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遠慮なく語らいたい

子育て、保育、教育を軸にもろもろ、日々考えることをnoteに書いてみようと思います。

これまではSNSで投稿していたのですが、SNSは誰でも気軽に見てもらうことができる一方で、タイムラインに流れてくる形式のため、皆さんが読む時の温度は人それぞれ違います。

そういう場で、僕はどちらかといえば保育や教育に興味がある人や現場の先生たちに向けて長文を書いてきました。

それって、おそらくSNSの特性としてはあまりチューニングがあっていないんですよね。(気づくのにだいぶ時間がかかりましたが)

そんなに興味ないけどたまたま僕の投稿を目にした人や、興味あるけど今は長文を読むタイミングじゃないという人からすれば、読み飛ばすでしょう。

それはSNSの発信としてはもったいない。SNSでは、より多くの人に活動を知ってもらえたり、報告の代わりになる方がいいかなぁと。

また、言葉というのは、個々の経験や環境によって、その受け取り方は微妙に変わってきます。それが不特定多数ということになれば、その違いも大きくなります。

そういう中で発言しようと思うと、

「この内容やニュアンスは、わかりにくいかな?」

「受け取り方によっては誤解して嫌な気持ちになる人もいるかな?」

などと考えたりすると、「SNSではやめておこう」と書いた記事を投稿しないこともあるものでして。(小心者なので)

そんな中であらためて、不特定多数に向けてではなく、関心がある人に向けて、より濃く直球で伝えたい。と思うようになりました。

いや、この言い方がもう直球じゃないですね。

もっとぶっちゃけてしまえば、

どの立場、どの考えにも忖度なしに、遠慮なしに、語りたい

そんな思いが高まり、noteを書くことにしました。 

このマガジンでは、子どもたちと過ごす中で日々考えたことを毎週コラムを一本と日記を一本、お届けしたいと思います。

また、今回無料記事と迷いましたが、せっかくならお互いに一段ギアをあげて、思索の時間を楽しみたいという思いから、一ヶ月ワインコインでやらせていただきたいと思います。コーヒー一杯、ビール一杯、飲みながら語らうと思って、読んでもらえたら嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします!

ここからは、noteをやるにあたって考えていたことをもう少し書きたいと思います。

さきほど、
「忖度なしに、遠慮なしに、語りたいということです。」
と書きました。
それは、もしかしたら、配慮なく語りたいなんて乱暴と思うかもしれません。
ですが、僕はそうじゃないと思っています。

「遠慮なく忖度なく話せる」というのは、言い換えると、お互いに話す準備ができている状態ということです。

では、準備とは何か。

それは、

相手への想像力です。

もちろん、発言する人が、色んな人の状況や立場を想像し、配慮し表現するというのは大切なことです。

ですが、反対にそうした配慮、想像力が必要なのは受け手も同じです。

たとえ自分の価値観や主義にあわないことでも、それを受け手が、まず

「なぜこの人はこんなことを言うのだろう?」

とか

「どんな背景があって、この発言や価値観にいたったのだろう?」

とか

「この人がこの考えを軽率に言うはずはないから、きっと何か考えがあるのだろう。」
とか

そんな風に想像することできれば、自分の物差しでは理解しづらかったり、その上で反論するにしても、やりとりの質やムードは大きく変わります。

対して、昨今のネットやメディアのムードはどうでしょう。

見聞きする一つの出来事や主張を一方向から切り取り、

それが自分と合わなければ、「おかしい」と即座に、そして感情的に批判•攻撃する。

さらには、内容以前に

「その発言によって傷つく人の気持ちをよく考えていない」

と突っ込まれてしまう。

そういうことが本当に増えました。

そして、この指摘は、読み手の想像力のなさを批判したいわけでもありません。

なぜ受け手の想像力が乏しいのか。

その理由の一つは、おそらく僕らがあまりにも手軽にスマホという情報受信ツールを持てるようになったからではないかと思います。

スマホを手にする手軽さとは真反対に、お世辞にも手軽とはいえないほど膨大な情報がスマホに集まってくる。

情報というのは、

本来、一度自分の頭で考え、想像して、咀嚼して、それから取捨選択すものです。

なので、受け取る側の準備、リテラシーが必要。

ですが多くの人はおそらく、その準備ができていない。

スマホがあまりにも手軽に身近に生活の中に入ってきたから。

そして、情報量があまりに膨大すぎるから。

そう考えると、僕らはネットやメディアの情報に対して想像力が乏しくなったというよりも、

想像したら疲れちゃうから、想像するスイッチを切っているのかもしれません。

都会で、周りの人のことを気にしていたら疲れてしまうのと同じように。

情報を受け取る準備のできていない人が、

自分で想像をすることをしなくなった人が、

情報の断片に一喜一憂するというのは、自然なことなのだろうとも思います。

くわえて、最近では、思考停止を助長する大義が現れました。

多様性とポリコレです。

多様性のもと、様々な主義・主張は批判対象となっていますね。

特にマジョリティの主張は。

本当の多様性とは、あらゆる考えや主張が受け入れられることにあるはずですから、一人一人の思いにマジョリティもマイノリティも関係ないはずなんです。

ですが、実際は、多数派の思いや主張は、そうではない少数の人を否定しているといって、批判されている。

自分の大切なことを大切ということは、そうではない人を否定していることではないのに。

こうして、みんなどんどんと発言をひかえていく。(僕自身も)
これは、ものすごく大きな問題になってくると思います。(もうなってるか。)

これでは、新しいものも生まれないし、古いものも衰退していくばかりでしょう。

いやぁ、どうなっていくんでしょうね、未来は。

めちゃくちゃ心配ではありますが、嘆いていてもしょうがありません。

この閉塞感を打開するためには色んなアプローチがあるだろうと思いますが、
僕としては、こんな風に一度クローズドな中で、価値観をコツコツ共有しながら、少しずつ柔軟な輪が広がって、結果的に社会が今より少し寛容になる。
そんなことにつながっていったらいいなと思っています。

ということで、「こどもの育ちと環境と」どうぞよろしくお願いします。

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こども環境デザイン研究所代表。絵本作家。(『たんけんハンドル』発売中)  子育て、保育、教育を軸に、毎週1本ずつコラムと日記をお届けします…

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