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コロナ渦不染日記 #91

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一月九日(土)

 ○一週間の在宅勤務を終えて、ようやくの休日である。しかも三連休。

 ○午前中は原稿作業をし、昼食には、昨日から用意していた漬け丼を食べる。

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 ○午後はぼんやりと昼寝をして過ごす。明日は厄除け祈願に出かける予定なので、今日はゆっくりするのである。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、七七八七人(前週比+四七三一人)。
 そのうち、東京は、二二六八人(前週比+一四五四人)。
 新型コロナウィルスの潜伏期間は、約二週間というから、今日、全国で八千人弱、東京で二千人強の新規感染者が出ているのは、二週間前の二〇二〇年十二月二十六日前後――つまり、クリスマスに感染したからと考えることもできる。


一月十日(日)

 ○先日、リモート会議の最中に、おない年の同僚から、
「ぼくたち、厄年ですよね」
 と言われて、そういう年齢になったということを、ようやく自覚した。このことを、相棒の下品ラビットに話すと、
「そんなら、厄除けってのに行ってみるか」
 ということになった。だが、ぼくも下品ラビットも、そういう儀式に疎いので、アドバイザーとしてイナバさんに意見を求めると、川崎大師がちょうどいいのではないかということになった。これが先週末のことである。

 ○そして今日、昼過ぎに、京急川崎大師駅でイナバさんと落ち合った。ほてほてと歩き、御門をくぐって、厄除け祈願の受付へとむかった。イナバさんいわく、厄除け祈願は「護摩を焚いて修行する」もので、修行時間はだいたい四十分ていど、つまり一時間に一回は開かれるという。イナバさんの案内を受けながら、ぼくたちは受付で用紙に名前を記入、お布施の額と、祈願の内容をマークして、窓口に提出し、お布施をお渡しした。

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 整理券のような、護摩ふだ受け取りの証明書を預かった。「馬券買うときに似てますよね」とイナバさんは言ったが、下品ラビットは「教習所の受付にも似てるな」と言っていた。
 受付を済ませたのは、開始まで残り十五分といったころあいである。専用の入り口から本堂に入ると、いつも参拝するところより、さらに奥の板間に通される。柵に区切られた、さらに奥には、お坊さんと護摩壇のすぐそばで修行を行える区画もあった。「あそこはどうしたら行けるんですか?」と訊ねると、「檀家だと行けるんですよ」とイナバさんが教えてくれた。「つまり、ファンクラブしか買えないアリーナ席ってことか」とは、下品ラビットの表現である。

 ○定刻五分前になって、若いお坊さんによる説法が始まった。集まった人々への挨拶、世相をふまえた訓話、開始の挨拶と、流れるようなMCである。「すげえな、完璧なライブMCだぜ」下品ラビットが興味深そうに言ったが、実際に修行が始まってみると、太鼓によるドラムといい、ベースをしっかり利かせた声明といい、まさにライブパフォーマンスである。
 しかも、川崎大師は空海上人を「厄除け弘法大師」として御本尊に奉る、真言宗智山派のお寺であるからには、修行の際にお坊さんたちがあげる声明には、次第に真言(マントラ)が混じってくる。

 つまり、日本語による声明を本邦のロックとするならば、真言による声明は洋楽ロックである。ぼくたちは、本邦の古文を読んだり聞きとったりはできるが、サンスクリット語はできないので、なにが言われているかはちんぷんかんぷんであるが、ちんぷんかんぷんであるがゆえに、なんとなく「やっぱり本場ものはありがたいものだな」と思ってしまった。

 ○ライブが終わると、御本尊を拝みに行く。御本尊をどう解釈するかはむずかしいが、ライブで言うなら、これは握手会のようなものだろうか。御本尊へむかうにわか修行者の列にならんでいると、背後で、
「昔の人は、こういうことにすがらないと心穏やかにすごせなかったんだぜ」
 というような、半可通の意見が耳に入る。「なにものかにすがらなければ生きていけない」よわさは、今も昔も変わらないはずである。そうでなければ、その言葉の主とても、この場にはおるまいし、そのようなねぼけたことをぬかすことなど、できようはずがない。

 ○ライブ会場を出て、護摩ふだの受け取り窓口にむかう。護摩ふだは、木のふだと、懐中ふだが選べるので、携行しやすい懐中ふだを選んだのだが、窓口で渡されたものはA5くらいのサイズで、「懐中」といわれて想定していたよりおおきく、一瞬戸惑ってしまった。「よく見ろ、でかい方は本体で、懐中は輪ゴムで重ねられてるほうじゃねえか」と下品ラビットが指摘しなければ、気が付かなかった。懐中ふだは手帳にしまって携行することにする。

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 これで、厄から守られるであろうか。あるいは、あるいは厄を跳ね除け、あるいは厄を受け止めて進むことのできる「こころの余裕」が手に入るのであろうか。かくあれかしと思うばかりである。

 ○夜は、ししジニーさん、ゆんぺすさん、ヤスさんと、『ジャイアント・ロボ THE ANIMATION -地球の静止する日-』を見る。

 エピソード3、4、6をより抜いて見たが、これは全員がなん度となく見ているので、筋を覚えているからである。そうして、より抜きで見てみると、『ジャイアント・ロボ THE ANIMATION』が、いかに雰囲気だけで作られているかがわかるというものだ。なにひとつ、はっきりしたことが語られず、あいまいなまま引っ張り続けて、最後に具体的なものが出てきても、すぐさま、その具体的なものすらかすむ、巨大な「あいまい」が襲いかかってくるのである。
 しかし、だからこそ、このシリーズはおもしろい。「おもしろいからおもしろい」のではなく、「おもしろそうだからおもしろい」のである。こんな作品は、ほかに類例を見ない。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、六〇九二人(前週比+二九三五人)。
 そのうち、東京は、一四九四人(前週比+六七八人)。


一月十一日(月)

 ○世は成人式であるというが、このご時世でもそんな式をやるのだから、日本人はとかく儀式がすきなのだ。これは、日本という国が、四季というサイクルによって保たれていることによるのだろう。むしろ、儀式を例年どおりに行わねば、国が保てないと思っていて、儀式を行わねば不安になるということすらあるだろう。成人になったかどうかを、年齢によって定めてしまうという単純かも、その結果のひとつではあるまいか。

 ○ぼくたちの成人式は、ちょうど二十一年前であった。しかし、式などに出ても、特にどうということはなかったように記憶している。式に同席した誰とも親交をあたためることもなく、友人たちの待つ飲み屋にむかい、そこで互いを寿いだ。そのときの、ほっとした気持ちを、いまでも思い出すことができる。ぼくの同類は彼らなのだと、そう思えたことの安堵感であった。

 ○成人の儀式とは、その儀式の行われる社会で、「一人前の大人」として認められることであり、そのような責任を果たす必要があると自覚するための区切りであろう。であれば、いまのような社会が複層化/多様化した時代において、その儀式が行われる場所は、本人が所属したい社会の場であるべきだろう。自分が望む大人になれる、自分が生きていきたいと思う社会において、儀式を行うべきである。だから、「すんでいる地域で行われる成人式」は、選択肢のひとつにしたほうがいいように思う。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、四八七五人(前週比+一五五一人)。
 そのうち、東京は、一二一九人(前週比+八八四人)。



→「#92 やつが来た」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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