星であった」というパラダイムを提示して、後者は「呪われたものたちが立ち上がる」ことを描いて、ともに「異なるものと出会うことのおどろき」を再生させました。
 特に、今回取り上げた『コヴェナント』は、日本語に直せば「契約」、つまり『旧約聖書』『新約聖書』の「約」であり、この一作をもって、「新たな神との契約」、つまり「この世のルール」が定められたものとする意図が読み取れるような気にさせてくるのです。

「ゴシックホラー」「ゴシックロマンス」という〈怪物〉の忘れられた未来に、〈怪物〉は死んではいなかった。〈怪物〉を忘れた人類の目の届かないところで、〈怪物〉は生き続け、ついに復活を果たす。なんとも鮮やかで力強い、これは異形のものの復活です。
 そう、楽園を失ったルシファーが、地獄の底で力を蓄え、神に叛逆する戦いを起こし、アダムに楽園を捨てさせた、『失楽園』の物語が甦ったのです。これが興奮せずにおかれましょうか!

ベスト8

『突破口!』

『突破口!』はちょっと特殊な映画です。

 農薬散布を表家業とするしがない中年男が、裏の家業である銀行強盗として、首尾よく金を奪うものの、逃走の際に妻を亡くし、あげくに奪った金がマフィアの隠し金とわかる。警察とFBIは銀行強盗を追跡し、隠し金を奪われたマフィアは殺し屋を差し向ける。孤立無援の逃走劇は果たして成功するのか……とくれば、これはよくあるクライムムービー。もちろん、そうした映画を1973年に発表して、今なお色あせない魅力があること自体、特殊なことですが、その魅力のあり方がまた、ちょっと特殊。

 特殊の理由の一つは、主演のウォルター・マッソー。上に貼り付けてある、予告編動画のジャケットで、白いチューインガムを口に放り込んでいるおっさんです。
 動画を見ていただければわかるように、彼は小市民的なたたずまいの持ち主。コメディ映画『おかしな二人』でボンクラ記者を演じたり、弱小少年野球チームの活躍を描いた『がんばれ!ベアーズ』で主人公たちを率いる監督を演じたり、ロマンチックコメディ『星に願いを』でアルバート・アインシュタインを演じたりすることはあっても、とても銀行強盗とは見えないし、仮にそれをしたとて、十重二十重の追跡を逃れるほどの才覚があるとは思えない。

 そして特殊の理由のもう一つは、そんなマッソーが演じる逃がし屋「チャーリー・ヴァリック」の内面を、ほとんど描かない作劇
 小市民的なおっさんが、しじゅう仏頂面で、行き当たりばったりに追跡を逃れるさまを描いている……と見せかけて、クライマックスであっと驚く周到さを見せつける

 そう、『突破口!』の魅力は「ギャップ萌え」です
 いかにも茫洋としたおっさんが、いかにも行き当たりばったりに行動しているように見えて、実は周到に伏線を張り巡らせて鮮やかに回収するラストシーンで、我々は作中の追っ手たち同様、このおっさんを見くびっていたことに気づかされ、衝撃を受けてしまうのです。

 ゆえに、この映画は二度見必須のスルメ映画です
 ベスト10に挙げた『カメラを止めるな!』以上に、答え合わせが必要な映画で、しかもその作業がまた面白い。
 おっさんがどこで今回の「計画」を思いついたか。思いついて以降、どうやって時々の判断をし、それを仲間にすら気取られぬようにしたか。彼が本当に大切にしたものはなんだったのか……。
 その答え合わせをする課程で、きっと「チャーリー・ヴァレック」という希代の悪漢の、ハードボイルドな内面に思いを馳せ、そのつぶらな瞳の中に潜む冷徹で乾いた理性に震え、茫洋とした面の裏に潜む燃える男の執念に感嘆することになるでしょう。これぞハードボイルドだぜ!

