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私が私であることを誇る――1990年代の渋谷と華原朋美

1990年代の「アーティスト」

 1983年生まれの僕が渋谷に行くようになるのは、高校生になって以降の2000年代であり、1990年代に渋谷で遊んでいたことはない。したがって、よく言われるようなナイキのエアマックスと援助交際に彩られた渋谷という街は、テレビのニュースで観るような、あるいは映画『ラブ&ポップ』などで観るような、画面越しのものでしかなかった。
 もっとも、エアマックス狩りのようなことは自分の中学校でも起きていたし、偽造テレフォンカードもコギャルも身近に存在していたので、なんとなく同時代の空気を吸っていたという思いもなくはない。しかし、当時の僕にとって渋谷とは、電車ですぐに行ける距離でありながらも、基本的にメディアを通してイメージされるものとしてあった。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件に揺れた1995年前後のことである。
 この時期、小学生から中学生になろうという僕は、少しずつ音楽に興味をもち始めていた。と言っても、それは全然マニアックなものではなく、たまたまテレビで耳にして気に入った曲のCDを小遣いで買ってみよう、という程度のものだ。そうして初めて買った曲が、華原朋美の「I BELIEVE」だった。本当は「I’m Proud」を買おうと思ったのだが、間違ってひとつまえのシングルを買ってしまった。でも、そんなことたいした問題ではなく、初めて自分のお金で買ったCDを、その後すぐに買った「I’m Proud」とともに愛聴していた。曲の魅力と歌い手の魅力を混同するように、タレントとしての華原朋美自体も好きになった。
 それにしても華原朋美という人は、アイドルなのだろうか、アーティストなのだろうか。おそらくアーティストなのだろう。少なくとも当時の僕は、アーティストとして彼女を見ていた。というか、アイドル歌手なんていう存在がこの時期の音楽シーンにはほとんどいなかった。いまでこそアイドルはJ-POPの一角を占めるような存在感を見せているが、1990年代において、アイドルはいわゆる「冬の時代」を迎えていた。岡島紳士・岡田康宏『グループアイドル進化論』には、次のように書かれている。

 アイドル幻想の崩壊、おニャン子クラブのブームとしての消費によって、アイドルがダサいもの、かっこ悪いものになったこと。(中略)アイドルを応援するファンにも「オタク」のイメージが定着してしまったこと。さまざまな理由が重なりアイドルを取り巻く環境は、ファン層の固定化、タコツボ化が進んでいく。

岡島紳士・岡田康宏『グループアイドル進化論』

 このような「冬の時代」にあって、アイドル的なものはどのように存在していたのか。ライムスター宇多丸は、各時代が「アイドル」になにを求めるかという観点から、「90年代の時代の『リアル』に対応すべく、スキル主義~『アーティスト』志向が台頭、『アイドル』の実質も変容していきます」と指摘している(「『アイドル幻想』変容の時代」『BRUTUS』2010・6・1)。つまり宇多丸の見方によれば、女性たちはあの時代、「アイドル」のいち形態として「アーティスト」然としたふるまいをしていた、ということだ。
 実際、それ以外の時代ならばアイドル歌手としてデビューしていただろう女性たちは、1990年代においては「アーティスト」として売り出されていた気がする。たとえばEvery Little Thingの持田香織なんかは、時代が違えばアイドル歌手だったのではないか。1990年代末にデビューした浜崎あゆみや倉木麻衣も、時代が違えばアイドル歌手として扱われていたのではないか。もしかしたらPUFFYや相川七瀬なんかも同様かもしれない。しかし、あの時代、彼女たちはみんな、「アーティスト」として等身大の姿を見せていた。とりわけ華原朋美という人は、その意味において、このうえなく1990年代的な「アーティスト」だった。華原こそは時代が違ったらアイドルだった人だ。小室哲哉にプロデュースされるまでの華原は、三浦彩香や遠峯ありさといった名前でアイドル活動をしていたが、だとすれば、必ずしも音楽でなにかを表現したいわけではなかった華原を「アーティスト」として要請したのは、小室哲哉以上に1990年代という時代にほかならなかった。

