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狩野芳崖「継がれる想い 悲母観音からはじまる物語」展下関市立美術館(山口県)その1 2024/2/6~3/17

 この展覧会では、狩野芳崖「悲母観音」(東京藝術大学)、「仁王捉鬼図」(東京国立近代美術館)を中心に、彼の直弟子が描い芳崖作品の模写や、明治期の東京美術学校の画学生から、今現在、現役で活躍している画家まで、彼の作品に影響を受けて、それらから派生して描かれた作品が多数展示されています。
 
 狩野芳崖(1828-1888年)は、明治前期に米国人アーネスト・フェロノサの元で新日本画の制作に取り組み、岡倉天心とともに東京美術学校の開校に尽力した一人として知られ、東京都台東区谷中の長安寺に墓があるため、東京(江戸)近郊の出身の画家と思われている方が多いかもしれません。

 彼は、現在の山口県下関市周辺地域にあった長府藩で代々御用絵師を勤めた家に生まれた人です。
展覧会の開かれている下関市立美術館は彼の地元です。
 画家の死後も影響を与え続ける作品そのものの持つ力と、人間の絵画制作活動の不思議さと尊さを感じた展覧会でした。
そして、彼の作品から受ける何とも言えない迫力と、醸し出される凄み。
これは彼の過ごした土地や時代背景と切っても切り離せない関係にあると改めて感じました。

1-1 展示作品を鑑賞した感想 

私が本展覧会で一番観るのが楽しみだった作品は「悲母観音」です。

《 悲母観音図 》1888年 明治21年
東京芸術大学蔵

 私はこの絵に、生命誕生の神秘そのもの感じます。観音菩薩の持つ水瓶からつながる一条の水の先には玉に包まれた嬰児の姿。その下方には、臍の緒のように腰に巻かれた布が垂れています。嬰児の表情は、この世に生を受けたことの驚きに満ちています。観音菩薩が存在するのは、この世でもあの世でもない無限の空間、時間の観念の無い次元のように見えます。

絵の全体から有機的な印象を受けます

「観音菩薩」が象徴する仏教の教えや、下図の研究からキリスト教の聖母子像の影響を見てとる説、様々な見方が出来ると思いますが、そういった宗教的な観念を超越した、ヒトや動物の生殖 (性愛ではなく) から、微生物の細胞分裂に至るまで、命の生まれる不思議の深遠を描いているように思います。

下図の一部 (東京芸術大学蔵)
《悲母観音》下図 狩野芳崖
衣の裾、足元の雲の輪郭線

この作品が絶筆となり、狩野芳崖は肺病の悪化のため61歳で逝去。
最後の仕上げを親友の橋本雅邦に託したそうです。
本当にこの絵は、毎日眺めていたい魅力があります。

もう一つの代表作《仁王捉鬼図》(東京近代美術館蔵)

《仁王捉鬼図》1886年 明治19年
東京国立近代美術館蔵
宝珠を盗みにきた餓鬼を仁王が捉えている
餓鬼は六匹いる

 当時ヨーロッパで盛んに使用されていた合成無機顔料で描かれています。
絵の具はフェロノサから提供されています。
時の総理大臣伊藤博文に、芳崖が日本画の優れている所を述べたところ、何事も西洋偏重の伊藤博文から「日本画で西洋絵画のようなことができるか」と問われました。その要望 (挑戦?)に答える形で制作されたそうです。(公式図録p104 より)

何色あるのだろう

 第二回鑑画会に出品されたこの作品を見て、伊藤博文は大いに満足したそうです。
コミカルな顔の仁王と餓鬼、天井の照明器具や、仁王をとりまく煙のような効果表現。鮮やかな色使いが目に飛び込んできます。
几帳面にかかれた菱形のタイルと天衣の柔らかな曲線の対比も目を引きます。
いま見ても新しい印象を受けます。

《呂洞賓鉄拐図》
絵の人物たちは、奇人変人のようないでたちなのに、いかにも並外れた知恵がありそうな、近寄り難い雰囲気が漂います。私には、芳崖が二十代の頃、江戸で出会った佐久間象山や勝海舟の面影が投影されているように思えます。

