陳嘉映「教育と洗脳」/現代中国の思想を読む①

最近は中国でよく読まれている思想系の本を読んで、重要なものは読書ノートを作っていこうと思っている。
もちろん思想をまじめに議論するとか、アカデミック的にどのようなことが言えるかとかのためではなく、あくまで中国の人たちがどのような思想を導きに世界と自分を考えているかを知りたいためである。

そこで、「現代中国で一番哲学者と呼ばれるに相応しい」と言われている哲学研究者の陳嘉映の講演「教育と洗脳」(『走出唯一真理观』上海文艺出版社,2020年所収)を読んで、ウィトゲンシュタイン研究者らしく、明晰かつ中国の文脈に即した議論をしていたので、読書ノートをまとめてみた。

ちなみに、この講演はもともと2015年9月22日に北京師範大学という教育者を育成する大学で行ったものである。

講演の主題は「教育と洗脳の区別」、この二つはいったいどう違うのかというものである。これは私の関心を強く引くものでもある。

その理由として、まず洗脳と教育の区別がそうはっきりと考えられていないのではないかということがある。
自分が信じていることと、相手が信じていることが大きな違いがある場合、簡単に相手に対して「お前は洗脳されている!」と言ってしまう、口に出さなくても心の中で思ってしまう人がけっこう多いのではないか。
特に中国においては歴史や政治の問題になると、こういった対立はいっそう激化する。

また、中国の教育は洗脳教育などと言われているが、果たしてそうなのか、日本やほかの国にはないのかという問題もあるし、もしそういう側面があるとしたら、この区別を考えることで教育とはそもそも何を目指すものなのかを考えなおさなければならないだろう。

陳はまず文化大革命で銃殺された遇羅克の例を出す。遇羅克は1966年に『出身論』を書いて、当時の支配的(公式ではない)イデオロギーと考え方に反論したため、銃殺された人である。
その例から洗脳に必要だと思われる三つの要素を議論の取っ掛かりとしてとりあえず導き出した。その三つの要素とは、①考えの(強制的な)植え付け、②検閲、③暴力である。
さらに、ほかの人による洗脳に対する定義も合わせると、以下のようになる。

自分の利益のために他人に強制的に間違った考え方を植え付けること。

この定義には以下の三つの要素に分解して、洗脳と教育の対立点が考えられる。

1.  間違った、虚偽の考え方を受け付けるのが洗脳で、それに対して、教育は真理の獲得を目指す。

2.  強制的な植え付け。洗脳は:宣伝や暴力などを使って自発的なものではない形で考えを植え付ける。それに対して、教育は生徒と学生の自発性を尊重し、教師と学生の間の自由で平等な交流をめざす。

3.  洗脳者自身の利益のためにするのが洗脳。ナチスの宣伝はドイツの国民のためではなく、ナチス党の利益のためだ。マルチ商法もそう。それに対して、教育というのは生徒と学生の利益のためである。

しかし、これはあくまで議論のとっかかりであり、以上の区別に対する疑問点を示していく。

まず洗脳は必ずしも強制によるものではないし、教育にも強制的な側面がある
教師は生徒にあれ暗記しろ、これ復習しろと言うし、歴史と政治の授業だって植え付けの側面がもっと強いのではないか。できないやつは減点される。教師と生徒の間には自由と平等は実際にはない。
また、ISISは強制だといえないのではないか。先進国からの参加者は強制されているわけではない。彼らが自発的にISISのことを調べたのではないか。

次、真理か虚偽かで洗脳と教育を区別できるということについて。
しかし誰が真実と虚偽、良いと悪いを決定するのか。それは客観的に決められるものではない。宗教は洗脳なのか、愛国は洗脳なのか、サンタクロースは洗脳なのか、といったことは決められない。

最後に誰の利益にかなうかという問題。
教育は教育者の利益のためではない。それは教育される者の利益のためだ。しかし、他人のために自己を犠牲にすることを説く教育(そこに愛国教育も含まれる)を洗脳だと言ってしまったら、小市民的な思想(「自分の利益のみを考えて行動しろ!」)以外に洗脳ではないものはなくなってしまうのではないか。

さらに分析していく。
教師は何を学ぶべきかを決めているが、それ以外のことを学ぶのを禁止しない。言い換えれば、彼らは反論や異見を参照し比較することを遮断したりしないし、さらに思考を進めることを禁止しない。
公式を暗記しろとはいうが、生徒が自分で公式を導くことをするなとは言わない。
それに対して中国のマルチ商法は情報を遮断し、行動の自由を制限する。
とはいえ、どの情報を禁止するか、どの情報を禁止しないかは相対的に決められるものだ。ナチスの思想を宣伝することを禁止する国も多くある。完全な情報と言論の自由はない。
しかし、これは程度の問題として処理してはいけない。陳の比喩でいえば、

鼻炎と鼻癌は違うのだ。


誰が真で誰が良いについて争っても水かけ論になりやすい。それよりはっきりしているのは自分と異なる考えや信念を持つ者を遮断しているかどうかということである。
何かを強制的に学ばされても、情報を獲得する自由を奪われていなければ、ほかの考えや信念と比較しながら自分で判断することができるだろう。

