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薔薇は気高く咲いて美しく散る

安冨歩さんと坂本龍一さんの対談を聞いて

 親は子どもを傷つける……ということをしばし考え、痛みを味わっていたら、ふと、漫画「ベルサイユのばら」のことを思い出した。

「ベルサイユのばら」のオスカルといえば、男装の麗人。なぜ男装になったのか?というと、父親の

男子がほしい!

という欲望の結果。

世継ぎがいない父親の欲望に従い、オスカルは疑うことなく剣術に励み男装をし、近衛兵として出世する。

うおお。なんと真面目なっ!


漫画を読んで泣いたのは「ベルサイユのばら」が唯一無二の存在。わたしもオスカルのように、自分の信念のためなら地位も名誉も捨てる!と誓った十代後半からもう数十年。幸いなことに捨てるべき地位や名誉はなかったけれど、抱えている「〜べき」がたくさんあって、我が子を苦しめた。

この物語、自由と平等と愛に生きるヒロインを描いているけれど、引き受けた立場から解放され、本当の自分を取り戻す再生のストーリーなのだな、と昨日、ふと思った。

オスカルは後継ぎという役割を与えられ、王妃の警護という職務に邁進していたが、父親から突然嫁に行けと言われる。

ぬはっ! なんという身勝手なっ!!

(実のところ、不安な時代に娘の身を案じ、身を守るために女として生きろと言ったのだが……にしても勝手だ)

嫁ぎ話をきっかけに、オスカルは、選択の自由もなく家のために嫁がさせられる女という存在の哀しさを知り、親から与えらた役割ではない、ありのままのわたしとして生きていくことを選ぶ。

与えられた身分や役割から、自分の奥底にある真実を取り戻し、自分自身を味わう喜びとともに革命の中に死んでいく。

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皮膚や髪の毛が剥がれて再生するように、ひとは何度も殻を脱いで変態するものだと思う。変態するたびにあたらしく成長する。

ひとの集合体である国も、古い殻を脱いで変態し続けるのだろう。

人類はこうして、破壊と再生を重ねて、三歩進んで二歩下がるの歩みで進化しているんだろうな。


だからわたしも亀の歩みで三歩進んで二歩下がるを繰り返す。

このところ、オスカルのように自分を解放して変態しはじめているひとがたくさんいるように思う。わたしも古いじぶんが剥がれるのを感じてる。

ということは、革命前夜なのかもしれないな。


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