ベスト7

『ピーターラビット』

 ハンドルネームでお気づきのこととおもいますが、ぼくはうさぎです。関東某所の盆地の縁に穴を掘って、人間に交じって暮らしています。
 うさぎですから当然、ベアトリクス・ポター『ピーター・ラビットのおはなし』は読んでいます。子供の頃はやんちゃに野山を駆け巡り、さまざまな冒険を成し遂げ、大人になっては一国一城の主となったピーターパイセンは、毀誉褒貶あるにしても、ぼくたちうさぎの間ではレジェンド存在です。
 そのピーターパイセンのおはなしが映画になる、しかも原作を大きく逸脱したクライムムービーになると聞いて、すわこれは『グッド・フェローズ』めいた「面白うて、やがてかなしき」な犯罪物語になるかと思ったら、あに図らんや、「面白うて~」な犯罪物語であるばかりか、実に現代的な「異物同士がそれぞれを認め合う」対立と和解の物語になっていました。

 この物語の肝は、「ピーターの慢心と真実」と思います。
 原作とは異なり、映画のピーターパイセンは、母をすでに亡くして、今では妹たちを守る一家の長。さらに、地元の若手の代表としてブイブイ言わせているばかりか、美しい異種族の隣人ビア(原作者ビアトリクス・ポター氏をモデルにしているのでしょう)と心を交わす。
 この映画のピーターパイセンが実にヒップな存在です。そして、ヒップな存在の常として、ピーターパイセンはおごり高ぶっている
 そのおごりが打ち砕かれるのは、愚かな新参者であるマグレガー氏との闘争……ではなく、その果てに「実はビアはピーターの気持ちなどこれっぽっちも理解していなかった」と知った時です。
 まさに天狗の鼻折れ、晴天の霹靂。自分がやってきたことは、ただの独りよがりな道化にすぎなかったと気づかされたピーターパイセン、その落胆いかばかりか。
 しかし、そんなどん底のピーターパイセンが、実は己と根っこの部分で同じ存在であり、真に自分を理解してくれるものと出会い、それによって真に他者に心を開く、というのがこの物語のクライマックス。
 これぞドラマです。心の変化と成長です。

 そして、そういう物語だからこそ、移民と排斥の問題うずまく現代社会で語られる必要があったと、鑑賞後に深く胸に浸みました。
 侵入、いがみ合い、防壁、小競り合い、これら現代のグローバルな世界がはらむ問題をトレースした展開は、すべて「和解」への布石だったのです(現実もこううまく行くといいのですが……)。

ベスト6

『21ジャンプ・ストリート』&『22ジャンプ・ストリート』

 ぽっちゃりで運動が苦手なシュミットと、マッチョで勉強が苦手なジェンコ。二人は高校の同級生で、いじめられっ子といじめっ子の関係。
 でも、その関係は、二人が高校を卒業後、警察学校で再会したことで変化します。シュミットが座学でジェンコを助け、ジェンコが実技でシュミットを支え、二人の間にいつしか友情が芽生え、警察学校を卒業する頃には、唯一無二の信頼関係が築かれていた……このドラマを冒頭十分で消化して見せるオープニングシークェンスが最高! 一気に引き込まれました。

 事ほどさように、『21ジャンプ・ストリート』と『22ジャンプ・ストリート』の二作は、メリハリの効いた演出が見事
 二人のバディ結成までをスピーディに見せることができたのも、一つ一つのシーンが必要なものだけで構成され、冗長に感じられる繰り返しがないよう、厳密に取捨選択されています
 かと思えば、主人公二人が童顔を買われ、麻薬捜査ために潜入させられた高校でドラッグでラリってしまうシーンでは、しつこいくらい時間をかけてサイケなラリラリシーンが描かれる。でも、よく見ていると、ここでも主軸である「二人の友情と協力」のラインがブレないよう、しっかり見せるものと見せないものを選択している

 さらに、高校への潜入捜査が、それぞれの「高校時代のやりなおし」になり、その課程で二人は成長、分かちがたい友情を更新します。そして続編『22ジャンプ・ストリート』では、大学に潜入し彼らが未経験の「あり得たかもしれない未来」を経験することで、二人の未来が「互いのいない別の未来」に更新されそうになるというドラマまで生み出す、とくれば、クレバーな脚本とメリハリの効いた演出にうならざるを得ません。

