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【読書感想】人はなぜ「美しい」がわかるのか 橋本治著 2/4

書籍タイトル 人はなぜ「美しい」がわかるのか

  • 著者 橋本 治 

  • 出版社 ‏ : ‎ 筑摩書房 (2002/12/19)

  • 言語 ‏ : ‎ 日本語

  • 新書 ‏ : ‎ 261ページ

  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4480059776

  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480059772

読書感想記事その1の続きです。
https://note.com/yamyam5656/n/n6831af49ba8a 
長文です。
著者の理論展開の流れに身をまかせて読み進めると、なんだか自分まで深い所まで行けたような錯覚におちいります。

【第二章 なにが美しいか】


 第二章では、著者は「美しいものが合理的だなんて嘘っぱちです p83」と、第一章で自ら立てた説を翻す論述を展開していきます。
 まず、「美しい」は主観ですが「美しいという制度」という側面もあると述べています。
そして他にも”美しい=合理的”が成り立たないような例を幾つか挙げています。
また合理的を追求した結果、美しくないものが町にあふれているとも述べています。

◇では、私が「面白い」「納得」と思った部分を、自分の覚えとして記しておきます。

 p66-68から抜粋
「美しいから価値が高い」は、たやすく「価値が高いから美しい」という錯覚を生みます。
 美術品というのは、古来、王侯貴族が自分の権威を世間に知らしめる目的で作られています。金や銀や宝石のような高価なものが使われているから、一流の芸術家を作品の完成まで長期間丸抱えする費用が莫大だから、というだけの理由ではなく、
「美術品は高価であってもいい、高ければ高いほどよい」という前提で、製作価値が高くなっているのです。
 つまり、「美しいもの=美術品」を追い求めるのは、前の時代に権力を持っていた人間達の「特別」を追い求めるのとおなじ。そういう意味では「美しいは制度」という側面を持っているのです。

p69 私は、美術品を見る時、「美しい」という基準を一時棚上げにして、その代わり「カッコいいかどうか」という、主観によって判断します。それが「カッコいい」と思えれば、それは「美しい」のです。「そのカッコよさの秘密はどこにあるのか?」と考えることは、「美しい=合理的」のありようを探すことで、私は「その美術品の美しさ、その時代の美意識のありよう」を考えるようにしています。

◇著者は「カッコいい」という言葉を以下のように分析しています◇

p54 「美しい」と「合理的」はやはり異質で、この二つの間には距離がある
p56「カッコいい」は、「美しい=合理的」を体現してしまっている言葉です。

p58 「カッコいい」は「各部から成り立つ総体が、それを見る者の目に“美しい” = ”合理的“を成り立たせていると実感される」です。そのように「カッコいい」は「総体のバランス=調和美」というかなり複雑な事態に対応します。
 
だから、ある人には似合って「カッコいい」という絶賛を浴びたその総体をそっくり真似た人が、「カッコいい」とは言われない事態を引き起こします。

P62 「カッコいい」はそれを実感して口にする人の欲望に直結した利己的な感動」です。利己的なのは「カッコいい」だけでしょうか。利己的な感動の代わりに、恣意的な判断と言う言葉を使うと、利己的から離れて高級なはずの「美しい」だって、かなり怪しくなります。

p61 一つ一つのものは「美しい」であるかもしれないのに、総体としては美しいにならない。
当人が美しいと思い誤っているだけのものかもしれないのです。その状態は「あれカッコいいから欲しい!」だけで、やたら物を集める収集家と変わるものではありません。

p64 この人たちの誤りのもとはどこにあるのでしょう?
それは美しいと言う判断基準を自分の外側にあるとしてしまっているところです。自分の内側にその判断基準がなくて、常に外側にある判断基準の適用ばかりを考えています。だからそこには判断ミスも起こりうるし、更には「恣意的な判断がまかり通る」という事態にもなります。

◇ 筆者は、一般的に「美しい」と対極にある自然界のものを二つ例に出して、合理的に説明すれば「美しい」と言えると述べた上で、それを否定しています◇

p72 「我が身と深い関わりがあっても、我が身とは一線を画したものもある」ということで、「それが合理的を表すこと歴然であって、もしかしたら、”美しい”に近いものであっても、”美しい”とはいいにくいものがある

p84「合理的な出来上がりをしているものは美しい」とか「美しいものは合理的な出来上がり方をしている」というのは、嘘です。なぜかと言えば、そこに「合理的」という言葉を登場させること自体が「人間の都合」だからです。

◇そして著者は、幼い頃の自分が美しいと感じた「夕焼け」と「青い空に浮かぶ白く光る雲」をどうして美しいと感じたのか、分析をしています。その時自分が置かれていた状況や気持ち、「夕焼けの茜色が、胎児が母親のお腹の中にいた時に見ていた景色に似ているから」という「合理的な説」も提示しています。その上で、次のように述べています◇

p85 なぜ夕焼けは美しいのか? この答えは「そういうもんだから」です。
p86 雲は空の上にあって、それを「美しい」と思う人間が見て、「美しい」と思うだけです。そういうもんです。ーそこに「合理的」という言葉を持ち込みたがるのは、「美しい」ということが実感できない人だけです。
 この世のありとあらゆるものは、ありとあらゆるものの必然に従って「美しい」のです。「ありとあらゆるものの必然とはなんでしょうか? 「ありとあらゆるものは人間の都合と関係なく存在している」ということです。

 p88 美しいは人の理解から外れている。だから、その認識は何の役にも立たない。それは関係がないとして人の認識する意識の中から存在を排除されている。しかし、もし人がそれに対して「見る」とか「聞く」とか言う関係を持ってしまったなら、その排除され黙殺されていたものは、人に対して何かを投げかけるようになる。その投げかけられたなにかを受け留めてしまったとき、人は、美しいと感じる方向へ進んでいくーそのような仕組みになっているのだろうと私は思っています。

 だから私は「人一般は美しいが分かるものである」と考えます。
美しいとは「存在する他者を容認し肯定してしまう言葉だ」と考えます。存在する他者が合理的であるかどうかなどは、どうでも良い詮索だと思っています。
 それは人が常とする「利害」とは別のところに存在しているものです。だから美しいと感じたとき、人は美しいと感じたものに対して距離を感じる。
 そして美しいと感じる時、人はその常の思考体系とは別のところに踏み込んでいる。だから、美しいを感じたとき、人は、同時に戸惑いを感じる。保留と言うことも強く意識してしまう。

 ◇著者はまた、石器時代の人間が打製石器から磨製石器を作り出したことを例に挙げて、人がものを「作る」ということから、なにが美しいかを述べています

p98 今の私達は「作る」ということに関してあまりにも鈍感になっていて、「作る」ということが、無数の「出来ない」を克服した結果なのだということを忘れています。

p103 ものを作る人間も「試作」をします。ためらいながら、その「ためらい」を克服しつつ、「作る」の道を進むのが人間です。しかし機械に「作る」を任せてしまった人間は、そのことがよくわからくなってしまったのです。だから、人の住む町は、「これは美しいはず」「これは合理的であるはず」「機能的であるはず」という、「観念がそのまま形になってしまった物」に侵され、それを修正することが出来ぬまま、「美しくない物」を氾濫させているのです。
「美しいを分かる」を回避した結果の時間的短絡が、この間違いを生みます。

記事その3へ続きます。

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