2023年3月5日の日曜日から書き始めています。少しだけ時間的余裕ができたので、書かなくてはいけないなと思っていたことを書きます。それは、文芸批評家の川口好美さんによる「小峰ひずみ論」および、それを受けて小峰ひずみさんが書いた文章「批評F運動」についてです。川口さんの文章を読んだ時点からなにかを書こうと思っていましたが、「批評F運動」が出てからは応答責任が発生している、と判断しました。ちなみに、ちょうどついさきほど、批評家の杉田俊介さんが小峰さんに向けた文章をアップしていま
文学教育論の変遷 2023年度は、新学習指導要領改訂にさいしてとくに議論を呼んだ「文学国語」が、「論理国語」とともに高等学校にいよいよ導入される年である。このタイミングで「文学」と「国語」の関係について書いておきたい。 このたびの学習指導要領改訂に対しては、「文学」側からもいくつかの批判が示された。この問題について積極的に発言をしている紅野謙介の整理を引用する。 注目したいのは、今回の学習指導要領改訂に対する「文学」側からの批判がいずれも、「国語」という教科は「文学
杉田俊介さんと櫻井信栄さんが編集を務める雑誌『対抗言論』。第3号となる今号は、川口好美さんと藤原侑貴さんが新たに編集に名を加え、テーマは「差別と暴力の批評」というものです。杉田さんにお声がけいただき、僕は「一元的差別批判への諦め、あるいは批評のはしたなさについて」という文章を寄せました。同号には、大学院時代から続く自主ゼミの後輩にあたる冨田涼介くんも『もののけ姫』に関する論考を寄せています。自分のことはともかく、雑誌自体は非常に論争的かつ切実で、とてもインパクトのあるものに
『学校するからだ』(晶文社)、少しずつ感想も出てきていてありがたいかぎりです。引き続き、よろしくお願いします。 以下、各章で言及した固有名と参考文献を挙げていきたいと思います。 各章で言及した固有名 《第1章 部活動》 細馬宏通/山極寿一/メッシ/ロナウジーニョ/今福龍太/渡辺裕/ミッキー・ミナージュ/アリアナ・グランデ/スヌープ・ドッグ/インクレディブル・ボンゴ・バンド/千葉雅也/RCサクセション/グリーン・デイ/津村記久子/小西康陽/エルメート・パスコアール/エグベ
樋口毅宏『中野正彦の昭和九十二年』の回収騒動のことが、ちょっと気になっているので書いておきます。まず前提として、私自身は作品を読むことはできていません。いくつかの書店をまわってみましたが、書店で見つけることはできませんでした。連載時も読んでいませんでした。残念ながらと言うべきか、こうなってしまった以上、今後もしばらく読む機会はなさそうです。以下、論点別に書いていきます。 論点①――表現の「回収」をめぐって 一般論として言うと、このような回収がおこなわれてしまうと、その
植草甚一でおなじみの晶文社より『学校するからだ』という本を出しました! 2017~2018年くらいに企画が立ち上がって、のんびり書いていたらコロナ禍に突入、最後は起きた出来事をほぼリアルタイムで書いていました。以下、書くにあたってのいくつかの文脈を。 【文脈1】出版関係の人と話していると、学校というのは外部からは謎めいているらしく、意外と面白がられることがあるのだな、と思ったことがあります。また、けっこうな偏見があるのだなと思ったこともあります。学校をめぐるつまらない
※ひろゆきの辺野古に関する発言を受けて、いま準備中の本の一部を部分的に改変して掲載します。以下です。 ※写真は荒崎海岸です。 高江ヘリパッド建設に抗議する住民に対して、機動隊のひとりが「土人」と言い放ち問題になったことも記憶に新しい2018年に沖縄に行った。 このときは、学生時代から長らく沖縄の実地調査をしている知人が主導したこともあり、通常ならば絶対にできないようなことをたくさん経験した。 とくに、普天間基地移設の問題に大きく揺れる名護市の辺野古の埋め立て地のまえで
※感染者数の増加によって、何度目となるのか、さまざまな学校で活動の中止・自粛が始まっているという現状を聞き、いま準備中の本の一部を部分的に改変して載せることにしました。以下です。 それにしても、学校というのはどういう場所なのだろう。勉強をして知識を獲得するための場所だろうか。それならたしかにオンライン授業が主流でもいいのかもしれない。しかし、たとえば教育学者の中澤渉さんは、コロナ禍以前の時点で次のように述べている。 インターネットの発達などもあり、単に知識を得るだけなら
