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怪物を殺すものに「ほんもの」を――『13日の金曜日・完結編』&『新・13日の金曜日』

【週報】2017.07.10-16

よう、下品ラビットだ。
毎日暑いな。バテてないかい。
おれは相変わらずだ。ご先祖様を見習って、イナバスタイルにするのが、おれたちうさぎの夏の乗り切り方だ。
この場合のイナバは神話でもB'zでもどちらでもいいぜ。おれはシティボーイなので後者を選ぶ。短パンはいくつになってもいいもんさ。

さて、夏だ。夏といえばそう、怪談だよな。
おれたちはインテリの読書家だから、怪談は大好きだ。
怪談とは話芸、語り口の芸だ。どんなに恐ろしい出来事も、語り口一つで、恐ろしくもなんともなくなる。怪談の祖をたどると、どこに行くのか、これは一概にこうといえないが、その道程には、『怪談牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』三遊亭圓朝がいて、『耳嚢』根岸鎮衛がいて、さらに、名も忘れられた語り部たちがいるはずだ。彼ら彼女らが、いかにも恐ろしく、この世の不条理あるいは逃れられぬ条理を語るから、怪談は、今も噂話やSNSの投稿に残りつづける。いかに語るか、これは言葉を使うものの挑戦すべき沃野であり、習性なのさ。
あるいは、日本では夏だけど、海の向こうのイギリスでは冬、クリスマスが怪談の時期だった。両国の二つの季節に共通するのは、死者を思いだす時期であるってことだ。おれたちはどこから来て、どこへ行くのか。おれたちが生きて、いつか死ぬ、この世界とはどんなところなのか。「メメント・モリ」とはまさにそういうことだが、お盆、あるいはクリスマスとは、祖霊を迎え、そういうことを考えるときでもある。そうしたときに、あの世のこと、おばけのこと、恐怖のことを語るのは、イギリスではインテリのすることだった。ケンブリッジ大学の副総長を勤めたこともあるM・R・ジェイムズをはじめ、聖職者の息子アーサー・マッケン、新聞王と呼ばれた男の個人秘書を勤めたH・R・ウェイクフィールドなど、怪談を語るものたちは教養ゆたかなものたちばかりだった。
いや、そうでなければならないと、おれは断言したくなるね。もちろん、この場合の「教養」ってのは、何冊本を読んだとか、どんな古い文献を読んだとか、広範な分野に渡るトリヴィアを持っているとか、そういうことだけじゃない。自分の人生を生きるうえで、どれだけ「ほんもの」に出会ってきたかということも含む。スティーヴン・キングを見ろよ。彼はけして高学歴というわけじゃないが、彼の語るホラーには、さまざまな「アメリカ的な」記号が散りばめられている。あれらの「アメリカ的な」日常を感じさせるパーツがなければ、彼の荒唐無稽で私的なビジョンはあさっての方へ飛んでいっちまうはずだ。それができるのは、キングが日々の生活のなかで、「ほんもの」の「アメリカ」を知っているからさ。
そう、それは「リアリティ」だ。「地に足の着いた」感覚ってやつだ。それこそが怪談には必要だ。怪談を語るためには、「ほんもの」の手触りを知り、それを分析し、再現しなければならないのさ。
そういう「リアリティ」の出し方の一つに、「これは昔、この場所で本当に起こったことなんだけどね」というのがある。『ニンジャスレイヤー』のタームを引用すれば、「フーリンカザン」てやつだ。怪談を語る、まさにそのとき、自分たちがいる場所、自分たちを包んでいる環境を、リアリティの醸成に使うわけだ。受け手が肌で感じ、耳で聞き、目で見ているものを用いるんだから、これほど手軽でかつ効率のいい「リアリティ」の出し方はないよな。
さっき、「夏(イギリスでは冬)は怪談の季節」っていったが、それもこの手のリアリティの出し方の一種だ。受け手が「こんな時期には、死者が姿を表すような、恐ろしくも不可解なことが起きるかもしれない」と思っている、その感覚をそのまま使うんだからな。
これは「民話」とか「都市伝説」の手法でもあるよな。方言混じりに語られる炉端の昔話、元南町奉行が聞き取った巷間の噂、バーの片隅でささやかれる与太話、SNSをアカウント伝いに飛び渡る「事実」、これらは全部同じ仕組みを持つ。
そして、ある湖畔のキャンプ場で、代々スタッフが語り継ぐ、あの恐怖の物語も、また。

