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現代文学における《自閉症》の傾向①――今村夏子「こちらあみ子」、村田沙耶香『コンビニ人間』


 
 論考「言葉のままならなさに向き合う」の後篇が『ゲンロンβ62』に掲載された。下のリンクで本文が購入できるので、ぜひお願いいたします。以下、論考の補足として「こちらあみ子」『コンビニ人間』について論じたいと思います。

 本論考においては、《一義性の時代》を語る重要なものとして自閉症スペクトラムについて言及した。ここ数年の文学において、《自閉症》は無視できないキーワードである。その最新版には、宇佐美りん『推し、燃ゆ』を挙げることができる。
 とくに思い出されるのは、今村夏子「こちらあみ子」。「こちらあみ子」の語り手であるあみ子は、常識的に考えると、とても変わった言動をする。印象的なのは、庭に「弟の墓」と書かれた木の棒を立てて、流産してしまった「弟」(実際は「妹」だったわけだが)の墓をこしらえた場面。それを母に見せたあみ子は、母に「すごいね、きれいね、と言ってもらえると思った」という。そんなあみ子を見ていると、多動症と自閉症を併発しているのではないかとも考えてしまう。
 ただし、作中において「発達障害」という言葉が登場しない以上、このような精神科医気取りの診断は危うい。筆者自身、あみ子を指して、発達障害の傾向を指摘することに抵抗があるのはたしかだ(この診断のできなさという点において、「こちらあみ子」は、自閉症スペクトラムのありかたを問うているとも言える)。実際、書評家の瀧井朝世氏は、作中のあみ子が「発達障害」と指摘されない点を評価する。

また、彼女が何かの医学的な問題を抱えているのか明らかにされない点も秀逸だ。もし例えば発達障害とのラベルが貼られていたら、発達障害以外の読み手は自分と違う人の話だと思ってしまうかもしれない。そうではなくカテゴライズを避けたことによって、読み手はあみ子に寄り添っていける。(「あみ子の世界がふたたび」『webちくま』2014.7.1)

 引用部の指摘はその通りだろう。加えて言うなら、言葉で作り上げられる小説世界においては、言葉で名指されることは、そのままそのものの存在を意味する。その意味で、「発達障害」という言葉の有無にこだわった瀧井は、誠実な小説読者と言うことができる。
 しかし、どうだろうか。意地悪な指摘をしてしまうと、この書評は一方で、「発達障害」者が「こちらあみ子」という作品を読むことを想定してはいない。少なくとも、この書評における「読み手」とは、もっぱら定型発達者が念頭に置かれている。だからこそ、「寄り添っていける」という表現になっている。だとすれば、この指摘は、多様性を称揚している反面、「発達障害者」を周縁化するような構造となってしまっている。
 しかも皮肉なのは、瀧井氏の直感的な態度は正しい、ということだ。というのも、今村の特徴とも言える、明言を避けて前後の文脈や関係性を読ませるような小説こそ、くり返し述べているように、自閉症者に対する「合理的配慮」に欠けるものだ、という議論が出ているからだ。このような議論からすると、「こちらあみ子」はもっぱら定型発達者に向けられている、ということになる。
 教育現場において発達障害をどのように考えるか、というのは難しい問題である。スペクトラムという連続性の状態を踏まえるとなおさらだ。瀧井が言うように、ある生徒に対して「発達障害」としてレッテルを貼って、自分とは異なる者として区別することは、あまり良いことだとは思わない。ましてや勝手な偏見をもつべきではない。理念的には共感する。しかし、教育現場から考えてみる。厄介なのは、そのような高邁な理念がしばしば、悪く作用してしまうことだ。
 信頼する同僚は、自身の葛藤を表明しながら、「レッテルを貼るのも良くないけど、見過ごすのも良くないと思うんだよね」と言っていた。レッテル貼りと偏見の危うさについて、何度も考えをめぐらせてからの言葉だ。一般論として言うが、いまだ一斉教授のスタイルを前提とせざる得ない教育現場(その良し悪しはここでは問わない)においては、レッテル貼りを避けるがあまり、対応を誤るケースも存在する。逆差別を避けようとする態度が、かえって目指すべき「配慮」の欠落を起こしてしまうのだ(それにしても、「配慮」というかたちでの介入すら一概に良いことなのかどうか)。
 長期的には、どのような立場の人であれゆたかな人生を送れるような社会を目指すべきだ。そのために学校制度の変革も必要になってくるだろう。しかし、そのような理念や長期的展望と同時に、現状の制度のなかでどのようにサポートをするか、という目前の課題が存在しているのも事実だ。あみ子のありかたを認めるのであればこそ、現実的な問題として、あみ子がどのように社会と接点をもつのかを見るべきではないか。
 作中において、たしかにあみ子は「発達障害」という設定/診断を明言されているわけではない。しかし、あみ子の同級生であるのり君が、お母さんから「孝太君の妹は変な子じゃけどいじめたりしちゃいけんよって。なんか変なことしようとしたら注意してあげるんよ」と言われていることは見逃せない。
 つまり、あみ子は、「変な子」であることは認められつつも、かと言って、完全に異端視されるわけでもなく、ある種の「配慮」がなされているのだ。「変な子」であることを認めたうえで配慮を求めるようなお母さんの物言いは、まさに多様性への寛容さが求められる時代のものだ。このことは、「保健室で寝て過ごしたり図書館でマンガを読んだり」といったように、学校運営上、あみ子に「授業には参加せずに独自の方法で下校までの時間を潰すこと」が許されている、という点を併せて考えても明らかだ。
 このように「こちらあみ子」は、「合理的配慮」以降の時代の作品と言うことができる。「発達障害」と診断されていようがいまいが、あみ子は周囲から「配慮」の対象とされている。そのような作中の事実を見ないで、「カテゴライズを避けたことによって、読み手はあみ子に寄り添っていける」と、あたかも同化が可能かのように書いてしまうのは、違和感が少し残る。
 ここには厄介な問題がある。たしかに「こちらあみ子」は、現代的な言葉のままならなさの一端に触れている。自閉症傾向のある人物を通して、文脈が切断されたまま言葉が浮遊していく状況を見事に描いている。あみ子の兄があみ子に対して、カエルの比喩で親子関係について説明するもなかなか伝わらない場面などは、コノテーションが機能しておらず、したがって比喩が理解されない〈一義性〉の時代のリアリティを感じさせる。しかし、その見事な作品性は、どこまでも定型発達者に向けられている。「変な子」であるあみ子に指をさし、配慮し、理解し、寄り添おうとする作品の構造がすでに、定型発達側の発想なのだ。そのような読書コミュニケーションにおいては、まさにあみ子のような存在こそが排除されてしまうのだ。

