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Netflixオリジナル長編「私というパズル」

たっぷり二時間!シリアスな物語なので!時間と体力のある時に見るべし!

ボストン。マーサは出産を間近に控えており、自宅で出産する準備を整えていた。夫のショーンは不器用ながらも懸命にサポートしていたが、その甲斐もなく死産になってしまった。悲しみのどん底に突き落とされた2人だったが、その悲しみを思うように分かち合うことができず、夫婦の間に徐々に溝が生じ始めた。そんなマーサに追い打ちをかけたのが母親のエリザベスだった。エリザベスは「助産師(イヴ)を告訴して然るべき責任を取らせるべきだ」と強硬に主張し、マーサを強引に原告席に着かせたのである。
本作はマーサが死産の悲しみだけではなく、夫や母親、助産師とも向き合うことで、ゆっくりと自己を取り戻していく姿を描き出した作品である。

ヒロイン、自宅出産で死産。
この出来事がヒロインとその周囲に与える影響――、こうした出来事に見舞われた人間(当事者から第三者まで)は、なにを思いどう行動するのか、が徹底的に丁寧に描かれる。ひとつの題材をガッツリと掘り下げ、じっくり撮りきった作品であった。

冒頭の自宅出産シーン

実際に出産を経験された方はどのように感じるのだろうか?

妊娠も出産も経験のない私にとっては、この冒頭の自宅出産シーンは「リアルに」感じられ、あらためて出産というものが「お腹を痛めて我が子を産む感動!」といった「大雑把な美談」では済まされないヤバい出来事に思えて、直視するのが怖いほどだった。

しかもヒロインが選択したのは、設備の整った病院での分娩ではなく、自宅での、助産師と夫と己と我が子、4人きりの出産なのである。出産が魔王だとしたら、あまりに心許ないパーティでは?と感じてしまう。彼女にもきっとなにか理想があってのことなのだろうが、「ヘイ、ユー、なんでこの選択をしたんじゃい??」と開始数分で思わずにいられんかった。

夫は徹底的にクズ、なんなら部外者、でいいのか?

この死産でどう考えても心身ともに一番負担だったのはヒロインである。
しかしながらもちろん、亡くなってしまったベイビーの父親であるヒロインの夫だって、深く悲しみ、それでもヒロインを支えようとし、喪失感から夫婦ともども回復しようと働きかけもする。
だがいくつかの要因が重なり、彼はヒロインとこの問題から徐々に離脱(離別というべきか)していってしまう。
それは彼特有の弱さのせいも確かにあるのだが……
父親って出産に立ち会ってもなお、出産時の母と子の物語にとってはこんなふうに部外者なのかもしれないなと感じた。彼の感じる悲しみも喪失感も、ヒロインへの愛も、すべて本物だったのに、それでも。
「父親である彼すら部外者なんだとしたら、この出来事はどこまでが当事者なんだろう?」
この問いは、映画を最後まで見る中で私の中に刺さってきたテーマでもある。

ヒロインはなにを思っているのか

この映画の秀逸かつ挑戦的なことのひとつに「ヒロインは多くを語らない」ということがあるのではないかと思う。
映画は出来事からの半年ほどの期間を時系列で描くので、ヒロインにとって死産という出来事はきわめてフレッシュなはず…しかし彼女は、泣き叫ぶとか気持ちを吐露するとかパニックになるとか、そうしたことをしない。
「きっととっても辛いはず。でも今どう感じて、なにを考えているのかしら?」
そして周囲は、彼女を置き去りにして物事を進めていく。だれのためなのかわからない正義のために。周囲の動きが、彼女の本心とずれているらしいことだけは私たちにもわかる。

物語のラスト、ヒロインはついに彼女自身の気持ちを見つける。
出産の喜びは、ほんの一瞬だったかもしれないけれど、確かに彼女の手の中にあった。それが失われたとしても、何者かを断罪することは、だれも望まないと。
周囲とズレながらも、時間をかけて、彼女が彼女の答えを見つける結末は、静かながらとても感動的だった。
タイトルの通り、ひとつひとつのピースを拾い集めて、ヒロインは出産後の自分の実像を完成させたのだ。

当事者と周囲はズレている。

この映画の物語としての結末とは別に、「当事者と周囲は得てしてこのようにズレちゃうね」ということを感じた。
ヒロインの身に起こったことは、確かに不幸で残念な出来事には違いないだろう。だが彼女の気持ちを置き去りにして、周囲がその「落とし前」をつけようとする様子は、見ていてとても苦しい。
「だれを裁くべきだ」「原因を究明すべきだ」「償われるべきだ」
しまいには
「なぜ立ち上がらない?」「なぜ向き合わない?」「なぜ悲しまない?」
とヒロインを責めさえする。

こうしたことは、我々の身の回りにもよくあるのではないだろうか?
当事者がまだ混乱の最中にいて、自分の気持ちを見つけたくても見つけられない・どうすべきなのか?どうしたいのか?わからないし決められないでいるというのに、周囲が勝手にそれを決めつけたり、行動させようとする。

私たちは、「当事者」にも「周囲」にも成り得る。ひょんなことから「被害者」にも成り得るし、また「加害者」にも成り得る。
自分以外のだれかの気持ちを決めつけずに、当事者が向き合う様を静かに見ていられる人間でありたいと、そんなことも思わせてくれる映画だった。

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