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『13日の金曜日』は、スプラッタ映画のエポックメイキングな作品として、映画史に刻まれる名作の一つだし、ホラー史にも多大な影響を与えた作品だが、実は、その全貌を知るものはあまり多くない。
「『13日の金曜日』は知ってるかい」と質問すると、たとえばこの間バーで話した女性は「ホッケーマスクの大男がチェーンソーで襲ってくるやつでしょ」と答え、友人うさぎの一人は「一作目からずっと毎回ジェイソンは最後には死んで、次の作品で甦るんだろ」と答える。
これは、ある意味では怪談として望ましいことであるよな。だって、バーの女性にしろ、友人うさぎの一人にしろ、細かい話は忘れても、「ジェイソンという怪物の恐ろしさ」は強く印象に残って忘れられない、ということを表してもいるんだからな。

だから、これを読んでいるあんたにも、一つ質問したい。
あんたはトミー・ジャーヴィスの名前を聞いたことがあるかい?

ふむん、そうか。
おれか。いや、おれたちは知らなかった。
そりゃ「一作目の殺人鬼の正体はジェイソン・ボーヒーズではなく、彼の死によって狂った母パメラ・ボーヒーズである」とか、「『PART2』の時点ではジェイソンはホッケーマスクをかぶっていなかった」とか、「ジェイソンの得物はナタ(マチェット)で、チェーンソーを使うのは『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスだ」とか、そういうことは知ってたぜ。
子うさぎの頃、テレビの洋画劇場で、おっかなびっくり見てたからな。
だが、トミー・ジャーヴィスのことは知らなかった。彼が、シリーズの中盤を牽引した、ある種の「主人公」であったことも、彼がいかに恐ろしい体験を経て、どんな運命を辿ったのかも、サッパリ知らなかったのさ。
おれたちがトミーのことを知ったのは、あるラジオ番組の録音を聴いていた時だった。
それは、映画監督にして、日本に七人しかいないと言われる「脚本のお医者さん」スクリプト・ドクターでもある三宅隆太氏が、長期シリーズ化した映画について語る特集だった。
そこで、氏は、「シリーズの流れを変えた続編」として、『13日の金曜日』シリーズの四作目と五作目、すなわち『13日の金曜日 完結編』『新・13日の金曜日』について言及していたんだ。
曰く、「長期化したシリーズは、シリーズ愛好者向けに、それまでの設定を引き継いでいるからこそ意外な展開を用意する」と。そして、『13日の金曜日』シリーズは、「意外な展開」として、「シリーズ主人公」としてのトミーと、「彼のとったある行動」を用意した、とも。
おれたちはインテリの読書家だから、好奇心旺盛だ。インテリとは、新しい知識を得て、それを自分の生活に活かすことを楽しむものさ。こういう面白そうな話を聴いちゃあ黙っていられない。タイミングのいいことに、最近、新作以外の映画を見る時に、お世話になっている「アマゾンプライムビデオ」に、シリーズ八作目までが無料公開されていた。さっそくダウンロードして見たってわけだ。