渋谷センター街、毎晩ナンパ待ち

 ここで考えたいのは、そんなアーティストとしての華原でないと歌えない言葉があった、ということだ。
 お仕着せのアイドルには歌えない内容が確実にあった。それは、言ってしまえば、同世代の女性の共感を誘うような等身大の歌詞である。もちろん、その歌詞を書いていたのは、華原ではなくプロデューサーの小室哲哉である。だから、男性である小室が同世代の女性の気持ちをどのくらい代弁しえていたのかはわからない。華原自身は「歌手にとってのリアルなエピソードを拾い、素敵な作品にした小室さんは、本当に素晴らしいプロデューサーだと思います」と振り返っているが(華原朋美『華原朋美を生きる。』)、小室と恋人関係にあった華原がアーティストとしてどれだけ自立していたか、という点は、たいへん疑問視されるところである。実質的には、華原は小室に囲い込まれていただけなのかもしれない。
 しかし重要なことは、1995年に登場した華原朋美が、現に「アーティスト」と名乗って女性や気持ちを歌っていたことである。あのとき、渋谷のセンター街をたくましく闊歩していたような女性の気持ちを。テレビやCD越しを通じて彼女を記号として消費していたわたしたちにとっては、その事実だけでじゅうぶんである
 当時のことを思い出してみる。『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象となった直後の1998年、庵野秀明の初めての実写作品となる『ラブ&ポップ』(村上龍による原作)は、援助交際をおこなおうとする女子高生を追ったものだった。友人たちと喫茶店でダベり、デパートで商品を眺め、知らない中年男とカラオケに行く姿は、それだけで当時の雰囲気を思い出させる。つたない歌声による「あの素晴らしい愛をもう一度」をバックに主要人物である4人の女子高生が渋谷川を歩き続けるエンディングは、屈指の名シーンである。

 あるいは、やはり1998年、1990年代の渋谷センター街を歌った曲に、pal@pop「空想X」というものがあった。

「センター街の交差点・人混み・信号変わって人間流れて/他人って無機質なんだかムカつく爆弾あったら一つ使っちゃう」という歌い出しが印象的なこの曲は、曲の合間に挿入される女子高生の会話や青白いトーンで渋谷の街を映したMVまで含め、いかにも1990年代後半の渋谷のイメージを描いている。当時の渋谷は、たしかにこのような刹那的で殺伐としたイメージとともにあった。
 そんななか、とりわけ印象深く思い出すのは、ECD「ECDのロンリーガール feat. K DUB SHINE」という1997年の曲である。「今日もセンター街/毎晩ナンパ待ち/ロクな奴いないのにこんな街」というリリックから始まるこの曲は、渋谷センター街に生きる少女のことを歌った日本語ラップの名曲だ。ヒップホップに夢中になったきっかけという個人的な思い入れもあって、元ネタであるマーヴィン・ゲイ「Sexual Healing」とともに忘れがたい曲だ。

 よく知られるように、この「ECDのロンリーガール」には下敷きになった曲がある。それは、松本隆・筒美京平コンビ作による1982年のアイドル歌謡、佐東由梨「ロンリー・ガール」である。そもそもこの曲自体、マーヴィン・ゲイ「Sexual Healing」を音楽的に参照したものであり、ECDが自らの曲に「Sexual Healing」をサンプリングしたのは、それを踏まえてのことである。

 ECDのこの曲は、のちに加藤ミリヤが「ディア ロンリーガール」としてカヴァー、2017年にはECD本人を迎えた「新約・ディア ロンリーガール」がリリースされることになる。2000年代後半に女性から大きな支持を得た加藤もまた、「今が楽しい渋谷センター街/だけどいつまで続くかわからない」(「ディア ロンリーガール」)と渋谷に生きる少女の刹那的な姿を歌っていた。