 自閉症傾向の人物を描く作品としては、村田沙耶香『コンビニ人間』も挙げられるだろう。竹中均は、「世界の部品になることができたのだった」と語る『コンビニ人間』の主人公、古倉恵子のありかたを自閉症者に重ねていたが(『「自閉症」の時代』)、「少し奇妙がられる子供」時代を過ごした恵子は、たしかに自閉症傾向が強いと思われる。
 さらに言うと、『コンビニ人間』では、コンビニのアルバイトとして、マニュアル的に「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」と反復する恵子が印象深く描かれているが、精神分析学の松本卓也によれば、このような「特定の意味と一対一対応したカードを切っているかのように使われ」る「コンビニ言葉」は、自閉症の子どもが使う言葉に近いという。

たとえば、「こちら温めましょうか?」「ありがとうございました、またお越しくださいませ」などの、いわゆる「コンビニ言葉」は、他の組み合わせ(分節化)をすることができない、ひとかたまりの言葉(定型文)として発せられているし、それを聞くお客さんの側も、そのようなものとして理解してはいないだろうか。(『〈自閉症学〉のすすめ』)

 だとすれば『コンビニ人間』は、自閉症傾向にある者が、社会に包摂されていく物語として読むことができる。
 三六歳の恵子は一九九八年に大学一年生だったとあるから、物語の現在は、初出と同じ二〇一六年だろう。なるほど、一九八〇年生まれの恵子が子どもだった一九八〇~一九九〇年代は、自閉症や発達障害の議論は、まだまだ一般化されていない。いや、小説家の中村文則が指摘するように、『コンビニ人間』の物語において、周囲はなお「普通圧力」に満ちている(文庫版「解説」)。しかし一方で、例えば、恵子の友人のミホが「私けっこう同性愛の友達とかもいるしさあ、理解あるほうだから」と口にする程度には、社会は寛容な雰囲気をまとっている(実際に寛容かどうかは別として)。二〇一六年とは、まさに障害者差別解消法が施行された年である。
 平成にあたる三〇年とは、発達障害に限らず、さまざまな多様性や寛容さが社会的に謳われた時代でもある。ラストにいたってコンビニに居場所を見つける恵子はあたかも、そのような多様性を謳う社会に包摂されたようである。さきの竹中は、「非正規社員は限定的な業務に専念する傾向にある」と述べたうえで、「つまり非正規であることによって彼女は、あの魅惑の空間に専念できるとも言える」と指摘する(『「自閉症」の時代』)。『コンビニ人間』は、かつて「奇妙」な存在として周囲から浮いていた者が労働者として社会に適度に包摂される物語という側面をもっているのだ。

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