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ぞなもしカレー日誌#3 『人は皆、そば屋のカレーを頼みがち』〜立ち食いそば屋のカレー〜

立ち食いとか立ち呑みは嫌いではない。
というか、そういうものに少し憧れがあったかもしれない。
学生時代に読んだ町田康の小説には、立ち呑み屋や立ち食いうどん屋がよく出てきた。
小説にも出てくる天王寺駅周辺のごちゃっとした場所には、うどん屋や立ち呑み屋、大衆居酒屋がいっぱいあって、背伸びしたい年頃の自分にとっては、怖さもあり、興味もある世界であった。
ふらりと小馴れた風を装って、暖簾をくぐるが、店のシステムなど全く知らないので、おばちゃんの言葉がまるで男と女のラブゲームの如く、裏の取り合いのように思えたりもした。
おばちゃんにとっては知らんにーちゃんが来たけど、いつもどおり声をかけただけかもしれない。というか、その方が可能性が高い。
青年とは自意識で膨張する何かなのである。おばちゃんの言葉に膨張してもええやないか。天王寺の再開発で、そんなおばちゃんらが働いていた店はもうなくなった。いいんだか悪いんだか。時代の流れなんだろう。

そんな日々からけっこう年月が経過して、ふらりと知らない立ち食いそば屋に入って、カレーライスを頼むくらいの豪胆さを私は持った。
そば屋のカレー、そば屋のラーメン。裏メニューの秘密めいた凄みをこれらのメニューには感じる。
なので、思わず頼んでしまう。
私が本気を出せば、年越しそばを食べようと店に入って、ラーメンを頼むことすらできる。実際やった。それほどの剛の者に成長したのだ、私は。

で、この店のカレーはどうだったかというと、他の店では食べられない出汁の強さと片栗粉の強さを味わえる、古き良きカレーライスだった。
もはや、カリーライスと呼んでいいものである。いや、ライスカレーがいいか。なんでもいいが、懐かしい味であった。
私はかつてとは違い、余裕があった。おばちゃんのかける言葉にも動じない。おばちゃんが天ぷらをあげる作業を止して、水で簡単に手を洗って、カレーをよそう姿をただ見つめていた。そして、流れ作業のようにカレーを受け取る。今どき珍しい深めの細長い楕円の皿である。カレーを入れるのに適した皿。おばちゃんはちゃんと手を拭かなかったので、縁は水でびちゃびちゃである。だが、そんなことにも私は動じない。大人になった。びちゃびちゃの皿を受け取り、カレーを食べた。
話によると、寒波が来ているらしい。寒い日のカレーは内臓から温まる気がして、なんだが幸せである。
まだ朝。日が登ってから、それほど時間はたってない。
その日やらなければいけないことにぼんやりと思いを馳せる。
天王寺で立ち食いうどん屋や立ち呑み屋に入っていた頃は、もっとやることは単純だった。女の子が好きとか嫌いとかだったはず。いまは違う。
ずいぶん遠くに来た気がする。
いまはもう、店に申し訳程度に置いてあった椅子に腰掛けて、カレーを食べている。

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