はじめは、子どもがアプリオリ(先天的に)に真や偽を区別できるという前提で教育はできない。彼らの教育者に対する信頼に依存するしかない。しかし、あとで彼らが成長して自分で判断できるようになったら、教えられたものが良いかどうかを判断できる。

陳はこの構造を以下のようにパラフレーズしている。教育において、

振り返ってはじめて真偽を区別できる。

中国語では「回顧始知真假」となっていて、使いたくなってしまうようなフレーズになっている。

ここで言われているのは教育は遡及性にその基盤をもっているということである。
教育は教えたら終わりというわけではなく、学生がそこから遡及して思考してはじめてとりあえず「完了」できるため、その経路を決して閉ざしてはならないということである。
教師からすれば、学生がほかの情報に触れることを制限しないことは、まさに自信の現れである。生徒が振り返って考えてみても簡単に否定されないという自信である。
洗脳者にはそのような自信がなく、簡単に揺らいでしまう。

しかし、ここにはさらなる深刻な問題が存在している。
辛いものを食べさせれば、辛いのが好きになる。酒飲みを教えてやれば酒が好きになる。数学やピアノを教えるのも同じだ。教えられたものを好きになるという構造は洗脳の一番こわいところなのではないか。
もし洗脳が徹底されていて、植え付けられた考えを変えられなくなってしまったら?つまり、振り返ってもその植え付けられた信念が変わらないのなら、教育がいくら遡及の回路を確保しても意味がないので、結局洗脳と変わらないのではないか。
陳はこれに対して楽観的で、極端な場合を除いて、公共の場で観念と現実を対決させ、ほかに選択肢があることを見せれば挽回できる。

振り返ってはじめて真偽を区別できるというのことは、誰の利益にかなうのかという問題にも関連してくる。
利益、つまり「何がいいか」ということは客観的に決められない。かといって、主観的なものでもない。

陳がここであげる例がとても中国的。
娘の進路について。商科に行かせたほうがいいと親が判断し、そうしろと迫る。彼氏をつくっても稼げなさそうだから交際に反対する。これらはすべて子どもの利益を考えての判断だろう。そして、後になってそれが本当に子どもの利益にかなうこともあるだろう。
しかしそうだとしても、メタに考えれば、それが結果的に良いかどうかではなく、「自分のしたいようにする」ということも良いとされる価値の一つである。
これは個人的な感想だが、中国的な考え方というのはとにかく結果主義的なところがある。例えば、中国のスポーツ選手は、負けても日本の選手のように「自分の全力を出したので悔いはありません」とか、「試合を楽しんだので、結果は気にしない」とは決して言わないので、そういった考えに反対してのことだろう。

陳によればこれは個人に限らず、公共生活においてもそうである。
陳が公共生活にまで議論を広げたのは政治的なパターナリズムの蔓延に対する反対を表明しているように思われる。

では、別の場面を考えてみる。
洗脳の結果、頭の中に多くの真理を植え付けられたとすれば、それは良いことなのか。例えば、中国のマルチ商法のように人を監禁して、倫理学を教え込むといったことはどうだろうか。もちろんそれは決して良いことではない。

真理は欲しいが、それは真理を占有したいからではない。欲しいのは真理に対する追求であって、単に真理を知ることではない。ステップバイステップでその真理を知るという過程が必要だ。逆にいえば、真理を追求していなければ、例え真理を手に入れても、それが真理だとは知らず、何の価値を持っているかを知らないだろう。
これは簡単にいえば、数学が何のためにあるかわからんと言いながら点数ほしいから数学で満点取ってくる人と、数学者やロケットエンジニアになりたくて満点を取ってくる人とでは、その真理の意味がまったく違うということだ。前者は点数を追求するために真理を知るのに対して、後者は真理を追求しているために真理を知ろうとしている。そして教育の目標は明らかに後者の育成である。

何が真理なのかという問題は、あなたは何者かという問題と繋がっている。教育の目的は「一を聞いて十を知る」ということにある。もし自分の見解がなければ、十を知ることはできない。つまり、そもそも十を知るという必要性を感じていない状態になる。何かを必要と感じ、それを欲することはまさに自分が何者かと関連するというわけである。
洗脳はそれと違って、そもそもその自分を抹消することを目的としている。

陳は教育と洗脳の根本的な区別を以下のように述べる。

私たち〔教師のこと〕は学生の自立的な判断力を養い、自由な人格を育てたいと考える。彼らが成熟して、彼ら自身の時代で、彼ら自身の気質にしたがって彼らが良いと思うものを手に入れ、意義に満ちた生活を送ることを望んでいる。彼の有意義な生活とはどんなものかは教育者が決めるものではない。私からすれば、これが教育と洗脳のもっとも根本的な区別である。

