【書評】個性自体はどうでもいいし、世界は想像以上にガチャかもしれないというお話
また2冊おもしろい本をご紹介されてしまったのでホイホイ買ってしまいましたの巻。
1冊目『正直個性論』、個性と自己実現について。
2冊目『デジタルエコノミーの罠』、ウェブサイトのトラフィック≒利用者数と収益について。
なお、この記事は神奈川県シカゴ市在住、意識低い系バ美肉VTuberの夜御牧(やみまき)れるが書いています。
水野しず『正直個性論』
2024年つまり今年の4月に刊行された本。著者の水野しず氏は現在文筆業がメインのようですが、アイドル活動歴もあります。
わたくし思いますに、本書の特徴的なところは「個性的な生き方というものが本当に本人(=読者、および著者。)の幸福に結びつくのか」というところにフォーカスを置いて論じているところです。
もう少し掘り下げると、「世に言う『個性』を気にしている人の多くは、自分自身の希いを考えているような気がするだけでそうじゃないかも。他人の期待する役割を自発的に演じるように(社会構造的に)仕向けられているだけの人もよくいる」というメッセージと(ヤミマキさんは)解しました。
序文は「今から常識では考えられないほど正直な個性の話をします」という章題から始まります。ただし、少なくともヤミマキさんの世を忍ぶ学生時代にも「個性とはファッション感覚で付け外しするような記号か?」「個性を尊重することは社会的に正しいのか?」といった議論はありました。が、彼らはあくまで「他者として見た誰かの個性」について話していたと思います。
それに対して本書は徹頭徹尾「本人にとっての個性の意義」について論じている。
「個性」の多義性
一つ注釈しておくと、著者の感覚は前段に近いようで、おそらく自身の「個性」を他人にとって価値があるかで決められたくないのです。著者の中では個性は直接的に見世物として売り買いするものではないようなのです。
なので後段の、「能力主義」の角を立たせない言い換えとして「個性」という語句を用いることに疑問のない人とはいくらか視点が異なる、はず。
実のところ辞書を引いたって「正統な日本語における意味」に限ってすら複数ある単語自体は珍しくありません。
しかし本書1章「個性」の異議申し立ては、「個性」についての先の2つの意味が混同されたまま否定しがたい素晴らしい価値観として「個性を重んじること」が広まった結果、各人が息の詰まるような自縄自縛に陥っているのではないかということ(とヤミマキさんは理解しました)。そして著者自身も紛れもなくそれに囚われていた1人であったと。
このあたりの問題は昔から本田先生あたりが「やりがいの搾取」等の諸問題を論じられていたところですが、本田先生の論調をどう感じるかは別として、社会学系の学者さんなのでか改善については社会の側に働きかける姿勢だったと思います。賛否は置いておくとして、社会というのは一部の成功例を除くとそうすぐに変わるものではありません。なら変わるまで座して待つしかないのか。
本書の著者は読者自身に対してしか語りかけないし、その内容は読者個人のなしえることが中心です。
(ヤミマキさんは「なぜ個人の裁量が過大に見積もられやすいのか」についてもう一つの別の原因についての仮説を持っていて、生来的あるいは環境的な適性の差についてあまりにも無邪気に大差ない≒努力で埋められるという仮定が置かれがちなこともあると思っているのですが。)
わたし自身は「自分のやるべきこと=メシの種」と「自分のやりたいこと」はかっちり分けて考えるほうだし、世を忍ぶ仮の職場も「キャリアプランは自分で責任を持て」「ただし仕事とプライベートははっきり分けろ」とメリハリのついたところ。だものでその世代の友人がいつまでも自分探しをしていた理由がまるで解せなかったのですが、彼がそうせざるを得なかった背景というのがちょっと理解できたように思います。
さて、ここで最初の話に戻るのですが、著者は個性なるものというものにそこまで他者への理解を求めません。
