メディアの話 小さなビジネスと大企業と、街の未来と。
今日、連続して日本のコラムをネットで読んだ。
一つは本屋さんのnote
そして、おそらくはこのコラムの内容に対する反論として出てきたこちら。
前のコラムは、取次の配本がすでに小型書店に対しては機能しておらず、Amazonだったら翌日に届く商品が、注文して1週間経っても届かない話を記している。
それに対し、後者のコラムは、そもそもこの本屋は取次の「正しい機能」を理解しておらず、はてなに書いたプロセスを経れば、ちゃんと届く。客注じゃなく、即配サービスを使えばいい。文句を言うのは筋違い。と書いた上で、「生き残らせるべき書店の見分け方」と銘打って、
「売れもしないフェアを繰り返しPOPを並べるが、最も書店が大切にするべき本の流通という機能を諦めた書店と、しっかりとサービスを用意して仕組みを進化させている取次とどちらが悪いかは、明らかではないだろうか。・・・・この手の書店は、書店が持つべき基本的な役割を果たしていないのと、既に本来は廃業するべき水準で運営されているのを店主の思い込みだけで運勢されているケースがあって持続性がない。・・・遠く離れたこの手の書店を支援するより、地元の最寄りの書店を使って支えよう。全てのビジネスが、大企業の正しさや正確さで動いているわけじゃない」と断じている。
で、これを読んでの感想。
どっちがいいか悪いか、は、特に書かない。
いい悪いの問題じゃないからだ。
この本屋さんは大阪で、私は行ったことはない。
一方、匿名で書かれている「はてな」の記述は、常にどこまで本当か、門外漢にはよくわからないからである。
ただ、一つだけ言えているのは、日本の書店の大半は個人経営であり、激減していると言うこと。その配本を支えているのは、大手企業の取次であること、という事実である。
そこでこの2つの話の間の谷間に流れる深い川。
それは、
全てのビジネスが、大企業の正しさや正確さで動いているわけじゃない、ってことである。
にもかかわらず、私たちが机上で共有するのは大企業の倫理と論理なのだ。
大企業が悪い、って話じゃない。
この場合で言うと、大企業は取次、である。本屋は零細ビジネスだ。
しつこいようだが、大企業の取次が悪い、という話ではない。
いい悪いじゃなくて、違うということ。
個人経営のビジネスと、大企業のロジックには、うめようのない深い川が流れている、と言うのを、お互い知っておく必要がある、ということだ。
実際の書店と取次はそれぞれそれを知った上で駆け引きをしているのだろう。
日本のビジネスの大半は、大企業ならば当たり前にやっているビジネススキームを回すだけの人もノウハウもなく、目の前の客を掴む、ってところで、終わっている。
で、ダメダメなところも出てくるし、既得権益を貪るところも出てくる。
いずれにせよ、こういう話を、自分ごとじゃない私のような人間が読むと、社会にあるあらゆるビジネスの基本が大企業倫理で全て動いているように勘違いしちゃうことがある。
世間のビジネス情報に、ちっこい世界のちっこい常識はほとんど出てこないからである。
出てくるのは、大企業的な環境をベースにしたロジックであり、倫理であり、慣習だ。
私の場合、かつて大企業のビジネス情報を記事にする日経ビジネスで記者をやる一方、ちっちゃいNPOに長年参画していたり、歯抜けになった田舎に実家があったり、という両方に接していたので、余計このずれを肌身で痛感する。
大企業の正しさの、荒い網の目から落ちていく、当事者以外にとってはとるに足らない、ちっぽけなビジネスが、ふっと消えていく姿を。
じゃあ、その代わりは登場するか。
大企業の市場規模には、合わないから、登場しない。
穴は空いたままになる。
10年経っても20年経っても。
私の故郷で言うと、人口70万人の政令指定都市、浜松市の駅前繁華街は、24年間、 歯抜けだらけで、一番でっかい百貨店松菱の歯抜けは、空いたまま、である。
もちろん、例えばネットビジネスが代替するケースは多々ある。
書店などに対するAmazonが典型だ。
じゃあ、人はAmazonだけで暮らせるのか。
便利不便利だけで言ったら、Amazonだけで暮らせる。
街の本屋はいらない。
じゃあ、街の本屋がない世界を望むのか?
Amazonだけで済む世界って言うのは、本屋だけじゃくていろんなものがなくなる世界である。
つまり、リアルな街がなくなる世界である。
ここで、おそらく、暮らしの「心地よさ」問題が出てくる。
「心地のいい暮らし」を支えるのは、「顔の見えるこじんまりした街」だったりする。
これ、大企業だけではできない。
綺麗な答えは、ない。
そして最後に。
このはてなを書いた人の、「生き残らせるべき書店」という視座そのものが、やってることの正しさ云々以前に、問題を孕んでいる、と思う。