トミー・ジャーヴィスは、ちょっと変わった少年だった。
父と別居中の母、年の離れた姉と、クリスタル湖畔の家で暮らすこの少年は、特殊メイクの才能があった。というより、十代の少年なのに、玄人はだしの腕前を持っている。彼の部屋は、彼が作った、ホラー映画に出てくるような怪物のマスクや、特殊撮影用のミニチュアでいっぱいなんだ。
ホラー映画の登場人物として、これほど異色なキャラクター造形はない。
初登場時、彼は怪物のマスクをかぶって食卓に座っている。無毛の白くて巨大な頭、白目のない目を持つ子供が目に入り、観客はなんだこりゃとびっくりするはずだ。母親から「そろそろ髪を切りなさい」と言われて、彼は怪物のマスクを外すが、ぽっちゃりと小太りの少年が素顔を表しても、観客の違和感は拭えない。なんなんだこの設定は。これまでの三作で定まった、シリーズの定石に則れば、彼はジェイソンの犠牲者か、自体を怯えて見ているだけのモブに過ぎないはずだ。それだけのキャラに、この異色極まりない設定はどういうことだ、とね。
だが、前作のラストで死んだと思われたジェイソンが実は生きていて、クリスタル湖に舞いもどり、ジャーヴィス家の隣のゲストハウスを訪れた、チャラついた若者どもをぶち殺して回る物語が終盤に差し掛かると、ようやく彼の特殊な設定が活きてくる。姉と二人きり、恐るべき殺人鬼に立ち向かわねばならなくなったトミーは、犠牲者の一人が持っていた、幼少期のジェイソンの写真を見て、一計を案ずる。洗面所に逃げ込んだトミーは、髪を切り、頭を剃り、勇気を振り絞ってジェイソンと対峙する。案に相違し、彼の顔を見たジェイソンは一瞬怯み、その隙をついてトミーはジェイソンを殺す。
勘のいいあんたは気づいたことだろう。そう、トミーはジェイソンを真似ることで、ジェイソンを倒したんだ。この週報の冒頭に載せた、『完結編』のポスターに映っている禿頭の子供は、ジェイソンを真似たトミーの姿なんだ

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これはシリーズ第一作に描かれた、少年ジェイソンの姿だ。
ジェイソンは顔が奇形化している設定なので、トミーの姿と全く同じではない。しかしトミーはジェイソンに、奇形ゆえにいじめられていた過去を一瞬思い出させ、それでジェイソンを倒すことができた。
この展開は、おれたちにある言葉を思い出させた。あんたもたぶん知っているだろう。フリードリヒ・ニーチェの、こんな言葉だ。

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『善悪の彼岸』に語られるこの言葉は、さまざまなエンタメに引用されているよな。おれがこんかい引っ張ってきたこの画像は、今は亡きソフトメーカー「ARTDINK」の傑作RPG『ルナティック・ドーン2』のオープニングデモのものだ。このようにゲームにしても、マンガにしても、小説にしても、直接この言葉を引用していなくたって、この箴言の精神の影響下にあると考えられるものは多い。
恐ろしい敵に対峙して、それを倒し、乗り越える」という構造は、いつだってエンタメの基本構造だ。それは、この構造が、人間が強大な獣をやり過ごすことでなんとか生きながらえていた時代からの、「喜び」の一つだからなのさ。普通の人間は、おれたちうさぎがそうであったように、脅威から逃げ、やり過ごすことがほとんどだ。だからこそ、たまさか脅威に立ち向かい、倒すことができれば、そいつは英雄だったのさ。
しかし、今や人間は昔ほど単純じゃなくなってしまった。怪物がなんなのかを知ることができ、それを倒すための技術で武装した結果、過去の自分から大きく変化してしまった。過去の自分からすれば、倒すべき怪物と同じような存在になり果ててしまった。
つまり、「怪物に勝てるものは怪物となったものである」というテーゼだ。「怪物にならねば怪物を倒せないのだ」ということだ。
現代において、英雄と怪物は紙一重の差でしかない。しかも、じぶんでその境を決めることはできない。誰の中にも獣性はあり、多様化した社会は容易にストレスとなって獣性を刺激し、おれたちは無意識に獣と化さねばならない。考えている暇はない。だが、それはじぶんをじぶん自身で測れないということでもある。結果から判断するしかない。そして、結果から判断する速度は、本人よりも他人のほうが常に早いんだ。

とまれ、こうしてトミーはジェイソンを殺した。
彼が、その後どうなったか。それを語るのが、続編でシリーズ第五作の『新・13日の金曜日』だ。

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前作でジェイソンは倒れた。顔にナタが食い込んで、それでもなお指が動いたが、それを認めたトミーが、恐怖と狂気にかられてメッタ斬りにしたのだ。彼はハッキリと死んでいる。
だのに、それから十年後の今回も、連続殺人が起きる。
その時トミーはどこにいたのか。彼はもちろん、次なる惨劇の場にいたのさ。
それはどこか。問題を抱えた若者たちのための社会復帰促進施設なんだ。