引用箇所の「言語の外側に広がる世界」という言葉は文筆家らしい。今のところ頭の中そのものを直接他人に伝えるコミュニケーション手段というのは開発されていないので、誰かに何かを伝えるときはそれが言語であれポンチ絵であれ表現形式による制約というものが必ず存在するのです。誰かどころか自分自身ですら言葉か何かで表せない部分については思考の整理なんてできないわけで、「自分らしさ」が既にあったとして他人どころか自分ですら理解していないことも多いと示唆されます。
本当に他者に理解されないことに気を向けるのが良いのか?というのは(わたしは肯きますが)その人の性格にもよるような気もします。著者はそもそも未調理の個性なんて大して役に立ちはしないという風に書いていますが。さておき個性というのは著者の言うように同一性よりもむしろ他者との差異によって決まると思いますので、それが周囲から理解しがたいところにあることは疑いづらい。
才能があるとかえって達成感を見逃しやすい
この点については世を忍ぶ仮の知り合いの教育関係の人も同じようなことを言っていました。まだライバルがいるような環境に身を置いていないなら、才能のある分野のことは頑張った感を出すこともなくすらすらとできてしまうので、本人はかえって達成感など感じづらいそうなのです。「勉強してないアピール」みたいなカッコつけでもなんでもなく。
なので、嘘偽りなく自分にとって平凡でしかないなら、そしてそれが人とは違うようなら、著者の言うようにそれもまた個性なのでしょう。
また、その点に自覚的になると人にも優しくなれるはずです。平凡の基準が高すぎると周りが実態以上にバカに見えるので。
誰にとっての「個性」か?
3章では個性という単語はあまり直接的に使われないのですが、社会というかその人以外の誰かの期待を満たすような何かを装うことから生じる問題について論じているので根っこは同じです。
本人にとってはそれが自己実現のつもりで始めたのに、実現しているのは「自己」ではないという矛盾、そこから生じる諸問題を類型化して著者の考えうる対策を書き出し、この章に本書の約半分の紙面を割いています。
「ゴールドラッシュで一番儲けたヤツは誰か……ちょっと考えればわかるだろ」(三田紀房『インベスターZ(2)』コルク、p.182)という話で、昔から自分磨きやらビジネスセミナーやら各種投資やらこの層をターゲットとした商売がごまんとある。厳しいって。
もちろんそれが本当に本人の望みならみんなハッピーかもしれないけれど、単にそうすると成功者風になれる気がして手をつけて、本心では乗り気でないのをごまかしながら続けて良い結果になっていない人が世の中に多いのではというのが著者の問題意識。
それな。
結局ヤミマキさんがとある界隈から距離を置いたのもこれを避けたかったからに尽きます。やっぱりSNSみたいなものが主戦場の界隈だと本人のキャパシティを超えた厄を溜め込んでいる人はいる。人が多く集まってくるところが良いところとは限らない。残念ながらわたしも出来た人間ではないので、朱に染まらないよう離れるしかないのです。
本書は「個性」という言葉のオブラートで包まれたもっとおぞましい何かを告発した本でしたが、炎上トラブルやハラスメントへの風当たりが強くなった昨今、同種の婉曲表現というのは年々増えているように思います。著者も書いていますが「私たちは日常会話をかなり雰囲気だけでやっています」(「『正直個性論』Q&Aコーナー」)からね。その中には軋轢を避けるための方便に過ぎないものも多々あるのですが、やはり間違った郵便(デリダ感)が世に広まってしまうこともある。
ヤミマキさんは内心人の話の裏を当否はともかくとして読みすぎるほうなので(これでも)あまり表に出さないようにしているのですが、その違和感はすぐには捨てないでおいても良さそうだと思いなおしました。
マシュー・ハインドマン/訳:山形浩生
『デジタルエコノミーの罠』
