意味があるようで意味がない「言葉」を考える - 『プラスチックワード』を読んで -


「イノベーション」はいつも疑問の始まり

「イノベーションを起こす」。壮大な野望を掲げた起業家たちが口にする言葉に空虚感を抱くことがよくある。イノベーションとかできっこないという否定批判を言いたいわけではない。「イノベーション」って具体的に何?この人は「何がどう変わる状態のことをイノベーションと言ってるのだろうか?と純粋に疑問に思ってしまう。


プライドの高さなのか、知的好奇心の影響なのか、僕自身、人の言葉を単語レベルで批判的に捉える性分があるから、余計に「イノベーションってどういう意味で使ってんねん」とツッコミを入れたくなる。仕事の打ち合わせの席であれば「それってどーゆー意味なんですか?」とそれとなく聞いて終わらせる。なんだけれども、今日はあえて「意味ありそうで意味のない言葉」にメスを入れ、その中身を考えてみたい。


イノベーションは言わずと知れつつある経済学者ヨーゼフシュンペーターが提唱した概念。言語はノイエコンビナチヨン。(原語)で書くのがめんどいのでカタカナで勘弁)日本語訳で「新結合」を表す言葉が語源のよう。新商品、新生産手法、新販路、新資源、新組織の5つを念頭にシュンペータは定義したみたいだけど、一般社会で使われている「イノベーション」と言葉の意味、パッと見この5つにかっちり当てはまることはないな、って思うし、「なんか新しいもの生み出すときに使われる言葉」程度で受け止めるのがせいぜいなんじゃないか。


「イノベーション」以外にも、カフェで熱心に話す中年男性の会話やTwitterの発言、ネットの記事のいたるところに「あれ、この言葉の意味ってなに?どういう意味で使われてるの」って思うような言葉がたくさん溢れている。改革、戦略、アート、ロジカルシンキング… いやもう本当に沢山ある。そんな言葉に触れるのも「もうたくさん」だ、飽き飽きとする。そう思ってるのはきっと僕だけじゃないと信じたい。

世界に漂う「言葉のプラスチック」

果たしてそんな言葉たちに疑問を思ったのは僕が最初ではなかった。
「意味ありそうで意味がない」。そんな言葉に「プラスチックワード」という造語をあてがった、ペルグゼンは僕よりはるかに鋭く、深く、「言葉の空虚さ」に対して批判を投げかけている。


現代社会のいたるところに偏在するプラスチックという物質。いつでもどこでもあなたの隣にプラスチック。半径5m以内にある物の中にプラスチックが使われていない商品はない。何にでも化けてどこにでも潜む、プラスチックの変幻自在なさまに擬えて「意味あるようで意味がない=変幻自在で人の解釈次第」な言葉を「プラスチックワード」と名付けたそうだ。

「プラスチック・ワード」とは粋な名付けをしたなーと思う。プラスチックの語源はギリシャ神話のプロメテウス。思いつきで地上に火をもたらしたり、変幻自在な姿を変えたり、またある時は文明開花やメタモルフォーゼのメタファーとしてよく使われる神は、現代では「プラスチック」という物質に名を変え形を変え生き続けている。

プロメテウスの過失


リドリー・スコットが映画『エイリアン』シリーズの前日譚を描いた映画の題名も『プロメテウス』だったな。H・R・ギーガーが世に送り出した、あの性的かつ妖怪的なフォルムを持ったエイリアン。シリーズを通して、グロテスクさと登場人物が典型的な死亡フラグを立てることばかりがやたらと目に付くB級映画っぽさ残る名作だ。


気持ちの悪いことこの上のないエイリアン。生き物に寄生しないと生まれないという設定で、元はめちゃくちゃちっさい微生物。生き物 寄生して変幻自在に進化する様に、まさしくギリシャ神話のプロメテウスが象徴されていると思う。

神話だととりに臓物を突っつかれる役割だが、映画だと人間の臓物から生まれ、人間の肉を食べる側。エイリアンの母星を探索する船の名前が「プロメテウス」で、映画のタイトルは船の名前から取られているのかーと思う一方で、神話に被せてエイリアンのオリジン(原型)を神話に紐付けた脚本家の腕はさすがだと感じた。