教育は自立性を育てることにある。その意味で教育は梯子のようなもので、登り切ったら捨てなければならないのかもしれない

外部の判断に流されるのではなく、自分の判断で選択し、生きていくこと。これはある意味、前に『羅小黒戦記』について書いた「複雑性との共存」ともつながる話だと思う。


社会の中にさまざまな人がいて、さまざまな形の有意義な生活がある。これは一見当たり前のことに見えて、それが具体的な事柄ーー愛国主義、移民や外国人問題ーーとなってくると、実践の最中においてそれを意識することがなかなかできない。
とりわけ中国ではそれが困難である。前に「中国における幸せは、非常に画一」だと述べて、幅広い共感を呼んだ記事があったが、まさにこのような事態を描いているように思う(もっとも日本ではその幸せの形の多様性を可能にする基盤自体が崩れてきているように思えてならないが、ここでは深入りしない)。


その意味で教育とは、まさに教育される者が多様な意義の可能性を常に意識でき、それに基づいて実践できるようになることを目指す営為だといえるかもしれない。

 世の中にはさまざまな可能な生活がある。その中の一つだけが自分が選んだもの、もしくはその中に投げ入れられたものである。しかし、私はその生活の中に閉じ込められているわけではなく、自分の考えをもってこの私にとっての唯一の生活を過ごしている〔原文:我有所领悟地过着这对我唯一的生活。〕。これによって生活は意義に満ちている。それはもちろん私がそこから利益を得ていることのみを意味するわけではない。それが意義に満ちているのは、それが創造性に富んでいるからでもいいし、他人に何かいいものをもたらしているからでもいい。そして、聖テレーズのように、それが不幸に対する慈しみに満ちているからでもいいのだ。
国のために命を投げ打った壮士たちが自己犠牲を厭わないのは、洗脳されていたわけではない。そうではなく、もし彼がそこから逃げてしまったら、自分の生きてきたことの意義のすべてを否定してしまうことになるからだ。

陳はここで愛国主義に言及しているが、決して中国の愛国主義のみを正当化するためにそうしているわけではない。アメリカや日本の例も出してそれ一般を考えようとしている。私たちはそのような考えを拒否できる。しかしながら、もしそれが彼らが自分なりに考えて選択したことであれば、何があってもそれを「洗脳」と呼んではならないということである。

私個人からすれば、愛国主義に強いアレルギー反応を持っていて、基本的に愛国的な発言を聞くと文字通り鳥肌が立つのだが、だからといって私がよく教育されていて、彼らが洗脳されているとは決して言えない。

洗脳という言葉をもっと慎重に用いるべきである。

何でもかんでもすぐに「洗脳」だと決めつけるのはあまりにも簡単である。それはしばしば私たちが極端的な事例に対するより深い理解を妨げてしまう。まるでいったんあるやり方に「洗脳」のレッテルを貼ってしまえば、その人のしたことそしてそのことの根元についてより細かい議論と分析が不要になるかのようだ。私たちは知らず知らずの間これらのことに対してより厳密に考え、深く理解する責任を放棄してしまった結果、もとよりかなり浅はかな私たちの知的生活がより浅はかなものになってしまうのである。

洗脳という特定の文脈でしか適用できないイメージ、ヴィトゲンシュタイン的に言えば「像」をあらゆる知識獲得の場面に適用してしまうことの弊害がきわめて大きいということである。

その意味でいえば、教育とは個々の場面、つまり現場の中で思考する能力、同時にそのほかの諸々の可能性に意識を向けながら思考する能力の育成を目指すものだと言えるかもしれない。

この講演は『唯一真理観から抜け出す』というタイトルの本に収録されている。陳の立場は、真理はあるという信念を決して捨てないと同時に、唯一な真理があるという真理観を断固として拒否する、というものである。そして、この立場から「良い生活とは何か」を考えつづける。

 私たちはすべてを一つの絶対的な観点の下に還元することで相対主義を克服することができない。本当に相対主義を克服できるのは逆に次のような考え方である。自分自身の中に深く入り込んで、自分が本当に信じているものは何かを理解しなければならない。自分が心から何かを信じて、その信じていることのために何かをする。その時、あなたの信念と行動は実際的で現実的なものである。しかしそのためにほかのすべてがフィクショナルで虚偽的なものになるわけではない。自分と異なる人間、自分と衝突する人間には彼らなりの現実があり、具体的な思考と行動の中で彼の生活理想と交流している。そう、彼にはフィクショナルで虚偽的なものがある。だから彼と争わなければならない。しかしその過程は相互的なものだ。あなたにもあなたなりのフィクションと虚偽があり、あなたもまたこの争いの中でより現実的になっていくのだ。


陳嘉映の哲学は中国で大きな人気を集めている。

それは彼が哲学を通してより良い生活とは何かという問題に対する答えをだそうとしているからではなく、どのように自分なりの答えを出していくかの方法を示そうとしているからだと思う。



最後におまけ。
私はこの本を中国の電子書籍サービス「微信读书」で読んでいるが、そこでは特定の節と文についてみんなでコメントしあい、議論しあうことができる(下の写真)。そこでは多くの人が陳の議論をもとに自分の現実を開示し、思考している現場を垣間見ることができる。

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