ぞなもし創作ノートその2 キャラクターには神話的と人間的があるぞなもし
キャラクター。
物書きが言うキャラクターとは、ほぼ性格についてのことを言っていると思う。
人生の都合で、「キャラクターとはなんぞや」「返答せい!」と独眼鉄のようなことを自問しなければいけない時がままある。
なのでアウトプットという意味で、ここにちゃらちゃらと書き殴ろうと思う。
まず最初に、個人的な考えだが、キャラクターには大きく分けてふたつのパターンがある。と思う。
① 神話的キャラクター
② 人間的キャラクター
簡単に要約すると、
①神話的キャラクター
└成長しない。
└変化しない。
└最初から強い(精神的に。エンタメ系では肉体的にも)
└負けない。
②人間的キャラクター
└成長する。
└変化する。
└最初は弱い。
└負ける。
①の具体例
クリント・イーストウッド(が演じる西部劇のキャラ)
ジョン・ウィック
沈黙シリーズのセガール
座頭市
孫悟空(デエラゲンベール)
シャーロック・ホームズ
ジョーカー(ダークナイト)
②に具体例
うずまきナルト
岡ひろみ
碇シンジ
シャア・アズナブル(個人的こっちだと思う)
具体例を出すとなんとなく伝わったかもしれない。
①はあまり悩まず自分を貫き、最初から強い人たちです。
②は落ちこぼれで、悩んで、努力して勝利するタイプです。
ただし、現代においてはこのふたつの要素のハイブリッドであることが普通なので、ちょっと違うんじゃない? ということは言えると思う。
碇シンジとかは特に言えそうです。
悩むけど天才なんで。
アムロ・レイも天才だけど悩む。
ただ、ここでふたつに分けてしまうのは、極端に分類することで、両者の差異と機能が明瞭になり、よりラジカルなキャラクターの創造が出来るようになるかもしれない、という考えを思いついたからです。
ということは、ここで重要なのはキャラクターの分類では無く、キャラクターが生み出す劇における効果です。
ではどういう効果があるのだろうか。
ということを考えるにあたって、ふたつの分類の出自を見直してみる必要がある。
①に関していえば、その名の通り、神話、叙事詩の流れから芽生え、最終的にはギリシャ悲劇で完成したのだと思われる。
ギリシャ悲劇の特徴を簡単に説明すると、登場人物がみんな自分を曲げません。絶対に。
有名な『アンティゴネ』という悲劇では、兄同士が国をかけて争った際に、死んでしまった兄に墓を作り葬ってやりたいと考えた妹のアンティゴネは、勝った方の兄に掛け合うが、兄は絶対に許さない。それを聞いたアンティゴネも絶対に葬ってあげたい、と曲げない。最終的にはアンチゴネーが死んでしまい、兄も後悔するという話です。
どっちか折れろよ。と思わずにはいられない劇なんですが、このようにギリシャ悲劇は絶対に自分を曲げない。自分が間違っていても曲げない。そのために、起こる悲劇的な結末におよよと泣いたりする劇です。
ここでその登場人物や神話的キャラクターが観客や読み手に与える感情は、高潔さ、崇高さ、そして理解不能、つまるところ、自分とは違う高位な存在であるという部分を感じるんだと思います。
それが少し変化すれば『ダークナイト』のジョーカーのように、狂気をかんじたり畏怖の対象にもなりえるでしょう。
では、②の場合はどうなのか?
元はシェイクスピアや比較的現代的な物語あたりから始まった悩める人物なのではないかと思います。成長という意味では民話の構造がそのキャラクターの下地になっているかもしれません。
ロシア民話などで顕著ですが、パターンとしてただの少年が協力者や機転を利かせて、王様の褒美やお姫様の信頼なんかを得るのがよくあるのですが、『スターウォーズ』4〜6章の構造と一緒だと思ってもらえば問題ないです。
いわゆる貴種流離譚です。
で、人間的キャラクターは貴種である必要はないのですが(少年漫画では主人公は少なからず貴種になっていますが)、基本的には観客や読み手に近い位置にいて、共感や同情を武器にしてキャラクターへ誘引します。
落ちこぼれで、成長と悩みなどが見る側に自分と同じ立場であるという感情を与えると思います。
神話的キャラクターよりも現代的なアプローチであることは間違いなく、イプセンから始まる現代劇のキャラクターの延長線上だと思います(イプセンの描くキャラクターはどこか神話的なのですが、やっていることは人間的である)。
人間的キャラクターの属性は、自分と同位の存在で、理解可能であるというものだと思います。
現代のフィクションにおいては、人間的キャラクターが多いと思いますが、個人的にはそれは安易な選択によるものだと思っています。
成長したらいいんでしょ? 悩んだらいいんでしょ? みたいに。
でも、すごいと思えるコンテンツを見ると、大抵は神話的キャラクターが物語の中で、ものすごい輝きを放っていることが多いです。
例えば『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士である。実はあのキャラクターはストーリーのメインプロットとは関係ないのに、やたら謎だしやたら怖い。もう勝手に怖いし、一番やばいというのがわかる。
よくよく見返すとレクター、いらなくね? と思えるストーリーなのに、レクターがいなかったら、『羊たちの沈黙』は大して流行らなかったと思われる。実際、見た人もレクターだけは覚えているだろう(私はジョディ・フォスターのやばいくらい美しさというのも鮮烈に記憶したが)。
神話的であるか、人間的であるかはフィクション内でそれをどう機能させるかでしかないが、作り手がキャラクターというものをどう理解しているか、フィクションというものをどう理解しているかが、はっきりと分かるし、こういうとあれだけど、レベルの違いとして出てしまう部分だと思う。
とりあえず、キャラクターの神話的、人間的についての考えはここまで。
ちなみにこれはディオニュソス的(神話的)、アポロン的(人間的)みたいに言い換えてもいいかもしれないけど。
そのあたりを詳しく言っても仕方ない気もする。ぞなもし。
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