 このように1980年代のマイナーアイドル歌謡をオマージュした「ECDのロンリーガール」は、渋谷センター街に生きる少女を活写した曲として記憶され、歌い継がれている。なかでも客演として参加したKダブ・シャインのパートは、「自らビジネスにするSEX」と明確に女子高生の援助交際のことをラップしている。
「援助交際」という言葉が流行語にノミネートされた1996年、「人混みをすりぬける 大人の誘いが手を引く」というかたちで援助交際がおこなわれている風景が描写された華原の「I’m Proud」という曲もまた、そのような時代に生きる少女の歌としてあった。実際、援助交際について積極的に論じた、社会学者の宮台真司は、「華原の「I’m Proud」などは援助交際応援歌だといわれていたわけですし」と述べている(『音楽誌が書かない「Jポップ」批評2』)。
 現在からすると忘れがちかもしれないが、1990年代後半、渋谷は刹那的で殺伐とした場所としてイメージされており、「I’m Proud」もそのようなイメージとともにあった。「I’m Proud」について考えるために、まずはこのような感触を思い出しておきたい。

「I’m Proud」をめぐって

 ヒップホップやR&Bが台頭してきた1990年代後半、華原朋美が「I’m Proud」という言葉で渋谷に生きる少女のことを歌っていたことは興味深い。もっとも「I’m Proud」という曲が、音楽的にどこまでR&B的だと言いうるかは微妙なところだろう。しかし、この時期の小室哲哉が、それまでのユーロビートやレイヴの路線から脱却してBPMを落とそうとしており、そのときTLCをはじめとするR&BやThe Brand New HeaviesといったUKソウルを参照していたことは、本人も述べているとおりだ(『With t 小室哲哉音楽対談 vol.3』)。従来的なレイヴ色が色濃い小室サウンドの「keep yourself alive [more rock]」から「I BELIEVE」、そして「I’m Proud」へ、というBPM低下の流れは、小室側から見たとき、そのようなR&B的なものへの接近としてある。
 その意味では、華原のファーストアルバム『LOVE BRACE』に収録された「Living on…!」「Summer Visit」といった曲や、あるいは同時期の安室奈美恵「Don’t Wanna Cry」「Rainy Dance」といった曲のサウンドこそ、まさに1996年当時の小室が追求していた方向性にある。「I’m Proud」がヒットした時代は、そのようなR&Bが台頭してくる時代でもあった。
 重要なことは、そのような時代において「I’m Proud」 という言葉はどのように響いていたのか、ということだ。外山恒一・ヒット曲研究会編『ヒット曲を聴いてみた――すると社会が見えてきた』収録の座談会において、「I’m Proud」は次のように批判的に語られている。

「I’m Proud」なんて、明らかに小室のよく知ってるブラック・ミュージックの歌詞から持ってきてるんだろうけど、すごい横領もあったもんだなあと思うね。(マオ)

でも、たとえば「I’m Proud」ってのは、「ブラック・イズ・ビューティフル」って言葉に象徴されるような黒人の自尊心というか、黒人としての民族的な自覚とか、そういうのを喚起する運動――あるいは公民権運動の中で、貧しい黒人家庭で旦那に殴られて暮らしているような女の人とかに、「もしお金があったら何がしたい?」って訊いてって、そしたら「庭が欲しい」とか、そういう問答を繰り返していくうちに、「私が本当に欲しいのは、自分に誇りを持って自立して生きていけることなんだ」ということを気づかせていく運動だとか、そういうのを思い出す言葉なわけよ。ところが小室の「I’m Proud」の場合は、そうじゃない。「いい男みつければラッキー」みたいに、逆転して使われてるわけじゃん。(鹿島拾市)

