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さよならなんて、まだ云えない


 日々、生きているだけで心に膿が溜まる。空虚な私の内側で膨張し続ける。行き場のない焦燥、寄る辺のない寂しさ、育つ劣等感、思い出すのはあの冬の日の憧憬。

 ただ膿を吐き出したくて始めた音楽なのに、今では「いいものを作らなきゃ」、「早く出さなきゃ」、「待っている人がいる」、そんなことを考え出す始末だ。私はこんなにおこがましい人間だっただろうか。一体なんのためにやってたんだっけ。

 街をひとり歩いている。靴のゴム底はペチャと鳴って道路にかじりつく。すれ違う女性の左耳にイヤリングが揺れている。あの日のことを思い出す。

 ○

 昔、付き合っていた人がいた。三年ほど同じアパートに住み、そして別れた。物語にもなりやしないよくある出来事。どこでどう出会ったか、どんなふうに過ごしたか、そんなことはわざわざ書く程でもない取り留めのないものだ。私の記憶の中にだけあればいい、それが思い出というものだ。


 二十代の初め、大学を卒業した私はそのまま新卒として就職をした。そして研修のために一時的にアパートを出ることになった。その引越しの前の夜――結果的にあの人と過ごした最後の夜となってしまったが――のこと。

「ねえ、夢ってある?」

 そう彼女がつぶやいた。シャワールーム。床のタイルを打ち鳴らす水音でその声はとても聞き取りにくかったが確かにそう聞こえた。

「夢? 私には夢なんてないけど、これから先もずっとあなたと一緒に過ごせたらいいなって思うよ」

 沈黙が訪れるまでの短すぎる瞬間、ただよう諦念の匂い、水音がノイズとなって私の心を掻き乱してゆく。何か言おうと言葉を巡らせたが、かけるべき言葉が見つからない。

 そうしていると、私の気まずさを察した彼女が口にする。

「あなたって、前は音楽が好きだったのに、今では私の方が好きになっちゃったね」

 言葉の意味を探る余裕はなかった。ひとつ言えるのは、それはきっと、あらかじめ用意されたセリフだったということだ。このやりとり全て、私の言葉さえも彼女の中では予定されていたものだった。


 窓の外では薄明かりの中に雪が舞っている。もう三月も終わりだと言うのにこの街では雪が降ることがある。そんな静寂に包まれたベッドルームに彼女の啜り泣く声が聞こえる。かけてあげられる言葉はやはり見つからない。後ろから抱きしめてあげることも今日に限っては憚られた。時計の秒針が時を刻み、この静寂を永遠に引き伸ばしてゆく。

 私は寝たフリをして、さっきの彼女の言葉をただただ頭の中で繰り返していた。


「じゃあ行ってくるよ。私が帰ってくるまで元気でいてね」

「うん、あなたもね」

 靴を履きながら、三年過ごしたこの部屋を眺める。私の荷物がなくなった分だけ部屋はすっきりとしていて、うら寂しさを覚える。彼女と離れる寂しさもあるがそれだけではない。シンクについた水アカ、冬の結露によってカビの生えた窓サッシ、荷物がなくなることであらわとなった積もる埃、それらが醸し出す三年分の疲労の気配が私の肺を満たして呼吸をしづらくする。

 ふと、このドアを開けて外に出たらもう帰っては来れないかもしれない、そんな予感が頭をよぎった。はっとして彼女を見つめる。その姿を目に焼き付けておこうとしたのかもしれない。小さな鼻、薄い目、少し上を向いた上唇、艶やかな黒髪が左耳を覗かせ、その下では見覚えのないイヤリングが振り子時計のように揺れている。

「それじゃあね」

「うん、じゃあね」

 そんなそっけないやりとりをして私はドアを開けた。「さよなら」は言いたくなかったから意識して言葉を変えた。昨晩降った雪が街並みを染めており、私の新たな門出を祝福しているようにすら見えた。

 なんという白々しさだろう。

 ○

 それから先のことはよく覚えていない。ひとつだけ覚えていることがあるとすればそれは、私は彼女に振られた、という覆せない事実だけだ。

 彼女の部屋に残してきた私の私物は全て手元に帰ってきた。全部捨てていいよと言ったが彼女はそれらを全て丁寧に梱包し送ってきた。

 作業をする彼女の姿を想像する。夕日の差し込む部屋、もう戻れないあの部屋、彼女の着ている服、陽光を反射してなびく黒髪、それはとても儀式めいて見えた。決別の儀式。その想像の中で彼女はどういう表情をしていただろうか。泣いていた? 笑っていた? それとも無表情だろうか。想像がつかなかった。

 そして、それらの荷物を手にした時、彼女の最後の温もりに触れたような気がして、例えようのない悲しみに襲われた。今まで生きてきて味わったことのない圧倒的な悲しみの大きさに心が塗りつぶされていった。ああ、終わってしまったのだ。

 私の心の一部分だった彼女。それを無理やりむしり取って作られた空虚。断面は化膿してグロテスクな様相を呈している。その深い闇の中に真っ逆さまに落下していく恐怖に私はただただ怯えた。


 次に訪れたのは断絶の感覚。私の人生の数直線上には、その終わりまで彼女の矢印が引かれていた。その矢印が「22」の目盛でプツリと途切れてしまった。私の人生において彼女の存在は文字通り消滅してしまったのだ。

