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【奈良】大和神社と戦艦大和/長岳寺-運慶快慶のはじまりと日本最古の玉眼仏像-

 長岳寺は運慶・快慶のオハコになる日本最古の玉眼の仏像を安置している。ポツンとある寺だが古社・大和神社の神宮寺である。
 と言っても大和神社?という方が多いと思うのだが、戦艦大和の名称は大和神社から来ており、参道の長さと戦艦大和の長さは一致しているとか。天皇はアマテラスと日本大国魂大神を祀るがパワーがありすぎて分けた古社!この神社との係わりを知っている人は少なく、この神社はマイナーであると認識している。

 春のまつり「ちゃんちゃん祭」では大和神社と長岳寺を古代の服で練り歩く。京都や山口にある「時代祭り」ですね。

変更履歴
2023/03/05 大和神社更新
2021/08/09 初版


▼HP

▼アクセス

大和神社:奈良県天理市新泉町306
長岳寺 :天理市柳本町508

▼祭神と本尊

▽大和神社祭神
 日本大国魂大神(やまとおおくにたま)(中央)
八千戈大神(やちほこのおおかみ)  (向右)
御年大神(みとしのおおかみ)    (向左)
▽長岳寺
阿弥陀如来三尊@重文

▼見どころ

▽大和神社

  • 太平洋戦争当時、世界最大の戦艦「戦艦大和」ゆかりの社

  • 『日本書紀』より、主祭神「日本大国魂大神(ヤマトオオクニタマノオオカミ)」は皇祖神・天照大神とともに宮中に祀られていた

  • 崇神天皇は「市磯邑」に遷座させる

  • 「大和神社」と書いて「おおやまとじんじゃ」と読むのは主祭神から来ている

  • 伊勢神宮のアマテラスに次ぐ大神として、古くより朝廷から篤く崇敬された

  • 本殿は3つの社から成り、それぞれ「日本大国魂大神」、オオクニヌシ別名「八千戈大神(ヤチホコノオオカミ)」、スサノオの息子「御年大神(ミトシノオオカミ)」である

  • 757年、「ヤマト」を「大和」と表記しだした

  • 「大和」とするまでは「倭」などと表記しており、「オオヤマト」は山の麓を指す「ヤマト」を総じて「オオヤマト」になったとも

  • 平安中期は二十二社制になっている

  • 1118年、消失してしまい荒廃するが興福寺が復興させるのだが、神域を縮小させていく

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「大和神社」は崇神天皇の時代に創建されたと伝えられる古社。『延喜式』に記載される「大和坐大和魂(やまとにいますやまとおおくにたま)神社」に比定さ、皇室が崇敬する「二十二社」にも入っている。
 なぜ、戦艦大和の名前がここから取られたかというと、奈良時代に遣唐使が航海安全祈祷のために必ずこの神社を訪れたとの由来があるからだそう。そのため、戦艦大和の艦上に大和神社の分霊が祀られたそうな。
 では、なぜ?ここに航海祈願したか?それは天皇がアマテラスと個々の神様を祀っていたからである。ただ、力強すぎて分けて祀ったのがこの神社!
ちなみにその神を丁重にお世話した巫女は髪が抜け、やせ細ったとか。。それぐらいパワーのある神なのである。

↑大和神社:祖霊社

前述の通り、世界最大最強「戦艦大和」と係わりがあり、戦艦に守護神として祀られた。戦艦大和で轟沈した英霊2736柱と護衛艦の方々が合祀されている。

↑大和神社:本殿

大和大国魂神・八千矛神は出雲大社・オオクニヌシの異名である。『日本書紀』によれば、日本大国魂神は皇祖神・アマテラスとともに宮中に祀られていたが、神威が強く、世の中が乱れたため、崇神天皇の勅命により市磯邑に遷された。それが大和神社のはじまりでだそうな。
 ちなみに一方のアマテラスは、皇女・豊鍬入姫命に勅命して大和笠縫邑(現、檜原神社)に遷された。そして、あちこち巡り、最終的に行きついたのが、現在の伊勢神宮・内宮となる。

 公式ではないようですが、この神社のお祭りなどを挙げているyoutubeをリンクしておきます。





▽長岳寺

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 鐘楼門は平安末期のもので、ここを通ると浄土式庭園に出る。浄瑠璃寺や円成寺が好きな人はオススメかな。

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 この寺は花の寺ともいわれ、「山の辺の道」でもあるので人は多く、季節によっては車で行くと時間ロスするかと。

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↑長岳寺:阿弥陀如来坐像@重文と両菩薩坐像@重文

 東京国立博物館 興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」展でも展示された阿弥陀如来@重文」に脇侍の「両菩薩@重文」は日本初の玉眼仏像だ。脇侍は観音菩薩と勢至菩薩で結跏趺坐ってめずらしいですよね。
 平安から鎌倉で仏像様式が変わったとすると、その移行していく間の三尊仏像で、後の慶派に続く一品で様々な技術で奈良仏師であることは確実なそうだ。

 脇侍の結跏踏下は、北向山不動院の康助作「不動明王坐像」の流れを組んでいる気もした。ちなみに、康助は慶派のはじまりとされる運慶父・康慶のお師匠さんの一人。慶派の祖は康助・康朝で、康慶の次に運慶・快慶となり、湛慶・肥後定慶などに続く。

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↑長岳寺:増長天@重文、多聞天@重文

藤原時代の作だが、鎌倉時代では?と思ってしまうほどリアリズム。800年を経た現在も色彩がよく残っている。

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京都では多い「血天井」がありますね。

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↑長岳寺:狩野山楽筆の大地獄絵図@重文

この地獄絵は毎年10月23日から11月30日まで本堂にて開帳され、住職の現代風絵解き「閻魔の嘆き」も行わる。


↑そのほか

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▼セットで行くところ(旅行記)

石上神宮→大和神社&長岳寺→大神神社・・・長谷寺方面がゴールデンコースかな。詳細は以下の旅行記ですかね。ちなみに大和神社と長岳寺はそれなりに距離はあります。

▽長岳寺

▽大和神社

『二十二社制』(旅行記1日目)とは伊勢神宮をはじめとした特定の神社に、祈雨・祈晴や国家的大事に際して特別に奉幣の対象になった神社のことをいう。創設は白河天皇時代で1081年に制度としての二十二社が確立したとされる。

▼仏像展

▽東京公立博物館「運慶展」

運慶展の初回バッターは長岳寺の阿弥陀三尊だった。

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