 そして圧巻はラスト! 本編終了後の一連のおまけシーンで、もはや続編を作る必要がないくらいの大アクロバットを見せて、正続二編、きっちりとまとまって終わるメリハリ!
 おバカなアクション映画と断じるなかれ、これは周到に練られ、「周到に計算しきらない」というユルさも含めて周到に計算された、出色のバディムービーです。

ベスト5

『デッドプール2』

 ベスト8の『突破口!』とベスト6の『21ジャンプ・ストリート』&『22ジャンプ・ストリート』は「周到に練られた脚本」が魅力の作品でしたが、そのくくりにこの『デッドプール2』も含まれることになるでしょう。

 前作で、デッドプールは過去を清算し、愛する人とともに生きる未来を手に入れます。そんなヒーローの、もはやヒーローとしての活躍を全うした後に、待っている冒険とはなにか? となったときに、愛の喪失と再生を描くというのは定石です。
 その定石を描ききったのが、『デッドプール2』の素晴らしいところ。

『デッドプール2』では、未来からの時間移動者「ケーブル」が登場します。彼もまた、過去を清算し、愛する人とともに生きる未来を得るためにやってきた。
 しかし、彼はそれを放棄します。なぜ? それは「失われた過去を失われなかったことにするより、失われたことそのものを受け入れて先へ進む事の方が自然だ」と考えたからです。
 そして、それはデッドプールにおいても同じでした。彼はさまざまな、それこそ文字通り自己破壊までして、過去を失ったことを受け入れようとして果たせません。しかし、自分と同じ思いを抱くケーブルと接したことで、これたかつての自分と同じような少年ラッセルが「これから未来を失うであろう」であろうことを知り、彼の未来を守るために立ち上がります

 時間を移動するアイテムに制限がかけられていることを置いても、これはしごくまっとうなことです。
 たとえフィクションの中でも、現実同様、過去に失ったものは二度と戻らないのが自然だからです。
 この自然に背いては、物語は物語としての力、受け手との間の一体感を失います。受け手はいつだって、過去に失ったものは二度と戻らない現実の中にいるのですから。

 だから、もし「過去に失ったものを取り戻せる」としたら、それは現実がそうであるように、「失った過去」の先にある「未来」の中にしかありません。
 そしてその未来を引き寄せるのは、「なにかを失った過去」の上に選択される「現在」しかない……。

 ここでぼくの語りたいことは最初に戻ります。
「現在」を「未来」につながる必然性あるものとして、たくさんの観客の誰にでも納得のいく形で描くためには、周到な脚本が必要になります。当たり前のことですが、観客それぞれは異なる考えを持つからです。普遍性と説得力を兼ね備えた流れが必要となります。
 それを『デッドプール2』は成し遂げました。「過去」において失い、死ぬことすらできないデッドプールだからこそ「現在」においてなすべきことを見定めることができ、「未来」において「過去に失ったものを取り戻す」ことができる。
 そのことをきっちり描ききる脚本が、周到に練られたものでないはずがありません。

 そして、そのことの必然として、エンディングのその先に用意されたシーンは、一見過去をなかったことにするかのように見えて、実はしっかりと「過去を忘れず、踏まえているよ」という、未来へつながる「過去の清算」なのです
 ここで大いに笑わされ、そして泣かされたのは、この映画全体が、周到な脚本によって「前向きな過去の踏まえ方」という軸をブレさせずに、メリハリ効かせて語ってきたからでしょう。

 その周到な脚本の一つに、作中デッドプールと行動をともにするミュータント「ドミノ」がいると思います。
 彼女の能力「異常に運がいい」は、「自分自身がそこにいることで、自分自身に適した未来を引き寄せる」ということのアレゴリーで、つまりは「デッドプールがデッドプールであったからこそデッドプールらしい未来を選ぶことができたこと」の証明となるのです。

