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刽子手(死刑執行人)/黒暗中国語⑥

刽子手 guìzishǒu の意味

①(刃物などをもって)死刑を執行する者
②(比喩)人びとに害や悪をなす者

例文

1. 刽子手需要精湛的技,保证能减少行刑者的痛苦。

日本語訳:受刑者の苦しみを減らせるように、死刑執行人には優れた技術が要求される。

2. 每个人都是刽子手。

日本語訳:誰もが死刑執行人(のような存在)である。

コラム  「刽子手」から考える中国における悪のイメージ

「刽子手」とはもともと死刑の執行人のことであり、そこから転じて、「人びとに害や悪をなす悪人」を比喩的に指すようになった。例文②にあるように、「誰もが死刑執行人(のような存在)である」というような言い方が可能になるためには、「死刑執行人」という文字通りの意味ではなく、「他人に害や悪をなす存在」、つまり悪や暴力の象徴というようなニュアンスが必要である。

しかし、執行人は、自らの欲望や意図に従って人を殺す殺人者と違って、必ずしもその死を決定し、責任を負う者とはかぎらない。というより、定義上その責任を負ってはならない。彼らはあくまで報酬のために、権力者の命令にしたがって死刑を執行しているにすぎない。にもかかわらず、中国語ではまるで彼らこそがその殺人の責任者であるかのような比喩になっている。そういう意味で、立派な職業差別だといえる。

さらに考えてみると、死刑執行人ではなく、死刑宣告を受けた者こそ悪人であるはずだ。もちろん、時代によって悪人の定義は変わるし、清廉潔白であるのに冤罪で斬首されてしまったという人も数知れない。しかし、それでもその冤罪を被せたのは裁判官や権力者であり、死刑執行人ではないはずだ。

中国語におけるこのような殺人の責任の転嫁または転移は、中国人の権力者との関係性を反映しているのではないかと考えてみると面白いかもしれない。

死刑は確かに執行人よりずっと上の権力者の命令によって執行され、したがってその責任を負うべきはその権力者にほかならないが、権力者、特に死刑の命令を下せるほどの高位の権力者は不可侵な存在だと考えられているため、責任の主体、抑圧的な暴力の原因やイメージはそれを実際に執行するものに転嫁される

そこでは、悪や暴力に関する想像力が意図的、もしくは習慣的により直接な暴力に限定されているともいえる。例えば、古来より中国で何か問題が起きた時に、それは命令者=国家の指導者が悪いのではなく、それを執行する役人が悪いのだということにされがちであり、だからこそ地方の問題を直接権力の中枢に直訴する習慣も定着しているのかもしれない。

実際、習近平の中国庶民の間における人気の一因は、腐敗した地方官僚や身近な権力者たちを厳しく取り締まったことにある。

中国の新型コロナの防疫政策が迷走し、批判が噴出している今でも、防護服を着た者たちやその地域の権力者が強く非難されやすい一方で、それを制定している最高権力者の批判は全く聞こえてこない。日本でもよく読まれた方方の『武漢日記』も基本的に武漢の地方政府の批判を行なっている。そのような傾向に関しては検閲のせいもあるだろうが、それだけではない。権力批判の想像力、イメージをそこまで広げることに意識的または無意識的に制限がかけられているからなのではないか

そのような想像力の制限もしくは自粛も根拠のないものではない。なぜなら、実際に中国の権力システムは末端に行けば行くほどより強く行使される傾向にあるからだ。権力のピラミッドの中でも下の方に属する権力者たちは、もし何かミスが起きた時に自分の責任が追求されるのを恐れて、要求されていたことよりもさらに厳しい政策を施行してしまう。彼らは普段であればそれなりの権力を持っているとはいえ、不幸なことに、過度な忖度を強制するようなシステムの中で、次は自分の身が危ないかもしれないと不安で震えながら人びとを縛り上げている。そして、その手の震えのせいで人びとを縛る縄がどんどんきつく締めつけられていくのだ

そのシステム自体から抜け出さないかぎり、誰もが死刑執行人のような存在になりかねない

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