 そうだ、これは死だ。実質的な死だ。もう私の人生に現れることがないのであればそれは死んだのと同じではないか。これは死別の悲しみなのだ。

 そして、高校生の時に祖父が亡くなったのを思い出した。小さい時からずっと優しくしてくれた祖父。私は悲しみのあまり三日三晩部屋に籠り泣き続けた。人が死ぬというのはこんなにもつらい物なのかとその時初めて知った。

 その時と比べて今はどうだろう。祖父には悪いが今の方が遥かにつらく悲しい。涙さえ出て来ず喉はカラカラに乾いて呼吸さえも難しい。そうか、泣くというのは涙を流す余裕のある者にしかできないのだ。

 そんな、現実の死以上の、実質的な死の暗く深い悲しみがそこには広がっていた。

 ○

 それから私は虚ろに日々を過ごした。月並みな言い方をすれば、世界から色が失われた。色彩だけじゃない、味覚や嗅覚といった実際的な感覚すらも失われた。感覚は鈍磨し、自分が上を向いているのか下を向いているのか、生きているのか死んでいるのかそれすらもわからない中で、ただ時間だけが過ぎていった。

 居場所を探して街に出た。通りを行く人達を眺めながら考える。ここにいる人々もやはりこんな悲しみを背負いながらそれを見せないで生きているのだろうか。私と同じなのだろうか。そう思うと私の曇った目に写る全ての人々が途端に愛おしく輝いて見えた。そんな希望が、美しさがそこにはあった。

 私は本気で人を愛そうとした。あの人に与えられなかったものを全て与えようと必死だったのだ。あまりにも独り善がりな思い込み。そうして何人かの人と交際をし、一緒にいろいろな場所に行き、愛の言葉を交わし合った。

 そして例外なく別れた。

 人に対する強烈な執着心、自分が与えさえすれば相手も自分に同じものを与えてくれると信じて疑わなかった。そうしているうちに相手の全てが気になるようになった。メールの返信が遅ければ自分の知らない誰かと会っているのではないかと疑心暗鬼になり、会えない日が続くと心が離れて行ってしまったのではないかと不安になる。好きになればなるほど相手の昔の恋人に嫉妬をする。そして街に出て幸せそうな人々を眺めると自分のままならなさに絶望しパニックを起こした。あの眩いまでの希望はとうに消え失せ、羨望と嫉妬を煮詰めたジャムのような塊が心にまとわりついて離れなかった。

 冬の空は白く冷たくて、それでも街は温もりで満ちていて、となりにいる人の温もりも感じられるのに、私は耐えがたい孤独感だけを募らせていった。

 結局、私は彼女らの中をただ通り過ぎてゆき、彼女らも私の中をただ通り過ぎて行くだけだったのだ。空虚を埋め合うだけの関係に誠実さはなかった。

 そして、別れが訪れる度に押し潰されそうになる、あの人の言った言葉に。呪いのようにこびりついて離れない、その言葉に。

 ――あなたって、前は音楽が好きだったのに、今では私の方が好きになっちゃったね――

 ○

 クローゼットの奥にしまわれたギター。ケースにはうっすらと埃が積もり、弦は錆び付いている。それをチューニングしてコードを鳴らしてみる。Fメジャーセブンス。数年ぶりだけど指はその形を覚えていた。

 ざらついた響きが部屋を満たす。思えば彼女はあまり感情を言葉にする性格ではなくて、「好き」と言葉で言われたことも数えるほどしかなかった。でも、私のギターだけはいつも言葉にして誉めてくれたのだ。それを、今になって思い出した。

 ――私、あなたの弾くギターがすごく好き。だからずっと私のそばで弾いていて――

 どうして今になってそんなことを思い出すんだろう、どうして忘れていたんだろう、どうしてもっと大切にできなかったんだろう。二度と戻らない美しい日々に、私は、私たちはたしかにいたんだ、どうしてそれに気づけなかったんだろう。あまりにも浅はかだ。

 あの日、私を玄関で見送った笑顔、時を刻む振り子時計。時間を巻き戻せたらって何度願っただろう。

 いくつもの後悔が窓から吹き込む風に溶けて流れ出していった。


 そうして、私は初めて涙を流した。

 ○

 私は音楽を作り始めた。楽譜も読めないし、歌詞にする言葉も持ち合わせていない。でも、吐き出したいものはある。縋れるものがそこにある。心に溜まった悲しみと後悔、それはきっと理屈では語れない私だけのオリジナルな物のはずだ。それはあの人が求めていたものとはおそらく違うものなんだろうけど。

 でも、きっとそれは、この茫漠な人生におけるたった一つの正しさなのだ。

 ○

 季節は冬、昨日降った雪は街を白く染めて陽光を乱反射している。思えば彼女と別れたあの日も街はこんな様子だったっけ。

 ギターを手にしたあの日から私は音楽を作り続けている。日々何かに追われ悩みながら、あなたとの思い出を反芻するように。

 もし、あなたが今の私を見たらどう思うだろうか、今の私のギターを聴いたら「好き」って言ってくれるだろうか。いつの日か、あの長い時間の記憶は消えて優しさだけがそこに残ればいいなんて、そんな感傷に浸りながら私は今日も歌詞を書き、歌を歌い、ギターを弾いている。

 なんでもない私のなんでもない音楽が、なんでもない誰かに届くんだってわかったから。だからこれからも続けていこうと思う。たった一人の、私だけのために。


 街を歩いている。となりを歩く人がいる。靴のゴム底はペチャと鳴って道路にかじりつく。すれ違う女性の左耳にイヤリングが揺れている。あの人のことを思い出す。


 さよならなんて、まだ云えない。


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