外山恒一・ヒット曲研究会編『ヒット曲を聴いてみた――すると社会が見えてきた』

 重要な指摘である。活動家の集まりであるヒット曲研究会の面々は、「I’m Proud」という言葉に対して公民権運動の記憶を見出し、だからこそ、それを「男の人に愛されたい」程度の意味合いで使用することに対して批判的になる。そんなものは「横領」ではないか、と。
 実際、小室が公民権運動の文脈を知悉したうえで「I’m Proud」という言葉を引用しているとは思えない。ヒップホップやR&Bに注目していた当時の小室のこと、引用部のマオが言うように、「ブラックミュージックの歌詞」を表層的に拝借したのだろうと想像できる。それは簒奪と捉えられても仕方がない。現代の感覚からすればなおさら。では、ブラックミュージックの領域において「I’m Proud」という言葉は、どのようなものとしてあったのか。「I’m Proud」をめぐる文脈について、もう少し見てみよう。
 1968年、ジェームス・ブラウンは「Say it loud, I’m Black I’m Proud」というシングルをリリースした。1968年はマーティー・ルーサー・キング・Jrが暗殺された年でもある。キング牧師が暗殺された4月4日、ボストンでコンサートをおこなう予定だったブラウンは、コンサートを急遽生中継することによってボストンの暴動をおさめた。

 この出来事はブラックコミュニティにおけるブラウンの影響力の強さを示すものであり、キング牧師暗殺の数か月後にリリースされた「Say it loud, I’m Black I’m Proud」も、そのようなブラック・パワーの高まりとともに存在している曲として存在している(ネルソン・ジョージ『リズム&ブルースの死』)。

 このように「I’m Proud」とは、ジェームス・ブラウンの言葉として、そしてなにより公民権運動の言葉として、ソウルやファンクのファンにとって記憶されている。抑圧され、搾取され、歴史のなかで無きものとされてきたアフリカン・アメリカンが、その過酷な歴史のすえに「black」であることに劣等感を覚えてしまう。そんな劣等感を抱えたアフリカン・アメリカンに対して「誇りを持て」と呼びかける言葉こそ、「I’m Proud」にほかならなかった。
 この「I’m Proud」という言葉を日本語に翻訳した人物としては、「ECDのロンリーガール」で客演もしていた、ラッパーのKダブ・シャインが挙がる。Kダブ・シャインは、1997年の「ラストエンペラー」という曲で「自分が自分であることを誇る」とラップした。ライムスター「B-BOYイズム」でサンプリングされたこともあり、日本語ラップにおいては有名なパンチラインだ。
 この一節について論じているのは、批評家の韻踏み夫である。韻踏み夫は「自分が自分であることを誇る」の参照元を指摘したうえで、当時の「終わりなき日常」(宮台真司)的な状況と照らし合わせつつ、次のように述べる。

Kダブがここで企図したのは、政治的、社会的トピックの摂取と併せた「私」の「主体化」(小林秀雄「私小説論」)なのである。実際、このテーゼは「Proud To Be Black」(RUN-DMC)、あるいは「I’m Black & I’m Proud」(James Brown)などの、政治的スローガンの翻訳として編み出されたものにほかならない。そしてこのテーゼに関してさらにKダブ自身が、戦後の日米関係において「日本人には奴隷根性が染み付いてしまった」ことを問題視していたことを語っていることからも、その政治的意図はうかがえよう。

韻踏み夫「ライミング・ポリティクス試論――日本語ラップの〈誕生〉」『文藝』2019冬号

 ここで重要なことは、韻踏み夫が、「自分が自分であることを誇る」というKダブ・シャインの一節を小林秀雄的な「主体化」の問題――それは「社会化した私」をめぐる問題である――として捉え返していることだ。韻踏み夫はここで、Kダブ・シャインがそのマジョリティたる「自分」をナショナルな「自分」に回収してしまう限界を見すえつつも、「日本的風土」に対する「外部」(柄谷行人)を導入したことの政治的意義を一定認めている。
 韻踏み夫によるこのような指摘は、同じく「自分を誇る」ということを歌った華原の「主体化」をめぐる問題に目を向けさせる。なるほど華原が「I’m Proud」と歌うことは、さきの引用部のマオが言うように、たしかに「横領」的なのだろう。しかし、自分とは異なる者に対する共感と連帯は、そのような「横領」的なうしろめたさ抜きに考えられるものだろうか。「横領」に居直る態度は最悪だが、とはいえ、自らの「横領」を見ないふりして相対的に見やすい「横領」のみを批判するのもまた、避けたい振る舞いではある。だとすれば、見るべきは「横領」をめぐる悪質性と可能性の両面である。
「横領」めいた文脈のズラしこそが思わぬなにかを言いうるのであれば、そして、そのような一流のフェイクなセンスこそが小室哲哉という人の才能なのであれば、Kダブ・シャインによる「自分が自分であることを誇る」に一定の政治的意義が認められる程度には、華原の「I’m Proud」に対しても社会性を認めることもできるだろう。
 あの時代、あの瞬間、「アーティスト」としての華原の口から「I’m Proud」という言葉が発されたことについて考えたい。