雑談が過ぎたけど、プラスチックといえばプロメテウス、プロメテウスといえばエイリアンという連想が瞬時に働くため、プラスチックという言葉を聞くたびに嫌なイメージしか思い浮かばない。現実のプラスチックという物質はイルカやカメが海に漂うそれを食べて、窒息死しちゃう、胃から出てきたのはプラスチック、なんて環境破壊系のニュースを見かけるご時世になったもんだから、銃で撃てば死ぬ英語のプロメテウス(エイリアン)よりも、現実の無機質で死なないプロメテウス(プラスチック)の方が性質が悪いと思うのは僕だけだろうか。

言葉でお腹いっぱいの僕たち


「プラスチックワード」の方はというと、食べすぎて窒息するばかりか、食べすぎると「んん?今何か食べた?」とばかり空腹感を与えてくれる言葉ばかりだ。

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ぺルグゼンによるリストを眺めてみると、確かに意味あるようで意味がない言葉だなーと思うし、これらの言葉ばかり聞いていると意味のない会話ばかりでうんざりだし、もっと意味ある会話しようよって空腹感を抱いてしまうこともしばしば。確かに「意味があるようで意味がない」言葉ばかり。なんだけど、1つ1つの単語にはしっかりと意味がある。それにはペルグゼンも同意見。まぁ彼自身が問題提起したのはその使われ方。つまり意味論的でも、構造論的でもなく、プラスチックワードの語用論を問い直す必要性がある、とのことだ。知らんけど。

興味の裏にはいつもイリイチがいる


「プラ スチック・ワード」という強烈なコンセプトに惹きつけられすぎて、言葉の意味や位置づけの紹介に終始ししちゃったけれど、時代や分脈によって変えるプラスチックワードを分析することで、現代がどのような時代なのか、プラスチックワードは誰が生産するのか?についてペルグゼンは本の中で話したかったようだ。本の後半戦の要旨をささっと紹介すると、スペシャリスト=専門家こそ、プラスチックワードの生産元であるとのことだった。今日ものある人は原著をあたって欲しい。


ただ個人的には後半戦の議論はどこかで聞いた話の焼き直しだったので、あまり興味はそそられなかった。で、どこかで聞いた話と思ってしまうのも当然で、ペルグゼンが「プラスチック・ワード」という言葉を研究しようと思った背景には、イバンイリイチの後押しがあったからだ。イリイチといえば、西山和馬を形成する3つのC、「Conviviality」「 Curiosity」「Compassion 」のうちの1つだ。



社会哲学者イリイチは「コンヴィヴィアリティ」「ジェンダー」「ヴァナキュラー」など、言葉に新しい意味を加えて世に解き放ったワールドチェンジャーならぬ、ワードチェンジャーの側面があるから、ペルグゼンにプラスチックワードについて書くように勧めたことは個人的に納得のいく研究動機だ。


イリイチ自身もペルグゼンに進めた歴史を系譜的に辿る研究手法で『ABC』という言葉に関する本を書いているが、中世キリストにまで遡りすぎ、かつ主張が散漫で『脱学校の社会』『コンヴィヴィアリティのための道具』を書いた頃の思考の鋭さはないため、言葉に対する研究としてはペルグゼンの方が圧倒的に面白かった。一方でペルグゼンが優れているのはコンセプティングのみで、専門家がプラスチックワードを生み出す背景や論理、具体的な事例などはほぼイリイチの議論そのまんまだったため、イリイチの影響受けてるなー程度にしか思わなかった。その点『コンヴィヴィアティのための道具』と合わせて読むと、イリイチの現代社会批判を言語にまで拡張したペルグゼンの視座が理解できて面白いと思う。

『プラスチック・ワード』を読むなら...


意味があるようでいて意味がない。されど、社会全体に浸透しているし、いたるところで使われていて、その言葉を使えば、なんとなーくコミュニケーションが通ってしまう言葉。そんな言葉を「プラスチック・ワード」というコンセプトを通して見てみると、日常の見え方はググッと変わってくる、はず。言語に関する本であれば、金谷武洋の『日本語に主語はいらない』ハヤカワの『思考と行動における言語』、鍋島弘治郎の『メタファーと身体性』保坂和志の『言葉の外へ』を読んだ時はいつも使っている言葉の見え方ならぬ、感じ方が違って興奮した気がする。

1日中使ってる割には、話題にされることの少ない「言葉」をテーマにした本は世界や社会をみる目を一新してくれる。哲学や言語学、文学、詩学、一見すると何の役に立つのかよくわからないと思われている分野の本こそ、刺激に満ち溢れている。

もっともそこに書かれている言葉は「プラスチック・ワード」の塊かもしれないけれども。

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