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『20代で得た知見』の奥の方の(嫌悪感)

『20代で得た知見』を今更ながらに読んだみたけれど、下心が見え透けた3,40代のおじさんが、行間や文章の奥のほうに居て気持ち悪かった。

ベストセラーの人気作で今でも書店のコーナーに平置きされているのを見かけて気になっていた。だから中古で買って読んでみた。そしたら、すごい嫌が詰まってた。

確かに共感する文章とか、納得させられる文章、はっとさせられる文章もあって、すべてを否定するわけじゃないんだけど受け入れられない異物が混じっている感覚があった。なんでこんなに嫌いなんだろう。

(自己紹介すると21歳の男子大学生、鬱っぽい)

飽くまでも個人的な感想なんだけど、めちゃめちゃ汚い表現をすれば、この作者は勃起しながら執筆してたのかな、と思った。

イメージするところ、バーで年下の女性に自慢話や説教を垂れ流しながら自己陶酔して、女性の胸や脚をチラ見しているような、浮気や不倫も人生経験として消費しているような、DVやモラハラをしているような…

見え隠れする性欲と、あからさまなマウンティングと排他的思考。
スーツを着てる旧世代ちんこ野郎では?

『20代で得た知見』の奥の方の勃起した陰茎が、つらい

嫌いなところリスト
・作者の素性が知れないこと
・しょうもないジョーク
・自分の発言に保険をかけてばかりで無責任なこと
・知り合いなどの言葉の引用が多いこと
・他者を否定して、自己肯定をしていること
・男女論や男尊女卑などの昔の価値観
・根本にあるマウンティング思考
・嘘松みたいなエピソード
・言葉を掘り起こすだけ掘り起こして後始末をしないところ


特に無理だった項目を2つ挙げると

9・大人なんて存在しない

わたしは「社会人」を見たことがありません、数字や締切に追われているサラリーマンは見たことがあります。

31ページ

 こんな感じで「社会人」や「世論」「幸せな人」「子ども」を皮肉的に揶揄している。自らを肯定させるために、何かを否定する方法はあまりにも子どもじみている。著者も社会人であり世論であり大人であるはずなのに、自分はそのカテゴライズから外して否定しているのが傲慢だし狡猾。結局、恣意的にその言葉の定義を変更して、あたかも悪者かのように仕立て上げつつ、自分もその集団に属しているのにも拘らず俯瞰的に見ている自分は否定されないようにする。典型的な藁人形論法、論点のすり替えと同じ感じだし、ただの悪意的な詭弁じゃない?と思った。

 文章の最後には、「はじめから子供同士として話せばよかった」とあった。自分も子供であると認識している。皮肉を言っているようだけど結局は侮蔑でしかないし、相手を下げるために自分も下げたように見せるって卑怯すぎる。

 それに、作者ですら大人ではなく子どもだと仮定するならば、大人が存在しないような、絶対になれない仮想的なものになってしまう。自己啓発としてゴールが不可能になるのは趣旨としてどうなんだろう。「大人」を恣意的に解釈したうえで、正しい「大人」を定義することもない。ただ批判や皮肉だけを主張する、嫌味に満ちた文章だなと思った。

他の「社会人」や「世論」、「幸せな人」もシニカルに批判するだけ批判して解決する方法や、じゃあ何が正しいのかを示さない卑怯さがある。


30・女は生き様である

私が唯一女に求めるのは、綺麗でも可愛いでもありません。曲線でも水分率でも、おべっかでも品の良さでもない。度胸です。仕事が飛んでも金がなくなっても1人で生き残る気迫と気概を持ち合わせた度胸です。

55,56ページ

 このページで本性が見えた気がする。この章の冒頭には「こんなことを言うとフェミニストに怒られそうですが、続けましょう」とあった。(言ってはいけないことだと、ちゃんと分かっていますが…)と軽い自己弁護にもならないような体裁だけの言い訳を遠慮気味に言っているが、言いたいことは言う。保険をかけまくった主張、したたかすぎる!