「私」の自立をめぐる物語

「I’m Proud」は、次のような歌詞から始まる。

Lonly くじけそうな姿 窓に映して/あてもなく歩いた 人知れずため息つく
I’m Proud 壊れそうで 崩れそうな情熱を/つなぎとめる何か いつも捜し続けてた

 いかにもこの時期のJポップらしく具体性のない歌詞であり、曲中の「私」がどのような状況にあるのかはよくわからない。「街中で寝る場所なんてどこにもない」とは、家出をしたということなのか、あるいはもっとシビアな状況なのか。「私」が「あてもなく歩い」ている理由がわからない。しかし「私」が置かれた具体的な状況を探ることは、たいして重要ではないだろう。この曲の舞台が援助交際のおこなわれる「街」であることに注目したとき、ポイントになるのはむしろ、理由もわからず「あてもなく歩」く、その理由のなさや居場所のなさそれ自体である。
 1990年代当時、援助交際をする女子高生について積極的に発言していたのは社会学者の宮台真司だが、その宮台は「電話風俗」をおこなう女子高生について、「失われた自己イメージの確かさを取り戻そうとして、女の子はその世界(「偶発性としての都市」――引用者注)にますます没入し、「浮遊」の度合いを強めていく」と指摘する(『制服少女たちの選択』)。この宮台の指摘にならえば、「経験が増えていく/避けて通れなくなってた」と自身の売春経験をうかがわせる「私」が「捜し続けて」いるのは、「現実の手触り」「失われた自己イメージ」ということになる。だとすれば、いかにもJポップ的な具体性のない描写は、この文脈において、明確な理由も目的も持ち合わせずにひたすら「浮遊」を続ける「私」を的確に表現する言葉として捉え返すことができる。もっとも、当時の宮台はこのような「都市的現実」を生きる少女について「郊外において宙づりになり、都市においてこそ癒される」(傍点原文)と指摘しているが、「I’m Proud」の「私」は、そのような都市のありかたに「癒され」ているとは言いがたい。むしろそこでは、「さまよたって/愛すること誇れる誰かに/会えなさそうで会えそな気がしてたから生きてた」と、やや混乱気味に自己をめぐる不安の解消を希求する「私」の姿が描かれている。
 公民権運動由来の「I’m Proud」のスローガンは、この点において「横領」的に重ねられる。「私」は、「郊外化」に代表される社会の空洞化が進行するなか、喪失した自己を取り戻そうとするかのように「街中」を彷徨する。この新しい「都市的現実」に直面したとき、言わば「私」が「私」であることを誇れるようになることが、「I’m Proud」という曲の主題だ。それはまさに、新しい社会における「新しい自我の問題」(小林秀雄「私小説論」)である。このように考えると、華原の「I’m Proud」を「いい男みつければラッキー」(鹿島拾市)という曲として片づけるのは、やや辛辣にすぎる。ここには、同時代的状況のともなったもう少し切実な「私」の「主体化」の願いを見ることができる。
 そもそもこの曲に対しては、恋人による承認のみを読み取るべきなのだろうか。少しだけ分析してみよう。注目すべきは、さきに引用した冒頭部分において、「私」が自分の「くじけそうな姿」を「窓に映して」いることである。「あてもなく歩」きながら目にされるこの「窓」は、デパートかなにかのショーウインドウなのだろう。つまり、この曲は冒頭において、「私」はショップの「窓」に映った「あなた」でもある、という鏡写しの構造が示唆されているのだ。鏡に映した自分の姿を捉えることによって統一的な自己イメージがもたらされる、という精神分析の初歩的な見解を踏まえれば、ここに「I’m Proud」における「私」の「主体化」をめぐる物語が見えてくる。
 いくら「人混み」のなかで誘ってくる「大人」と関係を持っても、そんな「偶発」的な関係性を重ねたところで「私」の存在が安定になることはない。自分が自分であることを誇ることでこそ、「私」は個人として自立する。それはなにより、「窓」に映した「私」であるところの「あなた」が、自分自身を認めることである。この曲における「あなた」を「窓」の向こうにいる「私」として読み換えるとき、以下は「私」の自己肯定の瞬間を描いたものとして読むことができる。