《呂洞賓鉄拐図》
山口県立美術館蔵

 狩野芳崖は、1846年(弘化3)数え19歳の時、藩費支給による江戸留学が許可されて、木挽町の狩野派画塾に入門します。狩野勝川院雅信のもと、数年間修行しています。
この画塾は当時、奥絵師四家の中でもっとも弟子が多く、そのほとんどが諸侯のお抱え絵師の子弟でした。同期に橋本雅邦 (七歳年下) がいて彼とは生涯にわたる友人関係を結びます。芳崖は直に頭角をあらわし、23歳頃には塾頭をつとめます。
 会場展示の年譜に、1851年(嘉永4)、三村晴山の紹介で佐久間象山 の開いた近代砲術指南塾に入門、とあります。

前半の年譜は
図録には掲載されていません

 これはなかなか興味深い・・・と思って少し調べました。展覧会から少し脱線しますが、彼の作品を鑑賞する上で重要だと思うので記しておきます。

〇当時、狩野派画塾の向かい側に象山塾があり(※現在の銀座6丁目にある《象山塾跡地》案内板の説明文より)砲術の実技と、西洋式近代兵術についての座学を教授していた。この象山塾には勝海舟、吉田松陰 、河井継之助、橋本佐内、坂本竜馬ら諸藩から多くの藩士が集った。彼らと直接に話をすることはなかったとしても、その様子を遠巻きに見ることはあったと想像される。象山塾は、1854年(嘉永7)に、吉田松陰が起した米国船密航未遂事件に連座して佐久間象山が国許蟄居を命じられたため、閉鎖。

〇吉田松蔭 (1830-1859) は、芳崖の二歳年下の萩藩士。萩藩と長府藩は同じ長州というくくりのなかで、主藩と支藩の関係。藩主はどちらも元をたどれば安芸高田の毛利氏で、本家筋と分家筋の違いだが、それぞれ独立した藩政を敷いていた。国許では二人は面識はなかったと思われるが、江戸にいた間に知り合いになっていた可能性はある。

〇象山塾に芳崖を紹介した三村晴山について。三村晴山(1800-1858)は、信濃国松代藩真田家の御用絵師で、狩野勝川院の先々代井川院に入門。先代晴川院の時に画塾修行を終えるが、画塾の指南役と勝川院の後見人として狩野家に請われて江戸に残り、幕府の絵画御用を手伝った。芳崖も絵の指導を受けている。佐久間象山(松代藩士)とは昵懇の間柄。
 三村には、御用絵師の他にもう一つの顔があり、水戸の徳川斉昭、薩摩の島津斉彬と通じ、松代藩主真田幸貫の命を受けて、彼らから得た情報を藩主に伝える政治的任務を果たしていたといわれている。そんな三村が芳崖を象山塾へ紹介したことは興味深い。

〇芳崖は、画塾を修了したあとも、数度上江しているようで(江戸城下にある長府藩邸で絵師の御用があったことだろう)、京都嵐山のスケッチが残っていたり、1857年(安政4)の米国公司ハリス江戸城登城の様子を絵入りで手紙に書き、国許の妻の父親へ送っている( 掲示の年譜より。実物の展示はなし )
芳崖も画業修行や絵師の仕事にかこつけて、藩命を受けて積極的に江戸や京都の様子を情報収集する役目をおっていたのでは・・・?
このあたり、御用絵師の実態について色々と想像がふくらんで面白い。

〇攘夷運動の激しく盛り上がった長州において、狩野芳崖が仕えた長府藩は、「七卿落ち」のうち「五卿」が一時期居住し、高杉晋作が藩内の旧守派(俗論党) を掃討するために奇兵隊を挙兵した功山寺や、1863年と1864年に起きた欧米四国列国との武力衝突(下関事件、馬関戦争)の舞台となった関門海峡があるところ。このとき海上の艦隊から真っ先に砲撃を受けて破壊された櫛崎城址の台場(砲台)は、藩主の屋敷や芳崖の住居からほど近い。

