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やりたいことがなかった、あの頃の私へ

やりたいことがある人とない人では、ある人の方が生きやすい世の中であると、日々痛感します。

高校や大学の進学先、就職先において志願理由は大切です。自分の何ならかの想いが進路や方向を決めるきっかけになっていることに自分では気づいていても、いざそれを言葉にしたり、書くことはわたしにとって苦手なことでした。

そんな時に出会ったのが、『やりたいことなんかないけど、しあわせでいたい人の話』という記事でした。

記事の中では、世の中には、
「やりたいこと」タイプのにんげんと
「ありたいすがた」タイプのにんげんがいるんじゃないか?と話されています。

「やりたいこと」タイプは、夢や目標に対して「ちかづいている感」が幸せになる一方で、「ありたいすがた」タイプとは、じぶんの幸せ基準に対して「みたされている度」が幸せになります。

わたしは、計画も進捗も挫折もない「ありたいすがた」タイプの人間だと考えています。高校生の時は部活動をしたり、テストで友達と順位を競い合ったり、放課後にふざけたりする時間が大好きで、3年生になっても特になりたいことがなく、進路もなかなか決まらずに迷っていました。

そんな「ありたいすがた」タイプの人に向けて、記事の中ではこう述べられています。

ありたいひとは、「どうなったら自分が幸せか」を定義できれば、「やりたいこと」を定義することだって、できる。

やりたいひとたちの「目標」とは、ありたいひとたちにとっては「ツール」であり、自分がしあわせになって、それがずっと続いていくための「なにか(ツール)」を「目標」という言葉に置き換えれば、ありたいひとたちであるぼくらは、「ありたい思考」と「やりたい思考」のあいだを、自由に飛び回ることができるはずです。

そのために、じぶんの幸せの基準とは何かに気づけなくてはなりません。「あなたの『ありたい』姿はなんですか?」

この言葉を信じて
「そもそも、どういう状態にじぶんは幸せを感じるのか?」
「その状態において、“何の要素”が幸せを満たしてくれてるのか?」
を、自分の思い出や経験から深堀りして考えてみました。


わたしは、安心を感じたとき、同時に幸せを感じていました。場所やその場所にいるひとやものから生み出される空気感や環境に対して、自分らしくいられるか(自分を表現できるか)直感的に判断して、安心感を得ることで自分の幸せを満たしていたように思います。

わたしの幸せの基準は、『安心』です。

そして、わたしにとっての『安心』とは、
生き方や価値観、考え方なども含めて、自分を認めてもらえること、自分を表現できることを指します。

だからこそ、相手の生き方や考え方を否定するのではなく『自分の意見を持ちつつ、相手を肯定できるひと』になりたい。

それが、わたしのありたい姿です。


では、その幸せは何をやっていると満たされるのか。どんな活動が自分のありたい姿と合致するのか。

そういったことからやりたいことを見つけようとした場合、「私のやりたいことは、いま自分が抱いている地域社会に対する問題意識と繋がらないといけない気がする。」と考えるようになりました。

けれど、やりたいことが分からなかった私にとって、いざ進学や就職するとなった際に志願理由に書いていた内容は、”①問題意識→①をもとに無理やりつなげて書いた自分のやりたいこと”でした。面接で理由について突っ込まれても、自信を持って答えられるはずはありません。受かっても、すごくモヤモヤした罪悪感がありました。

そんな時に、わたしはもう一つの記事と出会いました。

みんな、みんな「問題意識&カリソメやりたいこと」セットの方にばかり夢中になって、問題意識から出てきた「カリソメやりたいこと」を、自分のやりたいことだと信じて生きているように見える。

「やりたいこと」なんてそうそう簡単に出てこない。だからこそ、自分自身を納得させることができる、面接などで他の人に説明がしやすい”問題意識”に頼ってしまうのではないか。

この言葉に、すごくハッとさせられました。

問題意識ばかりにとらわれて、自分のやりたいことどころか、それを見つけることすら困難な状況に陥っていた自分に気づかせてくれたこの言葉は、今でも印象深く残っています。


この記事では、最後にこう述べています。

問題意識はその人が、その領域にアンテナを張ってたっていうことの証でもあるもの。僕が言いたいのは、問題意識からやりたいことを安易に決めちゃだめだよ、ってこと。「真・やりたいこと」が先にあって、それをどうやって自分の問題意識に落とし込んでいくか。この順番が大事なんだろうなあ、という気がする。

この言葉をきっかけに、まず、分野に限らず自分が今の時点で興味本位・あるいは直感でやりたいと思ったことにどんどん挑戦してみようと思いました。

その際、わたしの幸せの基準、ありたい姿の考えを忘れずに、「真・やりたいこと」に出会うことを目的に毎日を過ごしました。


高校卒業から4年後、わたしはそれをやっと、見つけることができました。

きっかけは、興味本位で入った職場での出会いでした。

自分の学生時代と同じように進路や家族関係、性に悩む若者との出会い、あるいは社会に残る女性差別や性別による偏見の押し付けといった現状を目の当たりにしてきました。そして、学生や同年代の若者、社会で活躍する女性たちと話をする中である気づきがありました。

わたしにとっての幸せは『安心』であり、自分を認めてもらえる、自分を表現できることです。若者や女性に対して支援を行うことは、彼らが抱く生きづらさを解消し、彼らが安心し、なおかつ自分の人生を歩むことができる環境をつくることにもつながるかもしれません。

彼らへの支援が自分の幸せや人生にも大きくに関係すると気づいたと同時に、
らしさのしがらみから解放されるくらい、自分に嘘がない暮らしをできる社会にしたいと思うようになりました。

自分に嘘をつかないことは、私にとってもすごく難しいことです。嘘でないものもあるけど、嘘の場合にそれが嘘であったと気づくのが、何ヶ月か後だから。
周りに期待させておいて、突然縁を切るようになる。そんなことが嫌で、嘘に気づいても、自己防衛から、ズルズルと微妙な関係性が続いて逃げられなくなる。

社会がもっと嘘に適応であったらいいのに。
嘘をつくのがしんどいって、誰かが
気づかせてくれる社会がほしい。
どうしてもつかないといかない嘘をついても、、泣ける場所がある社会がほしい。

不安なことを不安だと、悲しいことを悲しいと、嫌なものは嫌だと口に出せたらいいのに。

だからこそ、私はそんな社会を作れるようなひとになりたい。あるいは、そのために仕事をしたい。どんなに小さなことでもいい。お互いの状況をよりよくするために、自分には何ができるか、自分にしかできない支援をしたいと思うようになりました。

最後に、
記事に記載されている、以下の2つの質問を紹介します。

・あなたが感じている問題意識を具体的に行動に移すとすれば、一体なにをすることになるのか。それは、自分がやりたいことなのか。

・問題意識を取り払ったとき、自分がやりたいこと、自分がやって楽しいことはなにか。

この2つの質問は、わたしにとっての人生の物差しのような言葉です。

これがやりたい、けどその選択に少し迷いがある(自信がない)。そういった場合に、自分が本当にやりたいことか、この質問をして自問自答する癖をつけるようにしています。



最後に

やりたいことがあった方が、人生はうまくいくかもしれません。

けれど、わたしはやりたいことがなかったからこそ歩める人生を、自分なりに精一杯楽しんできました。

その結果、やりたいことと偶然出会うことが出来ました。


『やりたいことが見つからなくても大丈夫。
 人間おもってるよりなんとかなるもん。』


その言葉を信じて、いまの自分ができることを精一杯楽しんで。

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