ベスト4

『日本のいちばん長い日』

 ここまで比較的最近の作品を取り上げてきましたが、ここで大きく過去へ飛びます。
『日本のいちばん長い日』が上映されたのは1967年、今から51年前です(といっても、ベスト8の『突破口!』が1973年なので、これと比べるならそこまで大きな隔たりではないですが)。

 50年という年月が変えたものは大きいと思います。映画も大きく変わりました。
 その最たるものはCG。ここまで取り上げてきた映画たちは、ほとんどがこの技術を使って、現実には再現不可能な光景を見せてくれています。
 宇宙の果ての呪われた星の恐怖も、ピーターパイセンの冒険も、ミュータントたちの超能力も、すべてCGのなせる技。

 しかし、その一方で、映画が最終的には人力の説得力に負うところが大きいのは、今も昔も変わりません。
 伝説のライブエイドのステージ上を完全再現したのも、飄々とした小市民を見せてその裏に潜む不屈の男気を読み取らせるのも、踏まえるべき過去を体当たりで演じるのも、すべて人の力。
 CGがあればCGを用い、なければそれ以外の方法で、ありうべからざる光景をあたかも存在するかのように見せてくれるのが映画であることは、ずっとずっと変わらない事なのです。

 そして、その変わらない「映画の力」が、この『日本のいちばん長い日』にはふつふつと滾っています。
 当時の名優たちによる圧巻の演技合戦、史実に語られる出来事の「こうだったかもしれない」伝記(伝奇?)的再現、そして『カメラを止めるな!』で描かれたこと同様、事態の裏側に潜む語られざる人々のこころを、スクリーンに映し出し、観客と一体化させる。そのことによって「過去を踏まえさせる」ことになる。

 そんな、映画らしい映画といえる映画が、この『日本のいちばん長い日』です。
 制作・配給会社である東宝社内で、興行成績よりも、制作することの意義を重要視したというのもうなずける、圧巻の一本。
 現代を生きる我々が踏まえるべき過去として、そしてなにより面白い映画として、多くの人に見て欲しい一本です。

ベスト3

『オートマチック』

 この映画との出会いは忘れられません。

『ワンコイン・ムービーレビュー』という、中古屋やワゴンセールなどで500円=ワンコインで投げ売りされている映画を見ては感想を述べるブログがあります。
 きびきびとしてどこか投げやりな、しかしその裏になにやらん熱情のうごめくこのブログの、舌鋒鋭いコメントを楽しみに読んでいたぼくは、普段評価を最大★五つで語っていた作者氏が、異例の「★六つ」をつけているのを見つけて、興味を持ったのでした。

 そんなに面白いなら見てみようかな……と、生活の中で立ち寄る古本屋や中古屋のDVDコーナーを注視するようになって数週間、ついに見つけたDVDは、やはり500円コーナーにひっそりと潜んでいました。そして手に入れてから一ヶ月後に、なんの気なしに見てみると、これが先のブログで書かれていたとおりの大傑作だとわかったのです。

 予告編をご覧になるとわかると思いますが、この映画の予算はけして大きくありません。それどころか、はっきりと低予算映画といえるでしょう。銃を撃つときのエフェクトはしょぼいし、主人公と意思を持った銃のやりとりは明らかに一人芝居だし、お世辞にも豪華な映画とは言えません。
 しかし、この映画にはがあります。ちょうど作中、主人公の相棒となる銃に、殺された娼婦の魂が宿っているように、映画全体に制作者の「面白いお話を見せてやるぜ」という魂が熱く息づいているのです。

 それはまず脚本に現れています。序盤は多少時系列が錯綜するものの、きびきびと出来事を描写して、必要な説明を済ませ、いざ銃声とともに物語が動き出すと、あとは一気呵成に事態がエスカレートしていきます。
 アクションとアクションの間をつなぐ物語部分の配分も適切で、しかも後半に行くに従って、アクションの規模が大きくなるように構成されています