I’m Proud いつからか 自分を誇れる様に/なってきたのはきっと/あなたに会えた夜から
こうして大人になる 夜も恐がらなくなる/街中で居る場所なんてひとつでいい/体中から愛があふれてゆく
声にならなくても 想いが時には伝わらなくても/笑顔も泣き顔もすべてみんな/かならずあなたに知ってもらうの I’m Proud

 ストリングスがいっそう強調される最後、「私」は「あなた」(=「私」自身)に認められることで「自分を誇れる」ようになる。加えて、「自分を誇れる」ようになった「私」は「夜も恐がらなくなる」。曲の前半、「街中で寝る場所なんてどこにもない」と語られるこの曲において、「夜」というものは自分の居場所がない時間として示されている。したがって、ラストにおいて「夜」を「恐がらなくなる」「私」は、自分が自分であることを誇るとともに自分の「居る場所」を見つけてもいる。ここで、やはり宮台が少女たちの「居場所のなさ」を問題にしたことを思い出しておいてもいいだろう。
 このように「I’m Proud」の物語は、そのラストにいたって、音楽的な盛り上がりとともに「自分を誇れる」ようになる結末を迎える。それは、「偶発性としての都市」という新しい「現実」を生きる「私」の自立の物語と言える。ショーウインドウに囲まれた消費空間を「あてもなく」さまよい、自身すらも商品として見られる「私」は、そんな自分が自分であることを誇れたとき、新しい時代における「新しい自我」を獲得する。たとえそれが、刹那的で脆弱な「自我」だったとしても。
 この「私」の主体化の物語は、宮台が援助交際をおこなう少女たちが生きる「都市的現実」を活写した程度には、1990年代を生きる少女たちの雰囲気を伝えている。旧来的な「戦後知識人」による「論壇的な物言い」(宮台)によっては与えることのできなかった「都市的現実」に生きる少女の言葉。「声にならなくても/想いが時には伝わらなくても」と歌われるときの、その脆くて弱々しい「声」や「想い」――。
 華原が発する「I’m Proud」は、そのような声ならぬ声や想いならぬ想いを抱えた少女に対して、「誇りを持て」と呼びかける言葉として響いていた。このような言葉に対して、とりわけ同時代の女性が背中を押されたことはゆえないことではない。

