メディアの話その131 メタバースもARもドラえもんに敵わない理由。

前回のドラえもんの話と重なりますが、VRとARとは何かを、ドラえもんと重ねて考えるとよくわかる。

メディアとは、人類の身体の拡張である、とマーシャル・マクルーハンは言った。

これを言い換えると、人間の欲望の拡張が、メディアである、ってことになる。

では、人類のメディア的欲望とはなにか。

究極にはこれ。

時空を支配することである。

過去も未来も好きな時間に行くことができる。

あらゆる場所に一瞬に行くことができる。

つまり、ドラえもんである。

ドラえもんは、史上最高のSFであり、史上最高のメディア論の本である。

タイムマシン。

どこでもドア。

時空を支配する2つの存在がドラえもんの物語の中心である。

時空を支配する欲望は目的であり手段でもある。

時空を支配することで人はモノも体験も知識も好奇心もストレスなしに手に入れられるから。

マクルーハンは、車輪を、足の延長のメディアとした。

一方、テレビは脳と感覚系の拡張である。

これ、時空の支配がメディアの本質、って視点でみると、

車輪もテレビも、おなじである。

片方は、体を動かす方に。

もう片方は、いながらにして、世界を自分に近づけるほうに。

狭義のメディア、テレビだのラジオだの新聞だの雑誌だの書籍だの、ってのは、みんな、タイムマシンとどこでもドアの側面を必ず有している。そして、すべてがメタバースである。仮想現実である。

体を動かさずに、脳に遠く離れた場所の情報を、遠い昔の記憶を、「いまこの瞬間」に再生する。

メタ(笑)のフェイスブックがやろうとしているあのダサい三次元空間の未来は、案外、みんな昔から思いついていた。

メタバースの語源は30年前のSF小説「スノウクラッシュ」だ。で、いながらにして別世界は、もっとクールにARとVRを混ぜた世界を攻殻機動隊が描き、スタートレックでも普通に描かれていた。身体つきVRはむしろいちばん凡庸で予測可能な未来だった。

ロボットやサイボーグといった「人造人間」製造願望は、古来ずっとあるから、繰り返し出てくる。あれも完全なメタバース同様、普遍的かつ凡庸な欲望だから「未来予測」可能だった。

ところが、それを実現するのに必要なテクノロジーである、インターネットやパソコンや携帯電話やスマホやアプリは、完全なメタバースを現実化するまでの「プロセス」にあるものだから、ほとんどのひとが想像できなかった。だから、スタートレックもスタートレックも攻殻機動隊もブレードランナーもアキラも、スマホなき未来で、いきなり仮想現実、である。

前澤さんの宇宙旅行に嫉妬しているのが、テレビ業界の老人たちってのは、「メディア論」的にみると、象徴的である。テレビ局のサラリーマン宇宙飛行士も、朝のサラリーマンコメンテーターも、元サラリーマンの老司会者も、前澤さんが自分で稼いだお金で宇宙旅行に行ったことを腐している。

「あんまり興味ないけど」「おなじ金があったら寄付した方が」「格差社会の象徴」。

すべてが的外れで、かつ醜い言葉なんだけど、これ、どこに嫉妬しているか、というと、実は宇宙飛行そのものが重層的に「メディア」であるからではないか。

まず、メディアコンテンツとして、圧倒的に「すぐれている」。

そして、なにより、宇宙船そのものが「時空を越えたい」人類のメディア的欲望の最先端であり、テレビというメディアの「ライバル」なのである。

テレビのひと、新聞のひとの、前澤さん嫉妬の裏にあるのは、「格差社会」批判ごっこに隠れた、終わったメディアが新しいメディアに遠吠えしている図だったりする。

終わったメディアは消えるのではない。新しいメディアにマトリョーシカのように飲み込まれる。

だから、「すぐれたコンテンツ」をつくるひとは、次の時代も楽々と生き抜ける。プラットフォームにぶらさがってたやつはいらなくなる。

ちなみにドラえもんは、インターネット的、スマホ的、iPad的なものを登場させていた。時空を支配するのがメディア、というねっこを最初から藤子不二雄さんが見抜いていたからではないか。

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