 次に絵作りを見れば、確かに低予算ゆえの限界は見えますが、それでも「いかにショボく見えないようにするか」に腐心していることが、様々なところで見受けられます。
 特に終盤の、敵の本拠地に殴り込んでの大銃撃戦は、場所が地下であることから、暗闇の中での戦闘になる説得力を持たせて、無理なく「映らなくても大丈夫」なようにしています

 そして、最後にテーマ。
「悪徳市長の下で不正に手を汚しながら、本当はまっとうに生きたかったと嘆く主人公が、ひょんなことから手に入れた9ミリ拳銃には、ブードゥー呪術師の呪術によって、非業の死を遂げた娼婦の魂が宿らされていた。流されるまま不正を行い、導かれるまま銃を構えて戦った主人公は、しかし最後には自分の意思で銃を取り、不正と戦うことを決意する」……というお話に、「流されるままだった男が、相棒と出会うことで、自己の尊厳と意思を取り戻す」というテーマがブレないのがいい。
 ベスト6でも書きましたが、テーマをブレさせずにメリハリを効かせるのは映画を楽しませる上で大事なことですが、それがきっちりできている(余談ですが、原題が『Calibre9(9ミリ拳銃)』なのに対し、邦題が『オートマチック』なのもいいですね。テーマを汲んだ上での粋な改変だと思います。)。

 確かに技術があるにこしたことはありませんが、やはり映画は魂が一番に大事で、その魂が受け手に届くことが二番目に大事。
『オートマチック』はその二点をしっかりと備えて、傑作と呼ぶにふさわしい風格を備えている点で、同じく低予算の映画ながらヒットした『カメラを止めるな!』に比肩する作品と思います。

ベスト2

『ELLE』

 ミシェルは新進気鋭のゲーム会社の社長、たくさんの人々に囲まれています。会社にはたくさんの男性スタッフがおり、有能な秘書と、その夫である重役が仕事をサポートしています。プライベートでは、彼女を頼りにする老いた母と息子がいて、別れた夫とも仲良くしています。
 ……しかし、この中の誰も、彼女を愛してはいません。重役とは肉体関係にあり、秘書とも肉体関係にあり、社員たちからは信頼とともに性的なまなざしを寄せられ、母も息子も彼女に金をせびり、別れた夫は今の恋人との愚痴を話しに来ますが、誰一人として、彼女を愛してはいません。
 では、彼女はこの中の誰かを愛しているか? ……彼女もまた、誰も愛していません。それは彼女が、かつて幼少期に彼女の父が犯した連続殺人事件の余波で、ずっと世間に疎まれて続けていて、他人を信用することができぬまま今日まで生きてきたことと関係がないわけではないのです。
 それならば、彼女は愛を知らない人間なのか? ……そうでないことは、この映画を見る中でわかってきます。彼女は愛を知らないわけではない。愛を求めないわけでもない。ただ、彼女の愛に値する人間がいないだけ……。

 1987年の『ロボコップ』で全世界に衝撃を与えた、オランダ出身の映画監督ポール・バーホーベンは、これまで一貫して、人間と人間社会に冷徹な視線を注いできました
 彼の映画には、露悪的なまでに生々しく、虚飾を剥ぎ取られた人間たちが映し出されます。愛も信仰も救いにならないと知り、己の身一つで野獣のような傭兵団と対峙する姫。きらびやかなショウビジネスの影にうごめく邪悪をのぞき込み、自分なりの落としどころを探す女。神のごとき力を手に入れた、もっとも人間的な欲望にかられた男。愛と正義と青春の美名のもとで殺戮を繰り返す宇宙の戦士たち。彼らはバーホーベン映画において、彼らじしんの主観が彼らじしんを評価する善悪の「彼岸」に置かれます。正しくもなく、否定もされず、ただそこに生きて死ぬ、一つの命として――現実に生きる我々がそうであるように

