都知事選とコミュニケーションの問題

・都知事選が終わりました。いろいろ分析がされていますが、僕も思ったことをいくつかリアルタイムで残しておこうと思います。
・まず、小池百合子当選という結果に驚きはなかったです。残念ながら予想通り大差で蓮舫が敗れてしまいました。小池の経歴詐称問題が盛り上がったら蓮舫にもチャンスがあるのかなと思っていましたが、盛り上がらなかったので、そうなると小池が負ける要素があまり思い浮かびませんでした。
・個人的には、蓮舫が迫る様子を見たかったので残念です。
・小池に関しては、コロナ禍における振る舞いと関東大震災時の朝鮮人虐殺に関する認識があまりにもひどいので、その点、支持していませんでした。引き続き、批判的にウォッチしていくほかない。他方、自分の周囲を眺めていると、この4月からの東京都の高校無償化がとても評判良かったです。世代的かつ職業上、この話題はよく聞いていました。こういう声を習慣的に聞いていると、小池の政策に一定の評価を与えられていることは想像できたし、実際、高校無償化は良かったと思っています。
・だからこそ、反対に無党派層が蓮舫に投票する動機は見出しにくい。
・立憲・共産勢で小池を食い止める戦略は理解はするし、投票行動としてはそれ以外選ぶべきものが見つからなかったので消極的に乗ったが、消極的だったのはたしかです。そもそもワンイシューでの共闘は、個人的には鳥越のときから懐疑的でした。先鋭的に映って広がりを持たない。
・結局、例によって、ネットで見る光景と実際に見知っている光景が違い過ぎる、といういつものことを痛感しています。
・石丸伸二について。立候補したときに話題になったので名前はちらほら目に入っていました。とはいえ、あまりよくわかっていなかったのですが、開票したら蓮舫より上だったので驚きました。
・この躍進についていろいろ分析がされています。石丸が若年層にどうやってアピールしたのか、その戦略とか全然わかっていないのですが(SNSを活用したとかなんとか)、それとは別に、個人的に不快に思いつつも興味深く見てしまったのは、ネットで話題になっているインタビュー受け答え動画の数々です。とくに、TBSラジオでのものと古市さんとのやりとりがよくタイムラインに上がってきます。
・興味深いと思ったのは、石丸の、わざと相手の言葉の意味する範囲を狭めて「え? なに言ってるんですか? どういうこと?」みたいに見下した感じに笑ってちぐはぐな雰囲気を作り出すコミュニケーション。相手を意図的にイラつかせるけど自分は別にそんな気はないです、みたいな態度。これらが中高生(というか中学生)の振る舞いとしてすごく見覚えがあるな、と思ったからです。
・中学生としても子どもっぽいと思える、その幼児性を洗練させるとああいう感じなのか、と思いました。
・このような振る舞いが、いま一部で「ひろゆき的」とか「論破的」とか言われているのでしょうけど、この子どもっぽい振る舞い自体は別に昔からあったと思うので、個人的には、それ自体が現代的だという印象はありません。いつの時代にもありうる「子ども」っぽい振る舞いだと思います。
・ここで言っている「子ども」の定義は「自分のことしか考えていない」ということです。逆に言えば、「大人になる」というのは「自分以外の人のことも考える」ということ。
・対話や会話は相手がいてこそのものなので、対話や会話においては「相手がどのようなことを言おうとしているか」ということに開かれておく必要があります。しかし石丸は、それを完全にシャットダウンして、自分の都合の範囲でしか言語運用をしないようなコミュニケーションをしていました。あくまで、相手の立場に寄らない。
・だから、石丸のインタビュー動画を観て思ったのは、かなりリアルに、文字通りの意味で「子どもじみたことをしているな」「子どもみたいな人だな」ということです。
・一般的に子どもじみた振る舞いというものは、だいたい成人(現在なら18歳)になるあたりまでには、年長者に一喝されたり友人にたしなめられたりして修正されるものでしょう。
・しかし最近は、そういう機会がどんどんなくなっているのではないか、という感触はあります。この点、現代的と言えば現代的なのかもしれません。
・このことに関しては、家庭においても教育現場においても(リベラルな気運のなかで?)問答無用に一喝することがしにくくなっているからなのではないか、という通俗的な印象があります。もちろん、別にやみくもに怒ればいいとは思いませんが。
・いずれにせよ、「相手の言葉の意味する範囲を狭める」という無垢と嘲笑の装いが、親や教員の言葉に対する対抗の手段として一定程度有効であることは、「子ども」は学んでいるような気がします。教員に対するこういう対抗はそれなりに誰もが考えたことがあるでしょう。相手をいかにイラつかせるか、ということ。
・したがって、インタビューでの石丸の振る舞いを指して「ハラスメント的」と言われていますが、それは逆で、むしろ対話の相手のほうを「ハラスメント」にもってくような小細工だという印象を受けています。相対的に弱い立場の側が強い立場の側に対峙しているようなメンタリティに見えます。
・いずれにせよ、近しい人が石丸に対して「ああいうの子どもっぽくてみっともないからやめろ」と言ってあげたらいいのに、みたいなことを思いました。近しくない人が同じことを言ったら、半笑いで「子どもっぽいってどういう意味で言っているんですか笑?」みたいなことになるのか。そうしたら「自分のことしか考えていないように見えますよ」と答えるだろうけど、そういった理屈では埒があかなくて、無限の自己正当化が続いていくだけなので(言葉を表層部分だけで運用すれば自己正当化など無限にできる)、やはりどこかの段階で、非合理的に「そういうのやめとけよ、みっともない」とピシャリと咎められる経験が意外と重要なのかな、と保守的なことを思います。
・僕は「一義牲の時代」ということをしばしば言っていますが(「一義性の時代」『ゲンロンβ』参照)、かつては「子ども」のものに過ぎなかった石丸的なコミュニケーションですが、ここ10年くらいはイデオロギーに関係なくよく見かけます。正直、リベラルや左翼の側にも多く見られます。
・むしろ若い世代からしたら、リベラル左派こそが自己中心的な「子ども」じみた態度に見えていて、石丸はそれに対して「みっともない」とピシャリと言っている人である、という構図に見えている可能性をけっこう感じます。
・イデオロギーの対立以上に、そもそもこの社会を覆っているコミュニケーションのありかた自体を問題化しないとダメだという気持ちがあります。『今日よりもマシな明日』『学校するからだ』も、基本的にはその水準の話をしているつもりです。
・今回の都知事選は、悪ふざけのような候補がたくさん出たことも話題でしたが、総じて「子ども」が目立った選挙だったと思います。近くにいる人が叱ってくださいよ、「やめろ、みっともない」って。あるいは、そういうことを言い合える関係性を築いてくださいよ。
・社会的・人間的な関係性が稀薄なところでは、「言葉の自動機械」と「法の奴隷」(法の言いなり。その裏表としての法を犯さなければなんでもいい)ばかりになる、ということは宮台真司がずっと指摘していることです。
・まずは「みっともない」「子どもっぽい」みたいなごく常識的な共通感覚を維持したいですね。思想的にはまったく面白くないけど、いまはそこから始めたい。中年の身としては、今回の都知事選における「子ども」の悪ふざけのほうこそよほど面白くないので。
・もっとも、このみっともなさへの反省は一部の左派にも適用されます。イデオロギーではなくコミュニケーションの問題なので。
・ちなみに言うと、当の「子ども」は、然るべきタイミングで、そういう一喝を求めている瞬間がある気がします。
・話が逸れましたが、都知事選をめぐるあれこれが社会における(言語)コミュニケーションの問題に見えた、という感想でした。

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