「中国SF」について書くことについて(*06/06追記)

 『エクリヲ』という批評雑誌で、「〈三体〉から見る現代中国の想像力」という連載をしています。

 先日出た十三号で第三回が掲載されています。


 〈三体〉は三部作となっているので、この連載の第一回で『三体』を、第二回『三体Ⅱ:黒暗森林』を、そして第三回で『三体Ⅲ:死神永生』を取り上げて分析しました。単なる紹介的な書評ではなく、その内部にある想像力の構造を析出しようと考えました。連載の企画自体も<三体>の邦訳刊行とは関係なしに立てられたものです。

 しかしながら、「現代中国の想像力を見る」と言いながら、現代中国に関する事実的な背景に関する論述はほとんどなく、作品に内在する論理の抽象的な分析に終始しています。なぜこのような批評のスタイルを取っているのかについて少し説明したいと思います

 日本における中国SFの翻訳出版のペースが凄まじく、さまざまな作品とアンソロジーが編集され翻訳されて、人気となっています。その背後には多くの中国SFの紹介に携わってきた方々の長年にわたる継続的で、献身的な努力があります。何年か前までは中国の現代文学自体見向きもされなかったし、SFというジャンルは中国文化の中でもかなりマイナーなものでした。



 中国内部においても事情は同じです。私が子どもの頃はSF雑誌といえば『科幻世界』しかなかったし、それを愛読していた私は変わり者として見られていました。周りの友だちはみな青春小説を読んでいたのです。

 とはいえ、彼らが青春小説を読む理由と、私がSF小説を読む理由はそれほど異なるものだとは思いませんでした。というのも、彼らも私も何らかの形で、日常が一義的に決められていくのになんとか抗って、その外に連れ出してくれるなにかを探し求めていたからです。

中国における若者の日常はとにかく「強かった」のです。すべてが直線的に決められていて、そこに自由を感じることがとても難しかったのです。このことは例えばSF作家の郝景芳が『1984年に生まれて』で詳しく描かれています。少し引用しまししょう。


 休み前の総括会で、先生はまた言った。「小学校から中学校へと上がる入試はもっとも、もっとも重要な試験です。人生を決める試験なのです。大学入試よりも大事かもしれません。良い中学校に入ってはじめて良い高校に入れるし、良い高校に入ってはじめて良い大学に入れるのです。良い中学に入れなければその後良い大学に入れる確率がとても低くなります。良い大学に入れなければ良い仕事を見つけられないのです。だから中学受験は人生を決めてしまう試験だというわけです。みなさん必ず宿題をきちんとこなしてください。くれぐれも気を抜かないように。」
運命が前から圧迫してくる。目を閉じると、自分の人生が窓枠に釘付けにされているのが見えた。「ほら、これがお前の立ち位置で、お前の未来だ。これが教室に座っていることと、周りのすべての意義なのだ。」

(以上の引用は拙訳。)


 少し前の世代のSF作家なら違っていたかもしれませんが、八〇年代、九〇年代生まれの私のような若者(一般的には「八〇後」と「九〇後」と呼ばれています)は、SFに求めていたのはまさにこういった窓枠に釘付けにされた状態から抜け出して、窓の外に飛び出すために、少なくともその可能性に少しでも触れるために、SF小説、青春小説、ファンタジー小説などを読んでいたようなところがあるのです。

 郝景芳は中国を代表するSF作家だとされていますが、本人は自分をどれか一つのジャンルの作家だと考えていません。いわば「ジャンルなき創作」を実践しているという自覚を持っています。

 そのようなジャンルにとらわれない創作姿勢の背景について考えるために、少し彼女の経歴をたどってみましょう。郝景芳は文学雑誌『萌芽』主催の「新概念作文コンクール」に入賞したことが、作家としての第一歩だといえます。

 『萌芽』雑誌は中国における青年文学をリードしてきた存在だったのですが、九〇年代になると、市場経済化と「文学」制度の衰退によって購読数を大きく落としていました。それだけでなく、実際に読者調査を実施してみると、なんと読者は青年どころか、そのほとんどが中年だったのです。青年文学雑誌としてのアイデンティティを失っていたわけです。

 そこで雑誌は一連の改革に乗り出しました。文学という高尚な自意識を捨て、紙面の最初に若者の間で話題となっている芸能人やスポーツ選手などに関する記事を載せ、その後ろに文学関連のものを載せるという「動線」を設計しました。さらに、十数ページを割け、高校生が自分たちで編集し創作する「雑誌内雑誌」のコーナーも設けたりしました。つまり、雑誌は「読者は神様」という理念の下で、「文学制度の維持」ではなく、「読者の育成」をはっきりと打ち出したのです。

批評家の東浩紀が『ゲンロン戦記』において、人文学の「知の観客」を育てるという理念をある種のオルタナティブとして、その必要性を論じ、実際実践もして、かなり成功を収めているわけですが、中国では九〇年代末から二〇〇〇年代初期の間にすでに市場経済化のプレッシャーの下で大々的に実践されていたわけです。