少しまえ、法律事務所に行く用事があり、法律家の先生に話を聞く機会がありました。そのときに印象的だったのは、法律家として「個々の出来事について違法性を指摘・確認することはできるが、出来事を並べてその関連性について違法性を指摘・確認することはできない」という姿勢が一貫していたことでした。つまり、《物語》の水準で違法性を認めることは困難だ、ということです。たしかに、いくら信憑性があろうと、恣意的な《物語》に対して司法が簡単に違法/合法を決定するとなれば、これはたいへんな権力の濫用
例によって、《物語》の必要性ということを、いつもとは少し違う角度から書きます。 アメリカの大統領がトランプになったあたりでしょうか、「陰謀論」という言葉が普及し、多く使われるようになりました。陰謀論に関してもさまざまな議論があるでしょう。基本的な定義は、「ある出来事の背後に特定の集団・組織による大きな力が働いていると考えること」といったところですが、その側面のひとつとして「実際にはまったく関係のない出来事どうしを結びつけて物語化する」ということがあります。無関係なさ
・職場で珍しく慌ただしくしていたところに、「安倍晋三撃たれる」の報。たいへん驚きスマホで見ると、拳銃で撃たれたと報じられており、最初はやくざも絡んだ過激派の右翼による犯行かと思いました。しかし、すぐに元海上自衛隊員(任期制自衛官)であると報じられ、現在では統一教会との関連が中心的な話題になっています。 ・以下、リアルタイムの印象として。 ・ショッキングな訃報の反動で美談めいたものが増えることは、多くの人が予想したとおりだし、やはりそういうものなのでしょうか。退任したとはいえ、
※この記事は、2015年6月9日に書かれたものです。 ele-kingで、泉まくら『愛ならば知っている』のレヴューを書きました。 泉まくらが所属する術ノ穴は、fragmentという先鋭的なトラックメイカーのユニットが主宰するレーベルで、そのfragmentとは、一瞬だけ同じイベントに出ていたことがあります。友人と一緒にやっていた小規模なイベントです。そういう奇縁もあって、今作の手ごたえは伝え聞いていました。泉まくらはもともと、キャラクターとしての魅力がとてもある人なので
※この記事は、2015年5月に書かれたものです。 ――Yo! そして天まで飛ばそう! なんて、解放的な響きだろうか! 当時14歳の僕は、このフレーズの、4回のリフレインを聴いたとき、いままで味わったことのないような、ポジティヴな幸福感に包まれた。「いままで味わったことのない」は全然誇張ではなく、音楽に限らず、映画でも小説でもなんでもいいが、人がなにかに目覚めるときの、夢見るときの、呪われるのときの、あの名状しがたい幸福感は、僕の場合、ブッダ・ブランドによってもたらされたの
小峰ひずみ氏による『今日よりもマシな明日』の書評が、『文学+ web版』に出ました。ありがとうございます。 さまざまなたくらみがありそうなこの書評について、その狙いをすべて理解できているかわからないのですが、応答できるところは応答しようと思います。順番に読みながら答えていくかたちで。 書評序盤、小峰氏は、町田康論における「琵琶法師的な語り/近代的な語り」の融解について牽制しつつ、西加奈子論において「琵琶法師的な語り/近代的な語り」の区別の再導入について指摘してい
日本のフィメールラッパーについて論じた、つやちゃん『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)が、とくにいまの自分にとっては大事な本だと思いました。それは、個々の分析以上に(個々の記号分析的な議論については、自分と意見が違うものもありました)、フィメールラッパーを日本語ラップ史のうえで記述し整理する、という主題が貫徹されている点においてです。詳細なディスクレヴューもその主題の延長に見出されるべきでしょう。さらに言えば、その主題のなかで
NFLハーフタイムショーの興奮冷めやらぬ状態です。メアリー・J・ブライジからのケンドリック・ラマー、そしてエミネム、素晴らしかったですね。もちろん、ドレーもスヌープも50セントも良かった。 さて、先日来、星野源の番組がJ・ディラおよびディ・アンジェロを取り上げたことがきっかけで、Twitterで日本におけるネオ・ソウルの受容が議論されています。このあたりの話を眺めていたら、高校生(1999-2001)だった当時の記憶がフラッシュバックしたので、その記憶を書いておきます。こ