 それは、この『ELLE』(フランス語で「彼女」)においても同じです。ですが、これまでの映画と違うところが一つあります。
 それは、主人公ミシェル=「彼女」が、そうした人間たちを、自分も含めて、ただそこに生きて死ぬ存在だと認識していることです
 彼女は愛を信じるほど愚かではなく、愛を求めずにいられるほど絶望しきってもいません。だから、他の登場人物たちのように誰かを頼ることもなく、ということは誰かをはばかることもなく、自分のできる範囲でやりたいことをやろうとします――つまり、愛するに足る存在を探して冒険をするのです。

 衝撃的なレイプシーンから始まり、浅ましくも生々しい人間たちを描き、その中を堂々と闊歩する「彼女」を描いて、バーホーベン監督はまるで人間の中に潜む強さ、美しさ、格好良さを描こうとしているかのようです。
 汚辱にまみれ、悪罵を投げつけられ、誰からも信頼されないからこそ、自分にすがりつくものたちを強いて振り捨てることも、同時に誰か一人を救い上げることもなく、毅然と胸を張って歩き続ける「彼女」の姿が格好いい。
 2018年に見た映画の中で一番格好良かったと断言できます。

ベスト1

『ブレンダンとケルズの秘密』

 ベスト10からベスト2まで、2018年の映画ベストを総括すれば、これは「ムーア人間が明確な意思をもって行い、成し遂げることの素晴らしさ」ということになるかと思います。

 我々の一生は、そのすべてに明確な意思を通すには、あまりにも長く複雑です。
 かといって、明確な意思を持つべき時に持てないようでは、何事も成せません。
 雌伏の時を耐え、雄飛の時を選び、仲間を募り、自力を蓄え、発揮するのは、これは人間の意思なくしては行いえないことであります。
 そして、そうした意思のもとに何かを成し遂げることは、素晴らしいこととして、人は長く語り継ごうとします。それが物語になり、歌になり、文芸になり、絵画になり、……映画になって、ぼくたちが胸をときめかせて見ているのです。
 そして、そういう映画の中で、『ブレンダンをケルズの秘密』は、最も力強く、そして普遍的に、「人間の意思と営みの素晴らしさ」を描いていたと言えましょう。

 これは、アイルランドの歴史上、最も美しい書の一つと言われる『ケルズの書』の成立に関するこの物語を、アイルランドの映画監督であるトム・ムーアが制作したことと不可分ではありません。
 修道士見習いの少年ブレンダンが、地霊の一種とおぼしい狼の精霊と交歓し、同じく地霊の一種とおぼしい悪霊の洞窟に冒険して、当時は人の手で作ることのできなかった「拡大鏡」を手に入れるくだりは、どの民族も持つ「民話」、すなわち人の営為の象徴です。そしてその冒険は、冒険の前段となる「染料を探すこと」、そしてそのさらに前段となる「写本の美しさに魅せられること」とつながっていて、このつながりを生むのが、誰の心にもあるあこがれ、すなわち意思の萌芽に他なりません。
 そうして、意思が行動に結びつき、成し遂げたことが語られて残り、今にある。そこには「語らずにはいられない」「やらずにはいられない」人の意思が必ず存在するのです。

 これは、「自分たちのようなもののために歌う」「大好きな映画を作る」「自分を捨てた神に叛逆する」「巨大な敵に一矢報いる」「かつての自分のようなものを救う」「自分が愛するに足る存在を探し求める」ことと同じです。
 彼らはすべて、己の意思を最初の起爆剤として、ある結果を求めて進んでいきました。そして、それが物語として語られている、ということは、彼らの意思が何かを成し遂げたか、成し遂げられなかったことそのものがなんらかの意味を持ったことの証左であるでしょう。
 ちょうど、ただの修道士見習いの少年だったブレンダンが、幾多の出会いと別れの冒険を経て、長じて後、かの伝説の書を作り上げ、そのことを後の世の人間がアニメ映画にしたように。

 ぼくがこの映画で最も感動したシーンは、「『ケルズの書』の最も美しいページ」が幼いブレンダンに示されるシーンです。世界は、人生は、人の意思が行動と結びつくのを待っている。その希望が描かれずに描かれたあのページこそ、この映画の白眉であり、この映画そのものだと思います。