 『萌芽』雑誌はさらに、中国のいくつかの有名大学と連携し、「新概念作文コンクール」を開催しました。このコンクールの目的は、「八股文」と化した、硬直した国語教育の問題を解決し、若者たちにオルタナティブな表現の場を提供することでした。その理念は左のようなものです。

新思考:創造的、発散的な思考。古い観念と古い規範による束縛を打ち破り、硬直的な保守思考から抜け出る。何ものにも縛られない自由を提唱する。
新表現:題材や形式の制限を受けない。自分自身の個性に満ちた言葉を使用する。紋切型な表現に抵抗する。
真体験:生活に対して真摯に向き合い、感じ、体験する。

 まとめると、従来の古い観念と制度にとらわれない、むしろそれに積極的に抵抗するような自由な発想と、ジャンルにとらわれない表現形式の使用、さらに自分たちの生活のリアリティに即していることが目指されています。いずれも従来の文化環境において抑圧されていたものの解放を志向していることがわかります。このコンクールから八〇年代生まれの世代の若者を代表し、象徴するような「作家」が数多く輩出されました。有名なところでいうと、韓寒、郭敬明、張悦然などです。さきほど引用した郝景芳もそうです。

 では、なぜ「作家」にカギカッコをつけているかというと、彼らはいずれも作家にとどまらず、さまざまな領域で活躍していたからです。例えば韓寒は作家だけでなく、レーサー、ブロガー、エッセイスト、評論家、映画監督、歌手、写真家、投資家、公共知識人、雑誌編集者、プロデューサーなどとその身分が多岐にわたっています。郭敬明にしても同じです。作家、エッセイスト、編集者、出版と映画プロデューサー、映画監督、タレントなどの身分を持っています。

 郝景芳はその「新概念作文コンクール」に関する出自が言及されることはあまりないようですが、一つの理由としては、そもそもコンクール出身の作家たちは実際「作家」というよりも、新思考、新表現、真体験といった理念を体現し、オルタナティブな文化空間を創出できるならば、文学でなくともほかの形式もどんどん使っていくという姿勢を共有していて、取り立てて言う必要性がないからかもしれません。もちろんそこに特定のジャンルに対するこだわりもありません。ファンタジーから青春小説、武侠小説からロードノベルまで、さまざまなジャンルに手を出しています。

 郝景芳の「ジャンルなき創作」もまたそのような背景から出てきたと考えるべきでしょう。また、彼女は作家にとどまらず、そもそも経済学者という本業を持っているし、教育や文化に関する会社の経営、そこにおけるアプリの開発など幅広い活動を行っています。さらに、『人之彼岸』ではAIに関する優れた解説を執筆するなど、科学技術に関する造詣も深い(そもそも清華大学物理学科の出身)です。

 このように、「中国SF」について書く時、いろいろと複雑な事情が絡み合っていているため、単純で、単線的な「中国SF史」のようなものを書くのを難しくしています。今こそSFが確固たるジャンルとして認識されていますが、その受容を可能とする環境の変化の起点の一つは、民間的な教育改革の一環である「新概念作文コンクール」とそれが引き起こした文化現象(「八〇後現象」)にあるわけです。

 日本で中国SFについて書く時、こういった背景を論じるのは非常に難しいように感じています。というのも、今ではこういった文化環境の変容よりも、科学大国として台頭しつつある中国という文脈のほうがより注目され、より重要だと考えられているからです。もちろんそれも重要であることはいうまでもないのですが、偏りが生じているのもまた事実です。

 また、それとは別に、「中国SF」というジャンル内における記述が優先されるという状況もあります。つまり、上で論じたような背景よりも、あくまで中国で書かれたSFに焦点を絞って論じるというわけです。

 しかしながら、さきほども言ったように、中国SFがメジャーなジャンルになることができたたのは、九〇年代末から二〇〇〇年代初期にかけて起こった大きな文化的な変容とそれがもたらした多様性に対する志向があったからです。少なくとも無視できないほど重要な理由の一つだと言えます。それを象徴していたのが、「新概念作文コンクール」だったわけです。

 連載の話に戻しますと、こういった背景を連載の中に書き込むことは非常に抵抗を感じました。一つはそれに対する関心の偏りの存在ですが、より重要な理由としては、なぜ中国の作品について論じる時、「中国」という文脈が必要とされるのか、というより根本的な疑念があったからです。

 どういうことかというと、中国の文化についてそれなりに書いてきたし、普段も話したりしているのですが、いつも求められるのは、なぜ中国でこのような作品が流行るのか、なぜ中国のこの作品がこういった構造となっているのか、といった問いに対する単純明快な答えでした。

そういった問いに、中国という文脈を適切に解明すれば、それらの答えが自ずと明らかになるという前提があります。そこでは、中国はものすごく単純なものとして考えられているだけでなく、解明すべき対象、把握できる対象、複雑さをいっさい持たない客体だと考えられているのです。