原著(英語版)は2018年刊行なのでWeb論という分野では一昔前ということになるかもしれません。
オープンウェブが誰にでも商機のある開かれた世界というのはもはや空想で、現実には一度差をつければなかなか追われることのない勝者総取りの世界だ、ということを理論的にもデータ分析結果からもいえると論じた一書です。
なぜ寡占集中が起きるかといえば、サイト間の移動コストというものが長期的には極めて重大な意味を持つそう。
ただし、半分くらいのページ数をアメリカのニュースサイトの分析に割いているという点には留意が必要かもしれません。どちらかというとサイト(プラットフォーム)レベルの話が中心で、テナント(YouTubeですとチャンネル)レベルの話は直接的にはされていないと思う。
正直なところ、邦訳も3年前の本ですし、この本の内容を実務でどう活かせるかという部分についてはとっくにSEO屋さんには広まっています。なのでまあ、自動車を買いに行くときにわざわざ熱力学の勉強するか?みたいな話と言われると言葉に詰まるのですが、SEOテクニックの背後にあるインターネット力学みたいなものを知ることができます。
世界は一台の美しい<ガチャ>に至るべく出来ている
マラルメ。
本論ではなく基礎理論の引用なのでさらっとしか触れられていないですが、『デジタルエコノミーの罠』中にいわゆるパレートの法則≒2:8の法則が生じる原因についての数学的な説明もあります。
2:8の法則は単なる経験則だとされることが多く、それに近いものを理論的に説明している文献は寡聞にして初めてです。
「独立変数をかけあわせる」というのがどういう演算なのか分かりづらいですが、さいわいなことに社会学分野(?)には非常にわかりやすい例題があります。
説明するまでもないかもしれませんが、正規分布(ベルカーブ)っていうのは現代人が何の前提も与えられなかった場合に想定しそうな、中間層が分厚くて上位と下位はあまりいないっていうグラフです。
それに比べると、対数正規分布は基本的に下位はすし詰めで上位がずば抜けているというグラフになります。言い換えると、対数正規分布では中央値≒100点満点中50点というのは相対的にはけっこう上位に来ます。
「婚活女子の考える『普通の中の普通の男』」のお話はたぶん他人事として聞いた人も多いでしょうので、そういう人には笑い話で済んだのでしょう。ごめん、笑った。
しかし、ここで『デジタルエコノミーの罠』の引用箇所(というか孫引き箇所……)を読み返したい。
他人事ではないのです。
要するに空想のインターネットもとい世界に対しては平均マンがいっぱいいるようなデータが想定されがちだが、現実世界では一部のSSRが圧倒的な成績を稼いでいるようなデータが出るもののほうがずっと多いかもしれないということなのです。つまりガチャです。それもソシャゲ風の、SSR確率5%SR確率15%とかで大当たり以外目に入らないような。ゼクス、強者など何処にもいない!人類(のほぼ)全てが弱者男女なんだ!
もちろん目に入らないだけでしっかり根を張っているんですけどね。日本に法人企業は100万社単位で存在しますが、そのうち上場企業はわずか数千です。
そう考えると80点どころか50点取れる人でさえけっこうかなりなかなかにレアなのです。
何でもないようなことが幸せに思えてきませんでしょうか? ですね❣ ですね❣
二書の突きつけた空想と(それぞれの著者にとっての)現実をどう受け止めるべきでしょうか。
仮に世界のルールがクソだと感じたとしても、うわさに聞いた蜃気楼の街に辿り着くべく逃げ水を追うより、そこがインパールだと知ったうえで少しでもマシな陣地を取ったほうが良いんじゃないかな、とわたしは思います。
あ、ちなみに、世界のルールがとてつもなくブルシットだと感じてしまったら、損失回避バイアスが働いて分の悪い賭けに出やすくなると想定されるので、しばらく大きな決断はしないほうが良いのでしょう。
バ美肉VTuber夜御牧れるは、ささやかに生きている主役を応援しています。(ちゆ構文)