 これって「こんなこと今の時代じゃパワハラなんだろうけど~」ってハラスメントをハラスメントと認識していながらハラスメントを堂々と行う加害者の構造と何ら変わらない。ただただ悪意の塊。

 「度胸」という新しい価値観を強調するために、過去、女性を見定めていた価値観の「綺麗」「可愛い」などを列挙する。なんでそんな必要が、と思ってしまった。それと頑なに「女性」と言わないな。

 そもそも容姿や振る舞いで女性を評価することが悪いんじゃなくて、勝手に見定めるような態度が問題なんじゃないの?と思う。そんな態度が、文章から女性を見定めている様子が伝わってきて嫌だった。新しい価値観を提示しているけど、何も変わっていない男性観や女性観が見え透けてる。

とにかく、市販の恋愛テクニックやLINEの恋愛記事が罷り通るほど人間、甘くないよ。

55,56ページ

この章は、このような文章で終わる。なんで??とびっくりした。
「とにかく」って話をまとめようとしてるけど、これまで恋愛テクニックの話なんて一切してなかったのに、最終的なゴールはインターネットに蔓延っている恋愛テクニックへと論点がずれていた。そしてこれまでの恋愛の価値観とやらの話は、ぼやっとしたままで結論は出していない。そして、現実では通用しないよ、って突然の否定。めちゃくちゃに暴れ過ぎでは!?インターネットにすべてを押し付けて結論から逃げていった。攻撃するだけ攻撃して自分は攻撃されないように逃げ回る。インターネットかな。

引用した文章は、この項目の全体の1/10くらいの文章だけど、他にも「男性っていうのは性欲を隠しているだけで、ずっと女性の裸のことを考えているんですよ」と言ったりしてる。

自分は男だけど、ふつうにそんなことない。よく「フェミニストは女性の敵」みたいに、同性どうしでも理解や価値観に差が存在することがある。それと一緒で、そんな性欲まみれの陰茎=男性とひとくくりにして自嘲するのは、男性全体への侮辱でもあると思う。ふつうに嫌な奴では!?

嫌悪感の連打感

 2つを例に挙げたけど、すべてを列挙してたら数十万文字のレポートになってしまう。そのくらい怒涛の勢いで、気持ち悪い!!が流れ込んでくる。

 人と関わっていくなかで、この人は無理!って直感的に思うことがあるけど、本を読んでそんな感情になったのは初めてだった。

 この『20代で得た知見』は、人生において最悪の本の一つになった。あれほど読んでて体調が悪くなる文章ってあるんだな、と思ったし、途中で読むのをやめるのは嫌だから、なんで嫌いなのか分析しながら読んでみようってモチベーションで読んでた。

 でも、この本を絶賛している人がたくさん居るという事実があること、売上部数として明確な事実があるから、なんだか恐ろしい気持ちになる。みんな、そうなんだって軽い絶望すら覚える。これに共感するほうが多数派なのかぁ、自分はやっぱり普通じゃないのかなと落胆した。


心の底からマウンティング思考

 文章の内容は個人の好き嫌いがあると思う、感じ方は人それぞれで、他人の考えを否定するつもりはないし、共感や賛同は間違いとは思わない。それすら否定してしまったら作者と同じになってしまう。

 ただ、内容はともかく文章において、なんて無責任なんだろうと感じた。否定というよりも排他的であると言ったほうが適切かもしれない。

例えば、否定が、ただの否定ではなくて、上から目線の否定なことが多い。否定のスタンスが「それはどうなんだろうか?」ではなくて、「それ、間違ってるでしょ?」「こうするべきだよ」となぜかマウンティング思想があった。

 それと余談だけど、この本は知り合いとか出会った人からの話を多く引用していて、どことなく滲み表れている嘘松構文に耐えきれなかった。マックの隣の席の女子高生、日本在住のイギリス人、トランスジェンダーの知り合い、近くで見ていた小学生…


根本的な理由は、作者の言葉が信用できない

 結局なんで言葉が身に沁みて聞こえないのか、この本が嫌いなのか。その理由は、どことなく滲み出ている雰囲気に、虚栄や虚構がまとっていて、どうしても信用できないからだと思った。

信用できないから、言葉の奥にある作者の姿を想像して、それを拒絶しようとしてしまう。否定というよりも拒絶だったのかも。

新宿在住の35歳の男性「F」と名乗っていて、素性はよく分からない。
素性は不明であるが、引用として出てくる関係者は才能や実績のある人。
排他的なマウンティング思考。発言に責任をもっていない。

信用できない理由として十分すぎるほどの要素がある。

感想のまとめ
『20代で得た知見』は自分にとって最悪の本だったけど、自分の「嫌い」を追求する良いきっかけになったと想う。反面教師として考えれば、自分のためにもなった。もう読まないけど。

愚痴ばかり殴り書いてしまった。「自分には合わない」と言うために3000文字以上を費やしてしまった。

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