〇1863年(文久3)京都にて「八月十八日の政変」、1864年(元治元)「禁門の変」、それを受けての1864年(元治元)と1866年 (慶応2)の二度にわたる長州征伐 ( 幕長戦争 ) 。藩内はかなり騒然として緊迫した雰囲気だったと想像される。長府藩内でも一般の町人、村民が兵隊に駆り出されていた。野菜の仲買人で編成された朝市隊というのもあった。

 象山塾に集う諸藩の藩士たちが、活発に議論したり談笑する様子を直に見て、御用絵師として藩主一族の肖像画を描いていた芳崖。
「天誅」と称した人斬りや暴力行為、軍備調達のため押し込み強盗まがいの強奪行為が各地で起きた物騒な世の中で、江戸と下関長府との往来では、見聞した物事は多かったと思います。
 
 ある時代に突出した思想や並外れた才気を持つ人物、強い指導力や権力を有する人々、戦や政変にからんだ暴力沙汰に臨んで殺気をはらんだ人間たち。 
芳崖が目にした実在の人々の姿が、絵の中の人物に投影されているように感じます。

《羅漢図》(山口県立美術館蔵) 軸(双福)

羅漢図 双福 右
飛沫や雲の表現
生き物のように柔らかい
羅漢図 双福 左
神獣の闘いを
高みの見物

 浪や雲の濃淡、衣の裾や布の襞は、過剰にならず的確に描き込まれています。古画や仏像にその手本になる形象があるのでしょうが、それを記号ととらえて形式的に描いている、というのではなくて、
実在する人間の発する「気」や、異様な雰囲気を芳崖は確実に感じ取り、それを紙面に表現しようと試みて描き、それが見事に果たされている、と思います。

こちらは、十代前半の頃に芳崖が描いた作品

《孔丘尊蔵》1840年(天保11)
数え13歳の時の作品
《翁図》1841年(天保12)
数え14歳の時の作品
《馬関新真景図絵》の一部 1842年(天保13)
数え15歳の時の作品

 父親狩野晴皐の適切な指導のもと、幼少の頃から絵の修行に励んだとはいえ、非凡なものがあります。御用絵師として必要な作画技術を元服 (15歳) までに、ほぼ習得しているような印象を受けました。
 1860年(万延元) 33歳の時には、前年に火災で焼失した江戸城本丸の修復建築のため、師匠の狩野勝川院雅信に江戸によばれて、大広間天井画を担当しています。この修復作業には、狩野友信、結城正明も参加していました。
 修行を終えて江戸から長府藩にもどって御用絵師として活躍していた、30〜40歳ごろの作品。

《八臂弁財天》山口県立美術館蔵
弁財天の姿が繊細に描き込まれている

《鏻姫像》1857年 
第十二代長府藩主毛利元運の娘
抱いているチン(犬)の衣装も豪華

《花鳥図屏風》

鳥の姿が丁寧に描かれていました

《林和靖図》(東京国立博物館)

梅と鶴が写実的です

 1863年(文久3)と1864年(元治元)には、下関戦争とよばれる長州藩とイギリス、フランス、オランダ、アメリカの列強四国の間で、二度の武力衝突が起きます。この時期、狩野芳崖(37~38歳)は戦場となった馬関海峡(関門海峡)の測量に従事して他の絵師とともに「馬関海峡測量図」を完成させます。
 海岸線の正確な測量と地図製作は国防のかなめ。藩命に従って役目を全うするのが己が務めと心得て、銃や大砲は扱えないが測量器具と絵筆で藩に貢献する、みたいな気概を持って臨んだのではと想像します。

 下関戦争に敗れた長州では、欧米の軍事力と科学技術力の高さを目の当たりにして武力による攘夷は不可能とさとり、イギリスに接近して軍備、工業技術の近代化・西洋化を目指す方針に転換します。 列国四国連合はこの戦争による賠償を徳川幕府に対して要求したために、幕府はその対応に苦慮することになります。もともとあった諸藩の幕府に対する不信感が一気に高まり、世の機運は急速に倒幕へ向かいます。