前回の惨劇の最後、正当防衛とはいえ人を殺してしまったトミーは、こころを病んだままおとなになってしまった。殺した相手が恐るべき殺人鬼であるとはいえ、幼少期に、自分の手で人を殺してしまったことからくる苦悩は想像を絶するよな。
しかも、自分が相手を殺したのは、相手と同じ怪物になったからだ。彼の心の傷は、余人には計りしれない。
こころを閉ざして誰ともかかわらないようにするトミーだったが、彼を収容していた診療施設は、社会復帰できるだろうと彼を施設に送りこんだ。
トミーがなぜ心を閉ざすのか。それは施設内で彼に向けられたショッキングな冗談に過敏反応する姿、それからちょっと頭のおかしい登場人物の脅威に過剰反応する姿からうかがえる。それ以外にも、彼は施設のところどころに、自分が殺したはずのジェイソンの姿を見る。彼は、殺したはずのジェイソンが今も生きていることや、彼が復活することに怯えているんだろうか。いや、ある意味ではジェイソンの復活に怯えているといえるかもしれないが、そうではない。
彼は、自分の中の獣性に怯えているんだ。ジェイソンになることでジェイソンを倒した自分、怪物と戦う過程で怪物になってしまった自分に怯えている。
彼がこころを閉ざすのは、他人が恐ろしいからではなく、自分が恐ろしいからだ。他人を通して、自分の中にある深淵にのぞきかえされるのが怖いのさ。
その恐れから、彼はどうやら格闘技術を身につけたであろうことが語られる。それがまた、かえって彼を怪物化させていくんだがな。
そして、案の定新たな惨劇が始まる。惨劇の犯人は、ホッケーマスクをかぶった大男だ。次々と人を殺していく殺人鬼は、しかしジェイソンなんであろうか。あるいは。

ここで、おれは殺人鬼の正体をハッキリとは言わない。だが、「主人公」であるトミーは、再び殺人鬼と対峙することになる、と言っておこう。
そして彼は悟るんだ。自分がなにものであるかを。自分の逃れられない運命を。
だって、彼は「ほんもの」を知ってしまったんだからな。特殊メイクの作り出した偽物ではなく、「ほんもの」の怪物を。
そして、その「ほんもの」を分析し、再現することで、「ほんもの」の力を使ってしまったんだからな。しかも最強の「地に足の着いた感覚」のもとである、じぶん自身という存在を使って。

『完結編』の原題は『Friday The 13th:Final Chapter』という。そして『新』の原題は『Friday The 13th part5:A New Beginning』 だ。
終りと始まりを、一人の「主人公」によってつなぐ、全く見事な構成だったのさ。
だからこそ、続く第六作『13日の金曜日part6 ジェイソンは生きていた!』は、蛇足だったとおれは思う。というより、蛇足になってしまった。
上手くやれば、新たなジェイソンによる、新たなシリーズが語れたと思うんだが、そうはいかなかった。トミー・ジャーヴィスも出てきて、ルーク・スカイウォーカーよろしく、三部作の最後でも、主人公を勤めあげるが、いかんせん役者が『新』と違ってしまったり、『新』のときのように『完結編』の子役を出演させるといった、連続性を意識させる演出をとらなかったばかりか、シナリオの展開まで『新』とかけはなれたものになっちまった。
「新旧ジェイソンの対決」によって「トミー・ジャーヴィス三部作」を締めくくる、なんて展開だったらきれいにトリを飾れたんじゃないかと思うが、それは言ってもしようのない話だ。

しかし、シリーズを続ける、終わらせるってのは、結構頭を使うし、大変なことなんだなと思うぜ。だからこそ、上手くやれば傑作と呼ばれることになるわけだけどな。
じゃあどううまくやるか。それについての、おれの見解は、冒頭に話したとおりだ。
分析と再現。これこそがおれたちがすべきことさ。
そして、おれたちはこれからも怪談を、物語を語り継いでいく。
ちょうど、お盆に帰ってくるご先祖様達がしたように、彼らを真似て、おれたちも、死ぬまで生きるのさ。


(下品ラビット)

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