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アカデミー賞が発表した作品賞の新基準について―何が誤解され何が本当に問題なのか

2020年9月8日、アメリカの米映画芸術科学アカデミーから、アカデミー作品賞選考に関する新基準が発表されました。2024年度(2025年の授賞式)からの採用を目指す方針です。その内容が波紋を呼んでいます。アカデミーは基準設定の目的を「観客の多様性を反映し、映画の内外で公平性を保つため」と発表しているのですが、そのことで「映画界に悪影響が及ぶ」とする人が多いのです。まずは、内容を簡単に訳します。一番は、原文で元のサイトを読むことだとは思うのですが。

作品賞の新基準の要約

アカデミー作品賞は以下、4つのスタンダードのうち2つを満たしていなくてはならない。

スタンダードA(スクリーン上の表現、テーマ、物語)

A1.主演・助演俳優に少なくとも1名は
・アジア系
・ヒスパニック/ラテン系
・黒人
・アメリカの先住民系
・中東/北アフリカ系
・ハワイ先住民/太平洋諸島出身者
・その他、人口比率の低い人種、民族
が出演していなくてはならない。

A2.全俳優の3割が
・女性
・少数派の人種・民族
・LGBTQ
・障害者
でなくてはならない

A3.あらすじや主題が
・女性
・少数派の人種・民族
・LGBTQ
・障害者
でなくてはならない

スタンダードB(現場の主要陣とスタッフ)

B1.現場の主要陣に少なくとも2名は
・女性
・少数派の人種・民族
・LGBTQ
・障害者
がいなくてはならない

B2.その他の技術スタッフに少なくとも6名は少数派の人種・民族がいなくてはならない。

B3.スタッフ全体の3割に
・女性
・少数派の人種・民族
・LGBTQ
・障害者
がいなくてはならない

スタンダードC(業界への入り口・教育)

C1.配給会社か出資会社が研修生・インターンとして
・女性
・少数派の人種・民族
・LGBTQ
・障害者
を雇っていなくてはならない。

C2.現場、配給会社か出資会社が
・女性
・少数派の人種・民族
・LGBTQ
・障害者
を教育し、労働の機会を与えていなくてはならない。

スタンダードD(観客への展開)

D1.スタジオか映画会社の主要陣に複数の
・女性
・少数派の人種・民族
・LGBTQ
・障害者
がいなくてはならない。

否定派の意見

さて、SNSを追う限り、この新基準はかなり賛否両論。というか、かなり否定派が多いように思います。まあ、意見や思想の偏った否定派が目立っているので、「よく調べてないけど、なんかひどいんでしょ?」程度の人たちが紛れすぎている気はしますが…。
否定派の意見をまとめると、以下のようになります。

① 白人の雇用機会が奪われる。逆差別だ。
② 基準を気にすることで映画のクオリティが下がる。
③ アカデミー賞は作品の出来によって選ばれるべき。テーマや俳優の人種は関係ない。
④ アメリカ映画以外の作品がアカデミーから締め出されてしまう。
⑤ すでに差別は改善されつつあるのだから、こんな基準は必要ない。
⑥ 基準にしてしまうのが乱暴すぎる。

では、一つひとつを見ていきましょう。

① 白人の雇用機会が奪われる。逆差別だ。


そもそも、この新基準が採用されたのは、近年のアカデミー賞で白人俳優のノミネート率が高すぎたことへの批判が大きかったといえます。2020年の作品賞が『パラサイト 半地下の家族』という韓国映画だったにもかかわらず、出演者は1人もノミネートされませんでした。また、2016年のアカデミー賞では、主演男優賞にノミネート確実とされていた、『クリード チャンプを継ぐ男』のマイケル・B・ジョーダンの名前が挙がらず、論争を巻き起こしていました。なお、2015年と2016年には、俳優部門のノミネート20名が2年連続で全員白人となっています。

大前提として、アカデミー賞は白人有利の傾向が顕著だったのは事実です。「純粋な実力で白人が勝っている」という意見もあるでしょうが、そもそも白人がメインキャスト、スタッフを務める映画が圧倒的に多く、マイノリティの評価されるチャンスが少ない状況では、そうも断定できません。そのうえ、『クリード チャンプを継ぐ男』のようにヒットもして評価も高い映画すらノミネートされないのであれば、「恣意的すぎる」と思われても仕方ないでしょう。そして、「オスカーは白人のもの」という批判に、米映画芸術科学アカデミーは真剣に向き合わざるをえなくなったという経緯があります。