華原朋美の二面性

 たしかに「I’m Proud」という言葉は「横領」的に転用されているのかもしれない。しかし一方で、この無節操な引用によって、言葉そのものが抱える文脈や歴史性は思わぬかたちで喚起されもする。どんなにフェイクな代物に思えたとしても、華原の「I’m Proud」という言葉が、かつてジェームス・ブラウンがシャウトした言葉や同時期のKダブ・シャインのラップした言葉と遠くで共振しつつ存在することには注目する必要がある。
 もっとも、疑問や問題が残るのもたしかだ。まず単純な疑問として、華原の「I’m Proud」の歌詞を一篇の物語として読んだとき、当然のことながらと言うべきか、「私」の主体化の契機が直接的に書き込まれているわけではない。この曲に対しては、「私」が恋人の承認を求めるという依存的な側面を否定しきることも残念ながらできない。実際、作詞者の意図という水準で考えるならば、小室哲哉は恋人によって承認される恋愛物語をイメージしていただろう。そこに自分と華原の関係を重ねるように。
 だとすれば、「I’m Proud」を「I’m Proud」たらしめているのは、この二面性だと言うべきである。「I’m Proud」という曲は、自立の物語の側面と恋人依存の物語の側面の二側面を抱えている。
 そもそも「I’m Proud」という言葉自体、誇り高き女性の言葉であると同時に小室哲哉による「横領」の言葉にすぎなくもある。見るべきは、その引き裂かれるような二面性ではないか。この二面性は、華原朋美という存在における「アーティスト/アイドル」という二面性にも重なるだろう。というか、当時のことを振り返ると、華原は「アーティスト/アイドル」の二面性に引き裂かれた存在にほかならなかった。
 プロデューサーである小室哲哉にそのゆたかな「倍音」と「肺活量」を認められ、高い歌唱力を持った「アーティスト」として登場した華原は、同時に、アイドル好きの小室に気に入られた「アイドル」のひとりという側面も拭いがたくあった。基本的には自立した「アーティスト」として好き勝手に振る舞っている印象を抱いていたが、同時に、それ自体が「アイドル」としての演出のようにも思えた。自分を含め当時の視聴者はむしろ、その先行き不安な危うい二面性に魅かれたところもあった。
 そうであれば、華原が歌う「I’m Proud」に対する評価も二面的にならざるをえない。男性からの承認がなければもたらされないような誇りは、「I’m Proud」の名に値しない。それはヒット曲研究会の面々が言うように、あまりにも「横領」的である。そこにプロデューサーとしての小室と「アイドル」としての華原という構図が重なるのであれば、その悪質性はいっそう際立つ。
 実際、小室との恋人関係が解消されたのちの華原は、「睡眠薬や精神安定剤が手放せなくな」るほど不安定になり、家族のすすめで精神科に通うようになるにいたる(『華原朋美を生きる。』)。このような依存的な関係はごく単純な意味で自立とは言いがたいし、外から眺めれば、男性である小室が華原を都合よく扱っているようにすら見える。「I’m Proud」とは一方で、そのような流れのなかで歌われた言葉だ。
 しかしそれでも、小室が同時代のブラックミュージックから流用したであろう「I’m Proud」という言葉は、公民権運動の記憶を抱えている。その文脈を知悉していようがいまいが、そのような文脈のなかで小室はこの言葉を受け取っている。そして、そのような文脈を流用してしまっている。小室に一流のセンスがあるとすれば、その言葉を恋人の曲名に流用するような天性(天然)の大胆さやフェイク性においてである。
 小室によるフェイクな「横領」を文化盗用的な観点から批判することは可能だ。しかし、そのような批判とともに「I’m Proud」を恋人依存の曲に押し込めてしまうことは、この時代のこの曲にわずかながら抱えられていた、公民権運動由来の自立の文脈を失わせることになる。当時、「I’m Proud」という言葉によって、たしかに背中を押された人がいた。「アーティスト」たる華原に自立らしきものを受け取った人がいた。
「I’m Proud」のフェイク性に対する批判は、「都市的現実」を生きようとした当時の少女たちが華原に抱いた一瞬の共感を取りこぼす。あるいは、当時の僕が見ていた華原の「アーティスト」然としていた瞬間を取りこぼす。華原朋美という名で活動していた彼女の主体性を取りこぼす。それらの取りこぼしを認めてしまえば、渋谷という消費空間を遠目で見ていた当時の僕のリアリティもまた失われてしまいそうだ。そのリアリティがいかに広告的に作られたものだとしても、そのような「都市的現実」で生きていたことはたしかだ。
 言葉は思いどおりにならない。公民権運動のスローガンは思いもよらぬかたちで「横領」されるし、「横領」してきた言葉は思いもよらぬ記憶を抱えている。言葉を使用するとは、そのような思いどおりにならない代物を扱うことだと知るべきだ。言葉はおしなべて「横領」的な側面を持っている。言葉を自分のものとして完全に所有することはできない。誰かが誰かを完全に所有することができないように。
 このような事実が、作詞者である小室の意図をも裏切るように、「I’m Proud」における少女の自立の可能性を訴え続ける。いくら小室が恋人との関係を描こうとも、そこで使用される言葉は女性の自立を夢見ている。
 ただしそれは同時に、小室が自らの言葉に批判されうる、ということでもある。「After 10 Years」という副題が付された『制服少女たちの選択』の文庫版には「元援交少女座談会」が収録されている。その座談会において、 1990年代に援助交際をしていた小説家の大泉りかは、当時援助交際を擁護した宮台について次のように述べている。