可能性のうちにある知性は、現実性において何も番かれていない書板のようなものである。
――アリストテレス「魂について」


 というわけで、ぼくの2018年映画ベスト1は、『ブレンダンとケルズの秘密』でした。
 来年はどんな映画がみられるのかな? 今からわくわくしております。

 それでは。


(うさぎ小天狗)


タイトルイラスト
ダ鳥獣ギ画(http://www.chojugiga.com/



 ちなみに、今年見た映画は以下のとおりです。黒太字は劇場で鑑賞したものです。

一月……『ファイナル・ガールズ』、『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』、『39 刑法第三十九条』、『ロスト・エモーション』、『グレート・ウォール』、『ゴールデン・チャイルド』、『未来警察』、『北陸代理戦争』、『メガゾーン23 PARTⅡ』、『メガゾーン23 PARTⅢ』、『ゴースト・イン・ザ・シェル(2017)』、『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』

二月……『日本の一番長い日』、『ドクター・ストレンジ』、『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら』、『クライング・ゲーム』、『ルパン三世 GREENvsRED』

三月……『ハードコア』、『シェイプ・オブ・ウォーター』、『レザボア・ドッグス』、『CUB 戦慄のサマーキャンプ』

四月……『隣人は静かに笑う』、『ストーンウォール』

五月……『レディ・プレイヤー1』

六月……『デッドプール2』『ピーターラビット』

七月……『傷だらけの挽歌』、『装鬼兵M.D.ガイスト』、『装鬼兵M.D.ガイスト2』、『突破口!』、『ベイビー・ドライバー』、『プロメテウス』、『エイリアン:コヴェナント』、『21ジャンプ・ストリート』、『アイム・ノット・ア・シリアルキラー』

八月……『カメラを止めるな』、『怪物はささやく』、『ドリーム』、『デューン/砂の惑星』、『散歩する侵略者』、『予兆 散歩する侵略者』、『バーフバリ 王の凱旋』

九月……『ELLE』、『22ジャンプ・ストリート』、『亜人』、『交響詩篇エウレカ/セブン ハイエボリューション1』、『破壊!』、『白熱』、『アルカトラズからの脱出』、『バーレスク』、『ハイドリヒを撃て!』、『ジャスティス・リーグ』、『レッド・ステイト』

十月……『オートマチック』、『フラット・ライナーズ』、『フラット・ライナーズ(2017)』、『ザ・プレデター』、『アトミック・ブロンド』、『ブレンダンとケルズの秘密』、『キングスマン:ゴールデン・サークル』、『ファンタスティック・フォー(2015)』

十一月……『ザ・ヴォイド』、『ハン・ソロ』、『ボヘミアン・ラプソディ』

十二月……『スキャナーズ』、『KUBO 二本の弦の秘密』、『フレンチ・コネクション』、『ザ・ブルード 怒りのメタファー』、『パワーレンジャー』




規格外

『ザ・ヴォイド』

 ぼくは「ホラー」というジャンルが大好きです。なぜなら、ホラーは人間の知覚の限界を基点とする芸術であるからです。

「ホラー」の根源は恐怖です。H・P・ラヴクラフトのあまりにも有名な言葉を引用するまでもなく、恐怖は人間の最も根源的な、いつでも、どこでも、拭い去ることのできない感情です。そして、その中でも最も強いのは、未知なるものへの不安がもたらす恐怖です。
 これは、「背後」の恐怖と言えましょう。

 今、この文章を読んでいるあなたは、あなたの背後になにがあるか、なにがいるか、把握できますか?
 ……できないでしょう。そんなものがいるというのに、この文章を読んでいるあなたは、この文章を読んでいるがゆえに、それに気づくことができない。
 ああ、今まさにあなたの肩に触れようとしているものがいるのに、あなたはそれに気づかない……。

