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アンサー・トーカー

今から13年前の3月5日に1つの日記を書いた。
その日記にはさらに13年前・・・
つまり今から26年前の1995年の事を書いていた。

その時の日記を改めてここにあげたいと思う。


◇◇◇ ◇◇◇


今から13年前、阪神淡路大震災のあった年の
1995年3月5日に母が乳がんで亡くなりました。


自分が中学三年生の頃に母から自分が乳がんであると告げられ、家族一丸となって約5年近くに渡って戦ったけど勝てなかった。


がんは手術して5年以内に再発しなければ完治している可能性が高いのだが、手術後まもなく再発が確認されてしまった。

それからは放射線治療や本格的な抗がん剤の投与、横浜の有名な先生の診察を受けに行ったり、プロポリスの薬を飲むとか必死だった。

しまいには祈祷師とかにまで頼ったりして家族の名前の漢字を変えた方がいいとかなんとか。

結局、勝てなかったわけだけど。


入退院を繰り返しながら死ぬ1年前まで仕事をしていた。
痛みに耐えながら働く姿をみていたから、このまま生きていけるんじゃないか?と思うこともあった。
死の恐怖と戦いながら仕事をすることが俺にできるんだろうか?・・


闘病中の出来事でいくつか自分の中に
後悔というか・・・心に残っているものがある。


ある日、母に「大事な話がある」と言われ、家の外で
2人で歩きながら話したこと。

実は俺を産んだ後にしばらくして身ごもった子供を生活が苦しくなることを懸念して堕ろしたことがあり、そのせいで自分が今、こんな目に遭っているんじゃないかと。

「・・・そんなの、関係ねーよ。気にするな・・」
というようなことを俺は言ったけど
今、思うとうまく伝わった気がしない。
そんなことを気にかけている母を俺は(母)らしいな・・と思った。

だいたい結局3人も産んでるんだから、そんなこといいじゃねぇかよ。


また、ある時は家の2階で
「もうツライから、ここから飛び降りて死にたい・・・」と言われた。
(ここから飛び降りてもたぶん死なないだろ・・・)と思ったが
かける言葉が見つからなかった。


きっと治るよ!とか、そんな言葉はかけられるわけがない。
胸は放射線治療で焦げ、膿と体液が出てくる。
がん細胞の浸潤で背中まで痛くなり、
さすって欲しいと言われることもしょっちゅうだった。

頭も抗がん剤で髪が抜け、かつらをつけ、
副作用で頭痛や吐き気に常に苦しんでいる。

いっそ楽になって欲しい・・・と思うこともあった。
でも何が何でも生きて欲しいという気持ちもあった。
どんな言葉をかけたらよかったのか答えは未だに見つからない。


母が亡くなる約1ヶ月前、1月の末に母の母、つまり俺にとっての祖母が老衰で亡くなった。

祖父はさらに7年前に亡くなっていたから
母は病院のベッドで
「親より先に死ぬ不幸をしなくて済んだ」
と寂しそうに笑っていた。

俺は 笑えないセリフだよ と思った。
でも、それが母にとって1つの納得であり、
とても大事なことなんだと俺の記憶に残った。


母の死に目には立ち会えなかった。
いつ亡くなるとか、わからなかった上に
自分も専門学校とバイトで必死だったから。

朝の5時に亡くなったことを聞いた。
病院にかけつけて泣きながら、もっと色々話せばよかったと思った。
俺が男だったから、女だったらもっと話せたんだろうなとか・・
家の手伝いもロクにしなかったから負担をかけたんだとか・・
とにかく感謝の気持ちを伝えきれていない気がした。


お葬式の前に病院で目の角膜を取った。
自分の死を受け入れて角膜のドナー登録をしていたから。
目をまるごと持っていくから、何か詰め物をして、うまく目を閉じさせて棺桶に入れられていた。

ドナー登録か・・・俺だったら、そこまで冷静に考えられるかな・・

お葬式で火葬にされた母の骨はボロボロのスカスカだった。
抗がん剤のせいだそうだ。
最後まで戦ったんだなと実感し、その骨に触れながらまた泣いた。

うちの母は強かったなと俺は思う。


◇◇◇ ◇◇◇


13年ぶりに改めて書いて読んでみた。

母が生きた年より長く生きることができた。

見つからないと思っていた答え。

今は答えの1つが見つかった。

それは・・・


「言葉をつたえること」


「かける言葉が見つからない・・」じゃない。

どんな思いでもいい。

言葉はかけなきゃいけなかった。

そして、かけられた言葉には一緒になって共感するべきだった。

今なら、もっと言葉をかけることができる気がする。

10代の俺にはできなかった。

それは恥ずかしいとかじゃあなくって
思いつかなかった。

言葉を待っていたよね。

ごめんね。お母さん。


◇◇◇


お墓は石材会社で働いていたオヤジと一緒に2人で設置した。

2トントラックに墓石を積んで、墓場まで運んで積み上げた。


「寂心」


刻まれた言葉はオヤジが選んだもの。

その石材会社は母が自分で見つけて就職し、経理として働いていた。

オヤジは母の紹介で、その会社に就職した。


生前、母に聞いたことがある。

「なんで、同じ会社に誘ったの?」



「あの人は前の会社には向いてなかったのよ」

と少し笑いながら答えてくれた。


少しばかり動揺を覚えながら、

「ふーん、そうなんや」

と答えた。


それ以上は聞かなかったけど
なんとなくいいなと思った。


終わり


#自分にとって大切なこと #感謝 #答え合わせ

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