もしも、宮台さんに間違いがあったとすれば、それは、宮台さん自身が、痛みを伴わずに「援交」に関わって、お金を得たことではないでしょうか。もちろん、私には計り知れない痛みを感じているかもしれません。けれど、それは当事者だった女の子からしてみたら小さなことなんだと思います。

「元援交少女座談会 大人になった制服少女たち」(宮台真司『制服少女たちの選択 After 10 Years』)

 この大泉の言葉は重く響く。たしかに、援助交際をおこなっていた少女たちに言葉を与え、社会的な議論の俎上に乗せた宮台には少なからぬ意義が認められる。しかし大泉が指摘するのは、他人について「横領」的に語るその解釈の言葉自体が「お金」を生んでしまっていたではないか、それは援助交際と同型の搾取的な構造ではないか、ということだ。その批判はさらに、援助交際の経験を題材にして小説を書く自分および座談会参加者にも向けられる。「援交してたって過去がある意味プラスになるのって、自分が売っていたことを売れる人だけじゃないですか」と。
 少女たちの「痛み」をともなわずして、ましてやアフリカン・アメリカンの社会的・歴史的な「痛み」をともなわずして、漂白された「I’m Proud」という言葉を用いて「お金」を稼いだ小室は、大泉による宮台への指摘と同じ搾取の構図を批判されるだろう。そしてその批判は、「I’m Proud」という言葉に自分の感情程度のものを重ね、「横領」的に共感する華原はじめ当時の少女にも向けられるだろう。それはもちろん、当時の僕自身にも当てはまる。この消費を通じた「横領」的な共感について、どのように考えたらいいだろう。
 なにかを消費すること自体がなにかしらの搾取に関わることになる。そうした資本主義社会のもと、公民権運動の記憶を抱えた「I’m Proud」という言葉が、その歴史的文脈を剥奪した商品としてわたしたちに届けられる。それは「横領」的なありように間違いない。しかし厄介なのは、そのように「横領」された言葉が自らの記憶とともに思わぬことを言いうる、ということである。言葉に抱えられた歴史と記憶が、「I’m Proud」という曲に対して少女の自立の可能性を示唆する。その自立という部分において、ほんの一瞬、1990年代の日本を生きていた少女はアフリカン・アメリカンの歴史と共振する。
 もちろん当然のことながら、それをもって社会的な立場もシビアさも異なる両者の連帯を言うことなどできないだろう。しかし一方で、スローガンがスローガンとして機能するのは言葉の表層的な使用を通じてである、ということもたしかだ。ここが微妙なポイントだ。
 文脈をズラされながらもなおしぶとく残り続ける言葉の形式性。「アフリカン・アメリカン」とか「マイノリティ」とかひと言で表現してみても、そんなことでひと括りにできるわけはない。各人は各人の固有性を抱えている。にもかかわらず、誰ひとり同じ経験をしていないというその各人の固有性は、言葉の表層の部分でかろうじてまとめあげられる。
 誰かに対する共感や連帯の背後には、どこか「横領」や搾取の感触がある。「I’m Proud」というR&Bになりきれなかった曲が示すのは、そんな共感や連帯の背後に存在する「横領」と搾取の感触である。あるいは、「横領」や搾取の背後に存在する共感と連帯の感触である。連帯したと思っては突き放され、にもかかわらずどこかで共感してもいて、しかし共感しきれるかと言えばそうとも言い切れないような――。華原の「I’m Proud」において誇るべき/誇られるべき「私」とは、そんな資本主義下で都合よく生きるような「私」である。異なる立場の者に対して共感や連帯を示すにためにこそ、まずはそのような「私」の姿を「窓」に映して認めておきたい。

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