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京都太秦にもある「大避神社」は秦河勝の最後の地「生島樹林」は禁足地で墓【播州シリーズ】【播磨シリーズ】【赤穂シリーズ】

聖徳太子のパトロンで京都太秦広隆寺を創設した秦河勝が祀られている。太子没後は蘇我入鹿の圧迫を受け、京からこの赤穂に逃げたとされ、広隆寺近隣の大酒神社と対!!京都、神社、神道のTV番組で出演する東儀秀樹氏は自ら秦氏の子孫と言い、能楽の祖ともいわれている。そして、少し頑張ると斑鳩町があり斑鳩寺がある・・。聖徳太子=秦河勝説って・・・

お札いただきました!疫病退散ゆかりの神社でもある!

では、京都の秦氏ゆかりの神社仏閣を紹介して、参拝記録になります。

広隆寺
聖徳太子から弥勒菩薩を譲り受け、京都太秦の広隆寺に安置した。今でも聖徳太子像が安置され、天皇即位時の服が着せられている。年1回の公開!!

京都広隆寺の近くの「大酒神社」
 始皇帝を祀っているので、秦氏は始皇帝の末裔と言われている。また、始皇帝はユダヤ系と言われており、この神社は大闢神社と書いた。「だいびゃく」、つまりダビデのことである。なんと大避神社は古代キリスト教の礼拝堂だった!?とか、ファンタジーな神社。蚕ノ社も秦氏=ユダヤでは?とする理由にする人もいますね。

変更履歴
2022/12/10 初版


▼HP なし

▼アクセス

兵庫県赤穂市坂越1299

▼祭神

秦河勝

▼見どころ

 聖徳太子のパトロンで京都太秦広隆寺を創設した秦河勝が祀られている。聖徳太子に肩入れしすぎて、太子没後は蘇我入鹿の圧迫を受け、京からこの赤穂に逃げたとか。
 秦氏は、朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団とされる。秦河勝は秦氏の族長的人物として聖徳太子の元で活躍した人物である。広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って広隆寺境内から分散し遷座したものという。

 海近くの無料駐車場に車をとめて、いざ参拝!!

▽大避神社



 門をくぐると「金剛力士像」が・・神仏習合ですね。宮司曰く、明治の神仏分離まではここと「妙見寺」は1体だったらしく、明治で神道を選んだ。そして、妙見寺の末裔が宮司をしている時代もなった。まあ~1体だったので、不思議じゃないな。

12の数のミステリー
・拝殿へ向う階段は12段
・境内の井戸は12本の石柱で作られている
・神社の初穂料はその昔12銅で、今も12の倍数が収められている
・神社の社家も12家
・祭りの日程も旧暦の9月12日で、新暦の10月12日
・祭りの祭礼船も12隻
・拝殿の天井絵は12×8枚
・坂越を愛する哲学者・梅原猛氏の石碑を囲む石も12個

 内陣の天井絵が寺になっている木が・・・。

 回廊になっており、左の摂社・末社に向かいます。その後に左側の摂社・末社です。

→回廊左、摂社・末社

 回廊左の突き当り左に社があり、右に行くと奥宮などになります。


→回廊右、秦氏の末裔などの奉納

回廊左から右へ。拝殿から参道を振り返る。


 神社や神道の番組を見ていると東儀秀樹氏が出ていることがある。本人曰く秦氏の子孫で、能楽の祖ともいわれている。


→新宮

 新宮右側からさらに上ると「」があります。今回は大雨だったのでやめました。

→参拝終了

 最後に、イスラエルの人々が出発したのが「アコー」という港町だそうで、ここは赤穂はたまたま??

▽生島樹林

 大避神社正面の海上に浮かぶ生島には「秦河勝の墓」があり神域のため禁則地となっている。伝承では、弓月国から持ち帰ったという胡王面があり、智天使とされる像が彫られているとか。この胡王面は、最古の雅楽の面として伝えられているそうな。

 後述する宮司の話ではナニワからここに船で流れ着いたとする。

▽生島で人間国宝と宮司が語る

▼旅行記

▼セットで行くところ



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