明治政府発足が1868年。芳崖44歳の時に廃藩置県(1871年)。
彼は藩禄を失い、生活のため養蚕に取り組みますが失敗し、家財の多くを失います。この後数年間は、売り絵をして米や炭を手に入れる苦しい生活が続きます。
 この時期の作品。線は太く柔らかく、画題は大衆的なもので、それまでの作品とは明らかに違う作風でした。とにかく売れることを目的に描いていたのでしょう。ただ「丁寧だな」という印象は共通して受けます。

右 弁慶図 
左 常盤御前図

 藩主一族の肖像画を任され、江戸城本丸修復事業では大広間の天井画を描いた彼が、近隣の農村に絵を売り歩くまでに、暮らしが凋落していったのです。
周囲には同様に落ちぶれた家があったでしょうし、逆に新政府への仕官が首尾よくいったり、帰農や商いが成功して維新後の方が豊かになった家もあったでしょう。
 時代の流れに乗れないものは、由緒や伝統があっても容易に廃れて滅びてしまう。身をもって体験した現実が、教訓として彼の心に深く刻まれたのではないでしょうか。

 後年の彼は、西洋に通用する新しい日本画を描かねばならぬ、さもなければ、日本画の文化そのものが滅びてしまうという相当に切実な危機感を持って絵画制作にあたっていたのではないかと想像できます。またそれは、東京美術学校設立にかける原動力にもなったことでしょう。

 フェロノサと出会い、二人が意気投合したのには、芳崖が狩野派の伝統的な画法に拠る熟達した腕と美的センスを持っていたことに加え、彼が西洋絵画から画題や構図、技法、画材を積極的に取り入れて、その画風を変化させることを厭わなかった彼の作画姿勢による所が大きいのではないかと思います。

 彼の困窮を見かねた友人藤島常興 (幼馴染の絵師仲間 )や旧藩主の勧めにより、彼が父祖の地、下関長府を引き払い東京の芝に居を移したのが50歳 (1877年) の時。当時としては隠居しておかしくない年齢です。かつて江戸城修復のために師匠によばれて上京した時とどんなにか心持が違ったことでしょうか。

上京後も二、三年ほどは職がなく、輸出用陶磁器の下絵書きをして生活をしのぎます。友人橋本雅邦の厚情で、島津公爵家雇いの絵師の仕事を紹介してもらい、経済的にやっと安定して絵画制作に集中できる環境になります。

 展覧会に出品した作品がフェロノサの目にとまり、彼に雇われて新日本画の制作研究に専念するのは56歳頃からです。
1884年(明治17) 芳崖は文部省御用掛となり東京美術学校準備に携わります。1886年(明治19) 59歳、狩野友信らと図画取調掛となり、仮事務所が小石川植物園内に作られました。同年、「仁王捉鬼図」を第二回鑑画会に出品し、古美術調査のため4月の一ヶ月を岡倉天心、フェロノサとともに奈良の諸社寺をめぐるなど、精力的に活動しています。

1888年(明治21) 11月、61歳で肺病のため死去。《悲母観音》が絶筆。東京美術学校開校は彼の死の三ヶ月後でした。

展覧会入口にあった狩野芳崖の言葉
「人生各自独立の宗教なかるべからず。美術家の宗教は美術宗あり、復た何ぞ他に之を求めんや」

 青年期から壮年期を御用絵師として過ごし、幕藩体制の崩壊とともに社会的存在を失った狩野芳崖。彼の立場では藩政に対する自分の考えを口にすることは出来なかっただけに、絵画制作、美術にかける情熱は、宗教の求道精神のように強いものになったのではないかと思います。

記事その2へ続く 
狩野芳崖「継がれる想い 悲母観音からはじまる物語」下関市立美術館その2 2024/2/6~3/17 | 記事編集 | note
 展覧会の後半部分の感想と、下関市立美術館周辺の狩野芳崖ゆかりの地を紹介しています。

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