 これが「背後」の恐怖です。「死角」の恐怖といってもいいでしょう。

「死角」とは、人間の身体構造と、それに紐付いた知覚の限界です。
 人間は、ぼくは、あなたは、この世界に存在する何もかもを知覚しきることができない。それゆえに、見えないもの、把握できないもの、身構えることのできないものが、必ずある。恐怖は我々の限界から生まれるのです。
 ……ホラーはこの限界について語ります。だから、ホラーに触れてしまうと、二度とこの限界から逃れられなくなる。限界を知らなかった頃には戻れなくなってしまう。
 だからこそ、ぼくはホラーが好きなのです。

 そんなぼくが、今年一番感動したのは、そうした「背後」の世界をしっかりと描いた『ザ・ヴォイド』です。
「ヴォイド」とは「虚無」、すなわち「なにもない」という意味の言葉です。この「なにもない」は、『ブレンダンとケルズの秘密』で描かれたように、「希望」であると同時に、「背後」「死角」でもあります。
 つまりこの映画はベスト1と表裏を成す大傑作なのです。

 もちろん、この映画を「『クトゥルー神話』に代表されるラヴクラフト式コズミック・ホラーを再現しようとしたもの」と簡単に説明することはできます。
 しかし、そうした映画の多くが、「映画」であるが故に、再現を果たせない
 理由はおわかりでしょう、「映画」とは「見えるもの」だからです。
「見えるもの」を使って「見えないもの」を再現することは、「死角」を見ようと鏡を見るようなものなのです。
 鏡で見てしまったら、それは「死角」ではないし、鏡に映る「死角」に注視することで、新たな「死角」が生まれてしまうのです。

 もちろん、この限界を突破した映画はあります。
 ジョン・カーペンター監督の『マウス・オブ・マッドネス』
 黒沢清監督の『回路』
 ルチオ・フルチ監督の『ビヨンド』
 そして去年のベスト5に選んだ『ヘルケバブ 悪魔の肉肉パーティー』
 これらは「見えるもの」を使って「見えないもの」を再現することができています。
『マウス・オブ・マッドネス』では入れ子構造の幻惑が、『回路』ではインターネット上の人間関係と人をうごめく影へと変えることが、『ヘルケバブ』では時空の混乱と逃れられない因果の存在が、「見えないもの」の存在を間接的に語ってきました。
 そして、そのどれもが、『ビヨンド』同様、最後に恐るべき光景、「これまで見えなかったもの」を描き出して、「見えなかった事に気がつかなかった」過去を払拭してしまいます。
 これらの映画を見てしまったら、もう、「見えないもの」を意識しないでいられた頃に戻れません。
 ちょうど「背後」が「死角」であることを知ってしまった人間が、そのことをひととき忘れることができても、いつまでも忘れていることができなくなってしまうように……。

 そのことを描くのに、『ザ・ヴォイド』は、『ヘルケバブ』に出てきたような邪教や、『マウス・オブ・マッドネス』に出てきたような汚穢の神々や、『回路』に出てきたような「死者」や、『ビヨンド』に出てきたような異界を用います。そういう意味で、この映画は、選考作品の持っていた映像的モチーフの寄せ集めともいえます。
 しかし、それだけではない。
『ザ・ヴォイド』の中心的にあり、「見えないもの」の存在を知覚させるモチーフがあります。それは「喪失」です。
 主人公夫婦の別居の原因、邪教の司祭の行動原理、半ば狂気に陥った探索者たちを駆り立てるものは、「自分を構成する要素の一部を永遠に喪失した」経験であり、それこそが人間と、人間の存在する世界にぽっかりとあいた「虚無」なのです。その「虚無」を描いて、これほど恐ろしく、切なく、そしてなによりきっちりとまとまったホラー映画はありません。

 それゆえに、『ヴォイド』を見て、ぼくは永久に変わってしまいました
 ある大切な人の死が、他の大切な人の死と、自分の死をも意識させるように。ちょうど「背後」を意識し、「死角」を意識した人が、それ以後、常にそのことを意識せずにはいられなくなるように……。

 来年も、そんな映画に出会えることを期待して、この思いのほか長くなってしまった文章をまとめようと思います。
 お付き合いありがとうございました。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

映画感想文

いただきましたサポートは、サークル活動の資金にさせていただきます。