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「崩溃(崩壊=決壊する)」/黒暗中国語⑤

「黒暗中国語」の第五回になります。
今回は中国の崩溃 bēngkuìを取り上げて、感情がカジュアルに決壊することの中にある希望について考えていきます。

「黒暗中国語とは何かについては以下の記事を参照。


「崩溃 bēngkuì」の意味:

崩壊する、破綻する。

「崩 bēng」

「くずれる」、「倒壊する」、「破裂する」などの意味がある。

「溃 kuì」

「決壊する」、「敗走する」、「(包囲を)突破する」などの意味がある。

 例文:

1. 她的离去让我完全崩溃了。

Tā de líqù ràng wǒ wánquán bēngkuì le。

直訳:彼女が去ったことが私(の精神)を完全に崩壊させた。

2. 今天各种不顺心,我都快崩溃了。

Jīntiān gèzhǒng bú shùnxīn, wǒ dō kuài bēng kuì le。

直訳:今日はいろんな気に食わないことが起こって、もう無理だというところまで来ている。

3. 成年人的崩溃,都是悄无声息的。

Chéngniánrén de bēngkuì dō shì qiāowúshēngxī de。

直訳:成人の精神的な崩壊はいつも静にやってくる。

例文解説:

1. 「离去」は「立ち去る」の意味。「彼女が(私の元から)立ち去ったこと」、というのはそのままの意味とは別に「(ふられて)別れてしまった」という意味と、「亡くなった」という意味がありうる。

2. 「顺心」は自分の意志や願望がうまく実現されている状態を指すので、「不顺心」は物事がうまくいかない状態、または気に食わないことが起こった状態を意味する。

3. 「悄无声息」は「物音を立てずに、しんと静まりかえっている」などの意。「悄声无息」とも。
「崩溃」には感情が決壊し、精神が崩壊寸前といったニュアンスがある。この例文はそれを逆手にとって、大人は表に出さず、人に気づかれることなく、静かに精神的に崩壊し、感情が決壊してしまうことを述べている。逆説的な表現で、上級者向け。

ほかの使い方:

系统崩溃

system breakdown システムクラッシュ

コラム:

「崩溃」のイメージは、必死に我慢したり、堰き止めていたものが決壊し、その中のもの(水など)がすごい勢いで溢れ出し、コントロールがきかなくなる状況である。「堰を切ったように」という表現がイメージとして結構近いと思う。

この言葉をもって感情を形容する場合は、何らかの強い悲しみに襲われ、またはストレスが蓄積するなどで、ついに心の限界を突破し、感情をコントロールできなくなり、絶望したり、激情に駆られたりしている状態を指すことが多い。つまり、(否定的な)感情は「我慢する」もの、「蓄積する」ものとして想像されていて、それを食い止めるものが崩壊すれば、一気に溢れ出すものとして想像されている。

簡単に言えば、精神が崩壊寸前にまで追い込まれた状態、もしくはすでに崩壊した状態を指すが、実際そこまでではなくても、誇張して使われる場合が多い。

実際、最近ではカジュアルに使うことがかなり一般的になっている。

英語の「crash」や「breakdown」に対応するのも興味深い。「crash」には「衝突する」や「崩壊する」などの意味があり、「breakdown」には「故障する」、「崩壊する」、「衰弱する」などの意味がある。そして、「崩溃」の日本語訳も「崩壊する」というふうに訳されることが多い。

いずれも「崩」のほうの意味(崩壊する、衝突によって破裂するなど)に対応していて、「溃」のニュアンスも同時に示されることがまれである。

もちろん日本語でも「感情が決壊する」「感情が堰を切って溢れ出す」などと言うこもともできるだろうが、それがどれほど一般的な表現だろうか。「私の感情が堰を切って溢れ出そうだ」といった言い方は会話の中で使われることはまずないだろう。しかし、中国語では「我快要崩溃了!」で「もう無理!」ということを表現できる。したがって、文学的な表現としてならともかく、日本語では中国語のように、日常的に、カジュアルに使われることは少ないように思われる。

感情も程度が過ぎれば災難になりうる。誰もが心の中に感情を堰き止める堤防を高く築き上げていて、その決壊を日々警戒している。これが一般的な考え方になるだろう。しかしながら、中国(語)では誰もが毎日のように、カジュアルに、「ちょっとコンビニでアイスを買ってくるわ」とでも言っているかのように感情が崩壊=決壊している。これをどのように考えたらいい(面白い)のか。

ここで考えを飛躍させよう。

不穏なことを言っているのは重々承知だが、感情がカジュアルに決壊する利点というものは実際に存在するのではないか。

一気に溢れ出すものとは、瞬間的にすべてが完全に変わってしまうものでもある。いったん「崩溃」してしまえば、もうこれ以上我慢しなくてもいいし、それですべてが取り返しがつかないほどに大きく変わってしまうのだ。

そもそも崩壊=決壊は我々のせいではない。それは外部から押し付けられたものの蓄積によるものだ。「自己責任」という安易な概念は通用しない。そして、誰しも限界を持っている。限界を迎えたものは崩壊=決壊するのは自然の摂理である。「頑張ればできる」という安易な精神論は通用にしない。さらに、崩壊=決壊したものに対して、これまでの要求と期待はもはや通用しない。まったく新しい態度が必要となる。つまり、それは現状維持のためのごまかしの言葉ではなく、いろいろな物事のリセットと完全な変化を要求するのだ。

また、ある者の決壊した感情の洪水は、ほかの同じく決壊した者の感情の洪水と簡単に合流する。あちこちでカジュアルに行われている決壊と氾濫はやがて大きなものになり、より大きな物事に対してリセットの要求を突きつける。

「もう無理!」と叫んでもなかなかこのようなイメージにはなりにくいが、「崩溃」にはそのような想像を掻き立てる力がある。この意味で、「崩溃」は絶望が希望に変わるある種の折り返し地点でもあるのではないか。

目の前の理不尽さを我慢しながら、無意識的に「崩溃」を、つまり世界のカジュアルなリセットを、心待ちにしている人は結構いるのではないかと想像してしまう。

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