 私はこのような前提にすごく困惑しました。というのも、多くの人は自分の国の作品にそれを求めないし、例えば欧米の作品に対してより普遍的な問い、特定の国の特定の状況に閉じ込められていない、ゆえに複雑さをもった、自分たちの生活により密接に関連する問い、単に客体を把握するのではなく、主体的に関わらざるをえない問いを見出していたにもかかわらず、中国に対してあくまで自分とは関係のない対象、何らか特殊な説明で完全に解明できるような対象として扱っていたのです。

 つまり、中国の作品と文化について、「中国ってこういうものなんでしょ」という暴力的なまでに要約的な理解が求められていたのです。それは「中国はAだからBである」という論理形式を無理やり中国の文化を理解するための基本的な枠組みとして採用するということを意味します。

 しかし、実際は例えばSFに関しても複雑な事情があり、簡単にどれかの背景に還元できないようなさまざまな文脈の絡み合いが存在していて、要約できるようなものではありませんし、「中国はAだからBである」という論理で説明できるものではありません。上に挙げた「新概念作文コンクール」に起点を持つ文化変容の背景に関しても、従来あまり言われてこなかったことであるという意味で論じる必要があると感じているが、それだって一つの視点でしかなく、現在の中国におけるSF熱を完全に説明できるものではありません。

 実際、若者だけなく、中高年にもSFがかなり浸透しています。中国におけるSFの人気と台頭は、さまざまな背景と力がほとんど解けないほどに複雑に絡み合ってもたらされたものです。

 このような理由から、連載ではSFから現代中国の想像力を見ると言いながら、現代中国の文化背景に還元するようなことはほとんど書いていません。

もし、中国SFに現代中国の想像力を示すようなものがあるとすれば、ある種の「わからなさ」において、それも自分たちの生活と関係するような切迫した「わからなさ」においてしか現れないだろうと思っています。

追記(2021/06/06):

 この文章は予想外に読まれているようで大変嬉しいが、最後の一文が唐突で、わかりにくく、何が伝えたいのかよくわからないという感想もいただきました。自分でも読み直したところ、自分の中で自明だったことですが、必ずしも他人にもわかるように書かれていないと思いましたので、少しだけ補足で説明したいと思います。

 多くの人が中国に関するわかりやすく、まとまった背景説明を求めるのは、「中国というのはこういうものでしょ」と把握して、安心したいからだと論じました。それは中国を自分たちと関係のない知識、究極的には雑学になってしまうような知識に中国を還元するという意味で、暴力的なものです。

 しかし、暴力的である以上にそれは(あえて乱暴にいうと)「無意味」なものです。というのも、その知識を知ったからといって、何も得るものもなく、自分の生活と世界観に何の変化も生じず、何の問題も生み出さないからです。

 先日「文系の知識の価値は5円」と主張する記事を見かけましたが、それが想定しているのはおそらくこのような「無意味」な知識でしょう。

 それに対して、中国SFに現代中国の想像力を見いだすという行為は何よりも自分の生活に関連した「普遍的」な想像力を見いだすことであると考えています。

 人類学者のギアーツが引用した批評家ノースロップ・フライの言葉がこのことを非常にわかりやすく述べているので、孫引きになるが、以下に引用したいと思います(ギアーツ「ディーププレイ」『文化の解釈学Ⅱ』所収)。

スコットランドの歴史を学ぶために『マクベス』を見に行くのではない。王国を手に入れたあとで魂を失うことになった男が一体何を感じるかを知るために見に行くのである。ディケンズの作品の中にミコーパーのような人物を発見した時、ディケンズの知人の中にミコーパーとそっくりの人物がいたのに違いないとは誰れも思わない。あなたは、あなた自身も含めて、あなたの知っているほとんどすべての人間の中に、ミコーパーが少しずつ存在していると思う。

 ギアーツはこれを引用したのは、バリ島の闘鶏という行事の分析を通して、それは単なる遅れた、原始的な何かではなく、ある種の普遍的な意図を含んだ文化であると示すためです。

(前略)バリ人は普段は落ち着いていて、他人にはよそよそしく、ほとんど物に憑かれたように自分のことだけに没頭する男が、攻撃され、苦しめられ、侮辱され、その結果激怒の極地に達し、完全な勝利か完全な敗北に追いやられたときに一体どのように感ずるかを見出すために闘鶏に出かけるのである。

 フライとギアーツのこの姿勢を中国SFに敷衍すれば、以下のように言えるでしょう。

私たちが中国SFに見出せるような現代中国の想像力とは、中国という特殊な場所における特殊なものではなく、グローバル化、経済危機、世界的な右傾化、人新世における気候変動といった政治的にも、文化的にも、生態的にも袋小路に入り込んだ人間が、どのように迷い、絶望し、もがき、悲しみ、希望を見出そうとしているかについての普遍的な想像力です。
 そして、私たちも同時代に生き、同様な問題で袋小路に閉じ込められた者であるという意味で、その想像力はまさに私たち自身の想像力に密接に関連したものとして引き受けてはじめて意味を持つのです。


つまり、私たちは単に現代中国の歴史と社会を学ぶために中国SFを読むのではなく、激変しつづける世界に流されて道を見失った者が一体何を感じ、何を思うのかを知るために読むのです。

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