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続・『Jazz The New Chapter』書評――とっくに生まれている音楽

※本記事は、2014年4月10日に書かれたものです。


元アルバイト先の先輩である柳樂光隆さんが『Jazz The New Chapter』(シンコ―ミュージック)というムックを監修し、僕はエレキングで書評させていただきました。書評で書ききれなかったことを、ここに。

エレキングの書評は、これです。
http://www.ele-king.net/review/book/003725/

グラスパーは、もちろん現行のジャズに対して批評的に介入する存在だと思うのだが、僕はもう一方で、グラスパーに対して、ものすごく「わかってる感」を抱いたりもする。「グラスパー、わかってるねー!」と。グラスパーは、その、なんとも言えない感覚を共有している感じが頼もしい。同様に『Jazz The New Chapter』も、その、なんとも言えない感覚を前提にしているのが良い。本にも書いてあるが、グラスパーは、「Thelonius」とともに、コモンの「The Light」という曲をよく演奏するとのこと。その「The Light」は、ボビー・コールドウェル「Open Your Eyes」を元ネタにしている。僕自身、「The Light」を知ったのちにボビー・コールドウェルを聴いたクチなのだが、グラスパーの「Dillalude #2」にも「Open Your Eyes」は引用されているという。共有できる感覚というのはまさにこのことで、ある世代や集団においては、「Open Your Eyes」と言えば、流行おくれのAORではありえなく、コモンの曲で使われたアレに他ならないのだ。あるいは、モス・デフで言うなら、「Umi Says」に参加しているウェルドン・アーヴィンとは、忘れられた鍵盤奏者ではありえなく、なによりア・トライブ・コールド・クエストの引用元として存在しているのだ。DJとしての僕は、ウェルドン・アーヴィンの曲をクラブでプレイしたこともあるし、フロアで聴いたことだって何回もある。

だから、『Jazz The New Chapter』において「Umi Says」が名曲だというのは、そういう意味においてなのだ。『Jazz The New Chapter』は、従来のジャズ史とは違ったかたち――例えば、ヒップホップのサンプリングというかたち――で、共有されている感覚を丁寧に言語化している。このような、ある時期以降の感覚に明確に狙いを定めている点が、たいへん意義深いし、素晴らしい。しかも、特筆すべきことは、それが実証的になされているということだ。本書は、ジャンルを越えて共通するプレイヤーやプロデューサー、カヴァーやサンプリング、あるいはアマチュア時代の交流に至るまで、作品の聴き込みとクレジットの読み込みとインタヴューを駆使して、見えづらい糸を紡いでいく。仮説はインタヴューによって裏付けを得て、インタヴューはさらなる解釈を呼び起している。ディスクレヴューと評論的な長文記事とインタヴューの三位一体からなる音楽史の読み換え作業は、スリリングですらある。僕が柳樂さんの仕事に、ずっとフリーソウルを思い出していたのは、そういうまだ言語化されていない感覚を言語化しようとしている点にあった。いわば、ネクスト・フリーソウルとでも言うべき運動である。ボビー・コールドウェルとともにコモンが鳴り響くように、ルー・リード「ワイルドサイドを歩け」を聴けば、頭のなかでATCQが鳴り響くのだ! 83年生まれの僕は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドより先にヒップホップにハマっている。僕にとってルー・リードは、ロックではなくて、フリーソウルなのだ。Can I Kick It !!!!!!!?

でも、書評にも書いたように、そういうことはつねに起こっていたのだと思う。思い起こせば、5年ほどまえに友人のジャズ研の演奏を観に行ったとき、そのバンドのドラムがやけにヒップホップ的だと感じたことがある。具体的に言うと、スネアとシンバルの響かせなさと、詰まったスネアとバスドラのタイミングがブレイクビーツのようだと思ったのだ。終了後に話しかけてみると、案の定、クエスト・ラブやJ・ディラといった名前が出てきた。その後、グラスパーを知って腑に落ちたわけだが、とにかくそういう越境は身のまわりでとっくに起きていたのだ。聴き手はおそらく、軽やかに音楽を聴いているのだ。グラスパーは、レディオ・ヘッドの曲はジャズと相性が良い、と言うが、このような感覚に目を向けることで、例えば柳樂さんの言う「白人音楽のスピリチュアリティと新たなスタンダード」も見えてくる。この白人音楽としてのジャズの系譜について書いた文章は、とても読み応えがある。宛先は明確に既存のジャズ史観に向けられているが、もちろん他のジャンルも射程に入っている。新しい音楽が、既存の音楽史の変容を迫っている。

また、このような音楽のありかたを、インターネット以後という時代的な要因だけに還元してはいけない。もちろん、本にもあるように、インターネットの影響は大きいだろう。しかし、ハービー・ハンコックのような人が昔からいたように、こういうジャンル越境的な音楽はいつの時代にも生まれ得ると思う。音楽のジャンルというものがあったとして、それがジャンル内部だけにとどまるなんてことはありえないのだ。僕が、当然のことすぎてむしろ驚いてしまったのは、グラスパーもビヨンセもザ・ルーツも同時代の音楽だということである。いや、同時代の音楽というか、グラスパーとビヨンセとザ・ルーツのマーク・ケリーはみんな同じ高校の出身だというのだ! 驚いたが、ジブラと中原昌也だって同級生なんだし、もちろん、そういうことはあるに決まっている。ケニー・ギャレットとQティップが知り合ったのも、友人を介してのことだという。

つまり、こういうことだ。硬直した先入観にとらわれているあいだに、とっくに人と人は出会って音楽を作っているし、あるいはDJによって音楽はミックスされているし、はたまたジャズ研の学生のあいだでJ・ディラが話題にのぼっている。そのようにいろいろな交通のなかで、とっくに音楽は生まれているのだ。僕自身は、ジャンル意識をもつこと自体はとても重要なことだと思うけど、一方で、そのかたわらでとっくに動き始めている音楽があることを忘れてはいけない。自戒を込めて言うと、「The 6th Sense」や「Ms. Fat Booty」のみに耳を奪われているあいだに、とっくに新しい音楽は胎動していたのだ。そのような音楽が、既存のジャンルと格闘しつつ、新しい地平を切り拓いていくのかもしれない。『Jazz The New Chapter』が見せる「現代ジャズの地平」は、とてもとても広大である。

おまけで言うと、珍屋というレコード屋で柳樂さんと僕が働いていたときは、このような、ナチュラルにジャンル横断的な会話がよくなされていたように思う。現在、人前で書いたり話したりする機会が多いのはたまたま僕らだけど(だから、この書評、感慨深い!)、こういう、どうパッケージングしていいかわからないような会話を、みんなが仕事の合間や仕事後にしていた覚えがある。しかしそれは当然で、中古レコード屋には、ありとあらゆる買い取りが来て、ありとあらゆる趣向のお客さんが来るのだ。だから一方で、『Jazz The New Chapter』という本は、すぐれてレコード屋さん的な本かな、とも思うけど、これは僕のレコ屋ロマンが強すぎるゆえの感じかたかもしれず、実際のところはわからないです。

反時代的に取られるかもしれないけど、行くと良いと思います。データベース化されていない中古レコード屋に。とっくに人と人が出会っている。

珍屋→http://www10.ocn.ne.jp/~mezurasi/


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