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【読書感想】人はなぜ「美しい」がわかるのか 橋本治著 ちくま新書 1/4

とても面白い本でした。平易な文章で、例えも身近でわかりやすいため、さらっと読めるので、なんだか理解できた気になります。

 しかし、いざ感想を書こうとすると難しい!

章ごとに要約して、そこに自分の考えを書こうとしましたが、出来ませんでした。なぜかというと、

人の「自然」は放っておいても訪れません。「積み上げられた経験」とその経験を放擲してしまう「度胸」との両方があって、ようやく訪れてくれるものー「正・反・合」の弁証法とは「人の自覚した自然」の別名のようなものでしょう。

本文 第二章 p110〜 人は「自然」であることさえ「意図的」である

「美しい」と「わかる」についての考察が、この「正・反・合」の展開で三つ編みを編むように章をまたいでずっと続いているからです。

 私などが意見をさし挟む余地がないのです。当たり前なんですけど。

ですので、私が特に「面白い」「納得」と思った部分を自分の覚えとして抜粋して書いておきます。
   
            ◇   ◇   ◇

 まえがきより 「人は個別に〝美しい”と思われるものを発見する」だから「個人の数だけ“美しい”があると私は考えます」そして「人というのは“美しい”を発見してしまうものだ」

 第一章「美しい」が分かる人、分からない

人 
p12 私は「人一般は“美しい”が分かるものである」と考えています。
p14「美しい」とは「合理的な出来上がりをしているものを見たり聴いたリした時に生まれる感動」です。私はそのように規定します。

p22 人というものは、自分が感動したものの正体を、「合理的」という言葉で説明されたがるものです。であるにもかかわらず、人というものは、その合理的と言う説明を、さっさと捨ててしまいます。「なるほど、美しい」と思えてしまえばそれでいいのです。

p28  それは、人というものが、「合理的を説く他人の言葉よりも、感動してしまった自分自身の実感に従うことの方が、ずっと合理的だ」と考える生き物だからです。

p26「美しい」は咄嗟に出る感動の言葉で、「合理的」は、そこに後からやって来る「他人の言葉」です。それは自分の口から出ようと、他人の口から出ようと、「合理的」を説明する言葉が、「他人の言葉」であることだけは変わりません。

p43-44「美しい」という言葉は、「美しい=合理的」であるようなものに出会った瞬間の、「あ・・・」とか「お・・・」というつぶやきの中から生まれます。それはつまり、判断停止、思考停止の中で生まれるのです。
「美しい」を実感することに慣れない人が、その突然の思考停止にとまどい、「なぜだ」とその合理的説明を求めるのは無理もありません。

・・・その避けようのないものにどのような対処をすればいいのか? 簡単です。美しいがどういうことかわからなくすればいいのです。美しいがわからなければ美しいという実感に出合って、思考放棄を強いられる必要もない。「美しいがわからない人」はそのようにして登場するのです。

・・・「美しい」がわからなくて、「美しい」を苦手とする人たちは理性的であることが好きで、合理的であることが好きで「なんでも自分で判断して決めたい」と思っている、主体的が好きで意思的が好きな人たちです。
P45 「美しい」に関する直感の訪れはある意味襲撃です。・・・自分と関係のない外からの力によって思考を停止させられるなんて苦痛以外のなにものでもないだからこそ「この停止の時間を短くしたい、排除してしまいたいと思うのです。つまり「美しい」と思えるシチュエイションの意識的な排除です。
それをし続けるとどうなるか?
「美しい」を開花させる時間がなくて「美しい」がわからないままになってしまいます。
 こういう人達には「理解力」があります。「理解力」だけあって「類推能力」がありません。分かることだけは分かるが、分からないことは分からない」で終わりです。「分からないこと」は排除されて存在しません。だから「分かることだけ分かる」理解能力はあって、「分からないことを分かる」の類推能力は育ちません。「だから”なに”が美しいかを教えろーそうすれば理解して覚える」という発想をします。

[やむやむの感想]
たまにこういう人達が作ったと思われるアート作品に出会うことがあります。出来映えは美しく、完成度は高い。しかし、それを観た人々がどう思うか、何を感じるか、あまり想像されていない作品です。

記事その2へ続きます。

 


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