長崎の平和祈念式典とオリンピックをめぐってメモ

長崎の平和祈念式典をめぐって

・長崎の平和祈念式典をめぐる一連の動きが気になるのでメモ的に。
・ジュリア・ロングボトム駐日イギリス大使が長崎の平和式典不参加を表明。理由は、イスラエルが招待されていないこと(広島ではイスラエルも招待されていた)。

・これに次いで、ラーム・エマニュエル駐日アメリカ大使も式典欠席を表明。最終的に6ヶ国が不参加表明。

・ロシアは侵略戦争を起こしているがイスラエルは自衛・防衛である、だからイスラエルがロシアやベラルーシと同じ扱いをされることは不本意である、という西洋社会的な理屈。
・イスラエルを招待しなかった長崎市の立場はわからないところもあるものの(追記:池内恵は、長崎市は無自覚に「王様ははだかだ!」的なことを言った、と「想像」。篠田英朗は、長崎市長は「事情をよく把握したうえで判断をしている」と。)、長崎市は「イスラエルがガザに対しておこなっている虐殺行為を正当化できるものではない」ということをあらためて言うべきでしょう。
・もちろん、ロシア/ウクライナ戦争をどう考えるか、という観点も同時に持つ必要があるが、まだ整理できていない。
・いずれにせよ、絶対に日和らずに抗議するべきだと思う。イギリス・アメリカに乗らないべきだ。
・上記は基本的には理念的なこととしてそう思うが、一方で政治戦略的な観点からもそう思う。ここからが今回の関心ポイント。
・今回の件(というより、去年からのイスラエルによるガザ虐殺以降)は、西側諸国の振る舞いが「国際社会」的な理解からすらズレてきている感じがして、そこが気になるポイント。
・国連が正義の体現でないことはこれまでずっと指摘されてきたとおりで、そこまでは冷戦崩壊後から続く西洋中心主義批判の範疇。
・しかし、たとえそのような側面があったとしても、戦争を経た近代国家として「国際社会」と足並みを揃えなければいけない、という「現実主義的」(この「現実主義的」という態度をめぐって政治学者と人文系左派がしばしば対立する)な立場からアメリカやヨーロッパを中心とする「国際社会」に同調していた、という経緯が良くも悪くもある。イラク派兵にしても集団的自衛権にしても、基本的には「国際社会」的な立場を日本なりに体現するものとしてあったでしょう。
・その政治的な振る舞いには、普遍的な価値に向かう意志も含まれていたし、政治的な戦略やアイロニカルな態度も含まれていた。この混ざり合いのなかで、西洋社会を中心とした「国際社会」の秩序が目指されていた。
・しかし今回は、その「国際社会」的な立場と西側諸国の立場がズレている、と思える点が新しいフェーズに感じる。それは、日本の国際政治学者の立場が分かれていることからも感じる。
・したがって「西側なんて最初からそんなものではないか。なにをいまさら騒いでいるのか」的な高踏的な態度の西洋中心主義批判的な立場から発言している人は、冷静に見えるようで実際には的を外している。このような物言いはSNSでしばしば見かけるが、偽悪的で目立ちたい系に見える。(こういう高踏的かつ偽悪的でプライドも高そうで自意識も強そうな感じがいちばん嫌いです。左側でよく見かける。)
・それにしても、西側諸国におけるイスラエルおよびユダヤ人への態度はそれほど葛藤があり屈託があるものなのか。このあたりのリアリティは正直肌感覚ではまったくわからないが、だからこそ、変に同調する必要はないと思う。当事者ではない立場から毅然と。
・同時に被爆国という立場から毅然と。
・もっともアメリカにそれを求めるということは、日本も自らの侵略行為と向き合うことを意味する。

オリンピックをめぐって

・パリ五輪でもやはり、ロシアとベラルーシの参加は認められず(個人出場は認められている)、イスラエルの参加は認められている。
・近代オリンピックは「平和の祭典」であるから、「平和」をおびやかす国の参加は認められないというIOCの理屈。
・もう少し言うと、古代オリンピックは「エケケイリア(聖なる休戦)」として一時的な休戦としてあった。クーベルタンはこの理念を受け継ぐかたちで、近代オリンピックを「平和の祭典」と位置づけた。
・過去には、アメリカ、イギリスらが「平和」の名のもとに1936年ベルリン大会のボイコットをおこなった。ナチスドイツによるユダヤ人迫害は「平和」を脅かしていると考えたからだ(ナチスはむしろ、「反社会分子」であるユダヤ人の「浄化」を「平和」と見なした)。
・今回のパリ五輪も、「休戦」の理念に従わなかったことを根拠にロシアと同盟国のベラルーシの参加を禁じている。もちろん、イスラエルがおこなっている虐殺は自衛のためだから認められる、ということになる。
・とはいえ、これでは現状の敵対関係を反復しているだけではないか。
・「スポーツをしているあいだは一時的に休戦しよう」という古代オリンピック的な考えをもっとラディカルに押し進められないかと、いつも思う。
・東浩紀がしばしば「政治と無縁の領域を維持したほうがいい」と言っているが、おおいに共感する。
・身体運動を基本とするスポーツは、本来は「休戦」をもたらすものである。スポーツに限らず、音楽や文学も本来は「休戦」をもたらすものである。音楽や文学において政治的なメッセージが機能するのも、そのリズムやメロディが一時的に敵対関係や社会的関係をキャンセルして「休戦」状態を作るからこそ、その次の段階として言語的なメッセージを享受する態勢になる。
・音楽がそれなりに好きなら実感するじゃないですか(だから、音楽を敵対関係としてしか描けない『セッション』が音楽映画としてダメなわけですが)。(文学は、言葉が社会性をはらむ以上、音楽よりも難しいところがあると感じますが。)
・だから、周囲のなかではほとんど唯一「音楽に政治を持ち込むな」派なのだけど、これは説明がややこしいのであまり言わないようにしている。
・というか、文化側の人こそこのような芸術や芸能の機能に目を向けていない印象がある。
・オリンピックも平和祈念式典(はさすがに「政治と無縁」は難しいとも思いますがそれでも)も一時的な「休戦」としてあらゆる国家が並べば良いと、素朴には思っている。「平和」は「誰にとって」という問題がつきまとうので、誰にとってもの「休戦」という発想が重要だ。
・「平和」を強く望むからこそ「平和」に同調できない者に対して強い態度に出るという理屈は理解しているつもりです。理解したうえでなお「休戦」。それを実現するためにこそ、政治を持ち込まない領域が重要という理屈です。

追記

このニュースを見落としていました。イスラエル駐日大使が長崎を批判とのこと。

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