注意点として、スタンダードA、Bは、決して厳しい基準ではないです。事実、2017~2020年のアカデミー作品賞はいずれも、スタンダードA、Bをクリアしています。そもそも、NHKによる「アメリカの総人口における人種の割合」によれば、2014年時点でアメリカ国内の白人の割合は62.2%。2060年には43.6%になる見込みです。

それなのに、キャストやスタッフが白人で占められているという現場はむしろ、不自然なんです。普通に、公正な感覚で映画を作っているのであれば、今回の新基準は強く意識しなくてもクリアできる内容ばかりです。それを明文化することで「アカデミーは意図的に白人男性を優遇している現場を認めませんよ」とステイトメントを出したということです。

それに、この基準は「現場の白人を減らしてマイノリティを入れろ」と言っているわけではありません。そのために、スタンダードCで、研修生やインターンも対象にしています。また、白人男性しかいない配給会社やスタジオは、女性やマイノリティを新たに雇用すれば、難なく基準を満たせます。それを嫌がる会社があるとすれば、「白人男性で従業員を占めたい」以外の理由が見つからないので、そもそも一企業として問題がありますよね。

「低予算の現場がアカデミー賞を狙えない」という人がいます。意味が分かりません。なぜ、予算がなければ、白人男性だけで現場を組み、配給や広報も白人男性だけに任せなくてはならないのでしょうか?

ちなみに、アカデミーのデビッド・ルービン会長とドーン・ハドソンCEOは「映画の制作陣と観客の両方に、多様性ある世界を反映させるために、間口を広げる必要がある。そして我々は、多様性ある世界を実現させるために重要な役割を担っている」とコメントしています。

② 基準を気にすることで映画のクオリティが下がる。

これに関しても理解不能です。「女性や有色人種、障害者が現場に来るとクオリティが下がる」と言いたいのでしょうか?「マイノリティの下駄を履かせてもらって何が嬉しい」という人もいましたが、そもそも、「下駄を履かせる」とは、「価値がないものを、偽って良く見せる」という意味です。アメリカ国内で、不利な立場を強いられてきたマイノリティにはあてはまりません。むしろ、こういう言葉を発する人こそ、「一観客、匿名のネットユーザーなら何を言ってもいい」という下駄を履かせてもらっていると感じます。

映画大国、アメリカには国内外の優秀なスタッフが山ほどいるわけで、「能力の低いスタッフをアカデミー賞獲得のため、無理に雇わなくてはならない」などという状況が起こるなんて考えにくいんですよ。スタンダードB2「技術スタッフに少なくとも6名は少数派の人種・民族がいなくてはならない」の対象にはアシスタントも含まれています。アカデミー賞を狙いに行くような大手の現場なら、1部署だけでも膨大な人数が配属されています。それで、非白人スタッフが6人もいないともなれば、「意図的に白人にしか声をかけていない」と思われても仕方ないですよね。

「そういう現場があってもいい。大切なのは映画の中身だ」という人がいれば、議論のテーマはまた別になります。ハーヴェイ・ワインスタインを映画人として評価し続けられるか、松江哲明やSPOTTED PRODUCTIONを追求しなくてもいいのか、アップリンクのパワハラ問題を不問にしていいのか。映画に無関係の、職業倫理、人道性の話になっていくでしょう。

「障害者雇用と同じ問題を感じる」という意見もありました。でも、企業の障害者雇用が問題になるのは、雇う側が教育を怠ったり、適切でない現場に無理やり配属したりするからです。足の不自由な人に肉体労働は難しくても、デスクワークなら可能でしょう。知的障害のある人でも、作業によっては問題なくこなせます。こういう批判をする人は、「障害者雇用によって他の社員が足を引っ張られていて、企業の生産性も落ちている」とでも言いたいのでしょうか。僕、親せきに障害者雇用の対象がいるので、本当にこういうこと言う人々が腹立たしいし、「何も知らないくせに」と思います。自分が障害者に偏見を抱いているだけなのに「映画界が」「社会が」と主語を大きくすり替えるな。

③ アカデミー賞は作品の出来によって選ばれるべき。テーマや俳優の人種は関係ない。

これに関しては、「まあ、そうですよね」という感じです。今更ですが、僕自身、アカデミー賞を受賞するような映画をほとんど面白いと思っていません。21世紀の受賞作を眺めていても、『ロード・オブ・ザ・リング』が『ビューティフル・マインド』より下のわけがないし、『クラッシュ』が『ブロークバック・マウンテン』を押しのけたなんて、今の人は信じられないでしょう。

『ソーシャル・ネットワーク』はいまだに評価されていますが、『英国王のスピーチ』を何人が覚えているのか。『アーティスト』や『アルゴ』なんて、見た人の人生にほぼ関係がないはずです。これらがアカデミー賞では『ヒューゴの不思議な発明』や『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』よりも支持されたんですよ!

