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【創作】卒業おめでとう

「おはよ。桜見に行こう」
 私と君が籍を置いている大学の卒業式の朝、眠そうに目を擦る君がパジャマ代わりのスウェットのままキッチンにふらりとやって来る。まだ外は暗く、袴の着付けがあるにしても早起きをし過ぎた私は、あまりに手持ち無沙汰でコーヒーを淹れていた。豆を挽くガリガリという音で起こしてしまったのだろうか。意外と大きな音がするから。
「まだ咲いてないよ。ていうかまだ寝てていいのに」
「予約何時だっけ。車取ってくるから用意しててよ」
 私の言葉を無視して君はスウェットを脱ぎ捨て、その辺に散らばった服を着込みながらばたばたと玄関に向かう。
「あ、待って」
 雑に羽織られたパーカーのフードに手を掛けて引き寄せ、反対の手でコーヒーフィルターにお湯を注ぐ。お湯が落ちきる前にドリッパーを下ろし、マグカップを差し出すと律儀に一口だけ飲まれて返ってきた。
「ん、ありがと」
「今から荷物まとめるからゆっくりでいいよ」
 これは嘘。本当はもう荷物は全部用意してある。メイクもそんなに時間はかからない。それはたぶん、君も知っている。昨日の夜に私が準備するのを隣で見ていたから。
「そんじゃあ、このコーヒー全部もらってこうかな」
「いいよ。それよりそっちは着付け何時なの」
「あー、私スーツだから」
 そうでした。君がそういう晴れ着を好まないのも知ってるし、皆が着るからと大多数に迎合することもない。まあそういうとこが好きなんだけど、と思いつつも、袴姿も似合うと思うんだけどなあと、心の片隅にあったほんの小さな期待を玄関の暗闇に溶かす。

 飽きるほど乗った軽自動車で連れて来られたのは近所の高台にある公園。周囲はほんのりと明るくなってきていて、見下ろす先は夜明け前のそわそわとした街。
「ほら、まだ桜咲いてないよ」
「うん、もうちょっと待って」
 高い建物のない街並みは遥か向こうに見える山まで抜けていて、空の表情があっと言う間に変わりゆくことに驚く。普段は気にも留めないのに、妙に感傷に浸ってしまうのは今日が四年間のモラトリアムの終わりの日だからだろうか。
「そろそろかな」
 いや、普段この時間はまだ寝ているからだなと思い直していると、隣に立つ君はいつの間にか両手いっぱいに何かの紙を千切ったものを握りしめていた。
「っ、それ成績通知」
 それが何だったのか私が理解するよりほんの少し早く、二人の頭上にふわりと散らされる。
 それは陽が昇る直前の一瞬。濃い桜色の空をうつした紙切れがひらひらと舞い散る。
「ほら、」
「……桜だ」
「卒業おめでとう」
 そっちこそ、と言いかけた言葉は君の唇に塞がれる。
 まったく、君はいつも人の話を聞かないんだから。

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