スタンダードA3で、作品賞の内容まで言及しているのはかなりきついですね。もちろん、B~Dのうち2つを満たせば、理論上はアクションでもホラーでもモンスター映画でも受賞は可能なんですが。まあ、「社会派映画は娯楽映画より上」と断定されている、嫌な感じはあります。薄っぺらい社会派映画も、メッセージ性の強い娯楽映画も、いくらでもあるでしょうに。ていうか、テーマとかあらすじとか、誰が何を基準にして決めるのよ?

ただ、いうなれば、昔からアカデミー賞の基準はこうだったので、今更言っても仕方ないってことです。それに、アカデミー賞を獲りたいから、傾向と対策を考えて映画を作ってきたスタジオはいっぱいいるわけじゃないですか。アカデミー賞だけが映画にあらず。「面白い映画を見たいだけなのに基準を作られたくない」という人がいれば、アカデミー賞狙いじゃない映画をチェックすればいいんですよ。

④ アメリカ映画以外の作品がアカデミー作品賞から締め出されてしまう。

これは、単に基準を読み違えているだけなので、分析の必要すら感じません。スタンダードを満たせば、どこの国の映画だろうとアカデミー作品賞を獲得できます。

⑤ すでに差別は改善されつつあるのだから、こんな基準は必要ない。

何もしていな有色人種が白人警官に射殺されてしまう国に、「差別は改善されている」と言ってしまう感覚はとても危険だと思います。それが、アメリカ国外に住んでいる人からの意見なら、特に。

けっこうびっくりしたのは、「日本人はすでに海外で評価されているのだから、こんな基準を設けてもらわなくてもいい」という意見がSNSで割とあったんですよ。マジか…と思いましたね。

つまり、「マイノリティ」とか「被差別者」と呼ばれることを極端に嫌っている人がいるんです。別にそう思うならそれでいいですよ。でも、日本の映画やアニメが世界で評価され、影響を与えていたのっていつの頃よ?って感じじゃないですか。是枝裕和や細田守あたりを除けばアメリカで評価されている日本の映画人は数えるほどしかいないし、彼らですら、韓国やインド、香港の巨匠と比べると、ワールドワイドな活躍をできているとは言い難い。是枝さんの『真実』なんてカトリーヌ・ドヌーヴのおかげでいろんな国で上映できたけど、完全に無風だったじゃないですか。

今でもジャンプ系コミック、『進撃の巨人』なんかは海外で人気がありますが、じゃあ、マーベルやDC作品と比べて、どれくらい本気で展開を考えてくれている海外の企業がいるのか。いつまでも「日本スゴイ!他の国と一緒にするな」みたいな考え方に固執している人々は痛々しいですね。そのちっぽけなプライドで、映画の現場に道が開かれた人々に水を差さないでほしいと思います。

また、「映画業界の話なんて観客にとってどうでもいい」という人もいました。自分が属していない生活圏、労働環境に対する想像力がまったく働いていない。こういう人たちが次々に生まれてくるのは、何か、社会構造に問題があるような気がしてなりません。「自分が知らない人間のことなんてどうでもいい」という考えは、映画とか関係なく、時代の闇を象徴しています。人を虐げる側に自分を同化させ、強者の気分を味わいたいというのは、逆をいえば「自分が弱者であることから目を背けたい」という気持ちがあるということですから。

⑥ 基準にしてしまうのが乱暴すぎる。


おおむね反対、一部賛成です。一部というのは、やはりスタンダードA3について。賞を主催する側が内容にまで口出しするのは、他のスタンダードで挽回できる仕組みとはいえ、やはり釈然としません。ただ、ここまでの基準化を行わなくてはならなくなった背景には、度重なるアカデミー賞の選考基準への不満があったわけです。嫌らしい話ですが、「選考の不透明性をなくせば、文句はないでしょう」みたいな、ブーイング対策もあったと思いますよ。

また、今回の基準が採用されるのは2024年度の作品からです。僕としては、今から4年ほどある中で、「メインキャストもスタッフも白人で占め、広報も配給も白人男性だけに任せ、インターンも白人しか認めません」という映画の現場にこだわり続ける意味が何なのか分かりません。また、本来なら逆に難しい条件だと思うんですけど。

あと、今回の新基準はアカデミー作品賞に適用されるものでしかないのに、「アメリカ映画全体に関わる」という誤解が多いように思います。誤解が誤解を呼び、「アメリカ映画の崩壊だ」くらいのことを言い出している人もいるので、「うわあ…」という感じです。

新基準で起こりえる問題

では、この新基準について考えられるネガティブな面も綴っていきます。

① アカデミー会員の忖度


新基準に忖度するがあまり、逆にアカデミー賞で白人が受賞しにくくなるという問題です。今回の基準は作品賞限定ではあるものの、他部門への影響はゼロといえないでしょう。ただ、これはやってみなきゃわからない部分ですし、『ダークナイト』のヒース・レジャー並みの演技があった場合には世論も味方するので忖度の働く余地はなくなります。まあ、「忖度しなくてはならないくらい、決定打のない年」にならないことを祈るべきですよね。

② 表現の制限

この基準を踏まえるなら、アカデミー作品賞狙いで「白人男性しか登場しない映画」を「白人男性のスタッフのみ」で、「白人男性の幹部しかいない配給会社」を通して公開するのは難しいわけです。たとえ、「白人男性のコミュニティを描くために、関係者を白人男性だけ固めたい」という、表現上の理由があっても認められないわけです。

でも、考えてみてください。そういう現場ってヤバいと思わないですか?インターンからも、配給からも、出資会社からも白人男性でない人間を締め出そうという考え方ですよ?それはアカデミー賞じゃなくても「そういうヤバい奴らに関わりたくない」と思うのが当然ではないでしょうか。

また、アカデミー賞は歴史を白人主導に修正したといわれている『フォレスト・ガンプ一期一会』、イスラエルが舞台なのに白人ばかり出てくる『ベン・ハー』などに作品賞を与えた歴史もあります。これらの決定は時代を経て、強い批判を集めることとなりました。こういう選考の偏りをなくすため、最初から「意図的に排他的な現場を組むなら評価しないよ」と宣言しているのです。


③ 作品の画一化

アカデミー賞を狙うがあまり、マイノリティを取り扱った映画、女性映画が増えるという考え方です。ていうか、そもそもアカデミー賞は長年、こうした問題を抱えています。たとえば、1946年のアカデミー作品賞を獲得した『失われた週末』は、ビリー・ワイルダー監督の代表作とは呼べない出来です。それでも評価されたのは、アルコール依存症患者を描く内容が評価されたにすぎません。そのせいで、アルフレッド・ヒッチコック監督の傑作『白い恐怖』は受賞を逃しています。

1968年に作品賞を獲得した『夜の大捜査線』は人種差別を描いた良作ですが、若者に絶大な支持を得た『卒業』『俺たちに明日はない』よりも上とするのは難しいところです。この年のアカデミーは、革新よりも社会的意義を選んだのでした。今後、アカデミー賞を受賞したいスタジオ、監督、プロデューサーたちがこぞって、似たようなテーマの映画を量産する可能性はあります。そして、内容は薄いけどテーマだけは高尚な映画が賞を獲得していく…。映画ファンが恐れているのはこの点だと思います。

でも、あくまでも可能性にすぎません。だって、「賞のために撮りたくもない社会派映画を撮る」なんていう、ダサいことに付き合う映画監督がどれくらいいるか未知数だからです。一時のスティーヴン・スピルバーグはアカデミー賞狙いで社会派映画を量産していましたが、結局アカデミー賞を受賞した『シンドラーのリスト』はユダヤ人である自身にとって重要な歴史的事件、ホロコーストを描いていました。別に、骨の髄まで名誉欲に漬かっていたわけではないのです。

そもそも、そうした大人たちの思惑はバレます。2002年のアカデミー賞で、ショーン・ペンが知的障害者を演じた『アイ・アム・サム』は作品賞にノミネートされませんでした。評論家から「賞狙いが極端だ」と酷評されたからです。なぜか日本では評価されましたが…。アカデミー賞が、作品賞狙いの映画に何度もなびいてきたのは事実です。ただ、大前提として一定のクオリティがないと、一流の映画人は騙せません。それよりは、政治性がそれほど強くなくても、芸術的価値の高い映画をノミネートさせようと考えることが考えられます。要するに、「アカデミーの審美眼はあてにならないけど、最低限の良い悪いは見分けられるよ」ということです。そのうえで、『フォレスト・ガンプ』に賞をやるみたいな問題が起こるかどうか、という話になってくるわけです。

最後に

まとめるなら、僕個人としてはアカデミー賞を獲る映画なんて本当にどうでもいいんですよ。あんなもの獲ったところで、作品の本当の価値と関係がないじゃないですか。でも、一応、世界で最も知名度の高い賞が、アメリカ国内のマイノリティの労働環境改善について、具体的に動いてくれたのは評価してもいいと思います。
でも、賛否両論出てくるのももちろん分かります。だから、映画ファンのみなさんは歪められた情報に惑わされるのではなく、しっかり原文を理解していろいろ考えていきましょう!

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